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第17話 保健室を護る者。

 曽我井(そがい)玻璃(はり)の指先が、慣れた動きで書類をめくっていく。保健室の大きな窓から差し込む優しい光に包まれながら、山積みになった書類の整理に没頭していた。一枚一枚に目を通し、時折赤いボールペンで書き込みを加え、新たな書類の山を左側に築いていく。
 玻璃は書類の山から目を離し、窓の外に広がる校庭を眺めた。この世界の自分は、こんな地道な仕事を黙々と続けてきたのだろうか。
 ()()()として目覚めた時、二つの人生の記憶が衝突し、一時は混乱したものの、すぐにそれらが同じ魂から分岐した自分自身だと悟った。
 波乱万丈だった前世の記憶が鮮明に残りつつ、今世の堅実な生活も確かに自分の一部となっている。この不可思議な融合を、玻璃は静かに受け止め、両者の長所を()かす道を探っていた。
 玻璃は、自分の楽観的な性格を思い返し、心強さを感じた。どんな状況でも立ち止まらない、その特性が今も自分を支えている。人生経験が倍増したことを考えると、これは間違いなく強力な武器になる。しかし、ふと思いが生徒たちに及ぶ。
 まだ若い彼らにとって、この二重の記憶は不安定さの源でしかないかもしれない。玻璃は、自分の役割の重要性を再確認した。
 だが、平穏な時間は、ドアの開く音で一瞬にして崩れ去った。そこに立っていたのは、顔面蒼白(そうはく)のモブ谷先生だった。全身が小刻みに震え、恐怖に取り()かれているかのように見えた。
「先生、どうしました?」
 玻璃が優しく声をかけた瞬間、モブ谷の目に狂気の色が宿った。彼は荒々しい息遣いとともに、玻璃の肩を乱暴に(つか)んだ。
「やめてください、落ち着いて」
 玻璃は穏やかな口調を保とうとしたが、その言葉はモブ谷の耳には届かなかった。モブ谷は、まるで理性を失ったかのように玻璃をベッドへと追い込んでいく。
 玻璃の直感が警告を発した。この状況は、もはや言葉では収拾がつかない。
 覚悟を決めた玻璃は、慈愛に満ちた表情でモブ谷の(ほお)に触れた。「大丈夫ですよ」と優しく語りかけ、その目を見つめる。モブ谷の気が緩んだ一瞬の(すき)を、玻璃は逃さなかった。
 躊躇(ちゅうちょ)なく、玻璃は素早く膝を上げ、モブ谷の股間を強打した。激痛に打ちのめされ、モブ谷は(うめ)き声を上げながらその場に崩れ落ちる。
 瞬時に後方へ身を翻した玻璃は、安全な距離を保った。両手を顔の前に上げ、ファイティングポーズを取る。
 モブ谷は、ふらつきながらゆっくりと体を起こした。頭を垂れたまま、壁を伝いながら、ふらつく足取りで保健室を後にする。その後ろ姿には、動揺と後悔の色が濃く(にじ)んでいた。
 玻璃は大きく息を吐き出した。緊張が解けるにつれ、手の震えを感じる。ゆっくりと椅子に腰を下ろし、目を閉じた。
「夜職時代の護身術の講習」
 玻璃は苦笑しながら独り言を漏らした。
「あんな付け焼き刃が役に立つとは」
 前の世界の経験が、思いがけない形で今の自分を守った。玻璃が、二つの世界の記憶が交差する不思議さを、身をもって体験した瞬間だった。
「けど、こんなん、チートよなあ……」
 玻璃は、机の上に置いたごぼう茶のペットボトルに手を伸ばし、軽く振りながら、その言葉を吐き出した。

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