20、プロポーズ
「消えた!」
「消えた……?」
「消えましたわ!」
それぞれが同じことを口々に叫んだ。
ガチッ!
「こっちも斬れたぞ!」
すかさず、空気の壁を突破したミロスワフがアリツィアに駆け寄った。アリツィアに手を伸ばす。
「アリツィア! こっちへ」
「はい!」
アリツィアはためらいなく飛び込んだ。カミルもアリツィアを捕まえようと動いたが、アリツィアの方が一瞬早かった。
「ミロスワフ様!」
「アリツィア!」
ミロスワフはアリツィアを思い切り抱きしめた。
「あー、そういうの後でやってよ」
アギンリーが呆れたように呟き、アリツィアとミロスワフはぱっと離れた。
「お嬢様! ご無事ですか」
「旦那様のところに帰りましょう」
「ユジェフ! ロベルト! みんなありがとう!」
「アリツィア、こっちへ」
アリツィアを背に守るようにして、ミロスワフはカミルと対峙する。
だが、見るからにカミルは戦意喪失していた。
「なんかやる気無くしたなあ。もうどうでもよくなったかも。僕って、そんときの気分を大事にしたい方だから」
カミルに向けた剣を下ろさず、ミロスワフは告げる。
「どうせ、逃げるんだろ?」
「まあね」
「今度アリツィアに何かしたら、殺す」
「怖っ! さっさと逃げよっと」
渦は消えたのに、どうやって逃げるのだろうとアリツィアが思っていると、カミルの足元がだんだん薄くなっていった。
「えっ!?」
「なんだあれ!」
ユジェフとロベルトは驚いているが、ミロスワフとアギンリーは動じていない。慣れているのだ、とアリツィアは思った。
その間もカミルはどんどん消えていき、最後に目玉と口だけ残して、
「またね」
と消えた。
あっけなかった。
アギンリーたちが警戒しながら辺りを見渡したが、カミルの気配はもうどこにもなかった。
「魔力って不思議ね……」
アリツィアが思わず呟くと。
「今はね」
意味深なミロスワフの言葉が返ってきた。
「お嬢様、さあ戻りましょう」
「そうだわ、皆様、ありがとうございます……あの、ミロスワフ様、さっきのことなんですが、どうしてわたくしが考えることがカミル様の魔力に影響したのでしょうか?」
アリツィアは、どうして自分が思うだけで、空気の壁が斬れたり、渦が見えなくなったりしたのか、ミロスワフに聞こうとした。が、
「……もう少ししたらちゃんと説明するから、待ってほしい。今は、まず帰ろう。お父上が待っているよ」
そう言われ、腑に落ちないながらもアリツィアは頷いた。
バ二ーニ商会が迎えの馬車を用意してくれていたおかげで、アリツィアはすぐにクリヴァフ伯爵家に帰ることができた。
「お父様! イヴォナ!」
「アリツィア!」
「お姉様!」
この短期間で憔悴しきった父と妹に、アリツィアは駆け寄って抱きついた。
もし、わたくしに何かあったら、この二人は立ち直れなかっただろう。わたくしがそうであるように。
だからこそ、アリツィアは、父と妹に無事な姿を見せることができてホッとした。スワヴォミルはアリツィアを抱きしめて囁いた。
「……決算は手をつけずに置いてあるよ」
イヴォナも目に涙をためて笑う。
「ちゃんと伝えましたわよ、お姉様」
アリツィアも、泣きながら笑った。
そして、その日の夜。
アリツィアの救出に携わったものたち全員、クリヴァフ家で歓待を受けていた。
「不本意ながら、気を利かすよ。ただし20分だけだ」
スワヴォミルがそう言って、湯浴みしてドレスに着替えたアリツィアとミロスワフを客間に二人きりにさせた。
「私はアギンリー君たちとあちらで歓談しているからね。イヴォナに付いてもらうから心配はいらないよ。ただし」
スワヴォミルは最近手に入れた自慢の懐中時計をわざわざ見せつけて言った。
「いいか、20分だぞ! それ以上は許さないからな」
「お父様ったら……」
パタン、と扉が閉まると気詰まりな沈黙が落ちた。
ドロータに命じてお茶でも用意させようかとアリツィアが思っていると、ミロスワフが突然後ろから抱きすくめる。絞り出すような声がした。
「……本当に、無事でよかった」
回された手にそっと手を重ねると、込められた力が増した。
「来て下さって、ありがとうございました」
「行くに決まってる。何もできなかった僕のせいでむざむざ怖い思いをさせたのに」
アリツィアは、くるりと回って、正面からミロスワフを見据えた。
「わたくしが勝手にしたことです! サンミエスク公爵家にも随分とご迷惑をおかけしたのでは?」
「それは大丈夫。倒れたみんなは何があったか覚えていないらしくて。建物の不具合と、母上が突然病気になったということにして中止にした」
「そうですの」
「近々改めて舞踏会を再開するだろうけど、そんなことはどうでもいいーーアリツィア。君が無事に戻ったら、なんとしてでも伝えたいと思っていた」
ミロスワフは、アリツィアに突然その場で跪いた。アリツィアは驚いて固まる。ミロスワフは、アリツィアを見上げるようにして告げた。
「アリツィア・クリヴァフ伯爵令嬢ーーミロスワフ・サンミエスクと結婚していただけませんか」
アリツィアは真っ赤になって立ち尽くした。
「アリツィア?」
返事がないので、ミロスワフがちらりと上目遣いになる。アリツィアはようやく口を開く。
「……不意打ち過ぎますわ」
ミロスワフはアリツィアの手を取って甲に口付けする。
「本当は舞踏会で言おうと思っていた。君が同意してくれるなら発表もそこで」
「なんてこと!」
ミロスワフは立ち上がった。
「返事を聞かせてくれるかい?」
答える前に、アリツィアにはひとつだけ確認したいことがあった。胸の前で手を組み、ミロスワフを見つめる。
「ミロスワフ様……昔、一度だけ、大陸からこっそりミロスワフ様が来て下さったときのこと覚えています?」
それはミロスワフが20歳、アリツィアが16歳のときだった。
ミロスワフは苦笑する。
「もちろん。確か手紙で大ゲンカして。君が、もうこんなやり取りはやめましょう、と寄越したから焦ってこちらへ来たんだ」
大学の許可なく戻るのは重大な違反だった。ミロスワフは危ない橋を渡って、アリツィアに一瞬会うためだけに戻ってきたのだ。
「あのときもおっしゃってくださいましたよね。妻にするなら君がいいと」
「その通りだよ」
「でもわたくしは保留にしました。帳簿に夢中だから、と」
ミロスワフがアリツィアの手を自分の手で包んだ。
「そればかりが理由じゃないことはわかっていたよ。君は僕に気を使って身を引こうとしたんだろ? 僕がいろんな令嬢との婚約を薦められる時期だったから」
アリツィアは小さく頷いた。自分の娘とミロスワフと婚約させたい貴族はたくさんいるだろう。今だって。おそらく。
「ミロスワフ様は、星の数ほどの婚約を、勉強を理由に断り続けていると聞きました」
ミロスワフは少し焦った顔をした。
「もちろん嘘だよ? わかってるよね? 勉強が理由なんかじゃないとーー」
「はい」
「よかった!」
わざと大袈裟に安堵して見せるミロスワフに、アリツィアは小声で告げた。
「けれど、今でも同じ不安がないかと言えば嘘になります」
恥じてはいない。
堂々と生きてきたつもりだ。
だけど、自分の事情にこの人を巻き込んでいいのか。
この人を縛っていいのか。
いつも迷ってきた。
魔力がないということは、この国ではそれほど重い。
「どうか、正直にお答えください」
アリツィアはどんな返事でも受け入れる覚悟でミロスワフに聞いた。
「本当に、わたくしでいいんでしょうか? こんな、魔力なしの、帳簿好きなわたくしでーー」
言葉は最後まで紡げなかった。ミロスワフの唇が塞いだからだ。アリツィアは目をつぶる暇もなかった。短い接吻の後、ミロスワフはアリツィアをそのまま抱きしめた。強く。
ミロスワフの胸の鼓動の音を、アリツィアは直に聞いた。大きく、強く、響いていた。
「君しか考えられない。君以外とは結婚しない」
いつもより近くから声が聞こえる。アリツィアは、何も言えずに、ただ頷いた。