46、元婚約者
決意したアリツィアの行動は早かった。
「アリツィア様って、たまに思い切ったことしますよね」
報告に来たロベルトが、すっかり執務室と化したアリツィアの続き部屋でお茶を飲んでいる。応接用のソファと机は相変わらず端に寄せられ、大量の書類が乗せられた書き物机が幅を利かせている。
アリツィアはロベルトが持参した報告書に目を落としたまま答えた。
「そう? ていうかたまになの?」
「たまにですね。舞踏会に出るときとかぐずぐずしてますから」
「ぶっ」
吹き出したのはドロータだ。アリツィアは顔を上げた。
「ドロータ?」
「……いえ、何でも」
ロベルトが助け船を出す。
「まあまあ、アリツィア様。ドロータは悪くないです」
ドロータが、さっとアリツィアとロベルトに焼き菓子を配る。
「ロベルト様、焼き菓子はまだありますから」
「あ、いただきます」
アリツィアは頬を膨らませた。
「そりゃ、確かに舞踏会に出るときはぐずぐずしたりドロータにうだうだ言ったりしているけれど、ロベルトが何故それを知っているの?」
ロベルトは焼き菓子に手を伸ばしながら答える。
「確かに、見たことはありませんけどね。舞踏会当日まで、散々愚痴ってるじゃないですか。行きたくなーい、帳簿だけ付けていたいって」
「……そうだったかしら?」
「そうですよ」
「うーん、いい香り」
どうも分が悪いので、お茶を飲み干すことに専念した。ドロータがおかわりを用意する。ロベルトの分も淹れながら、ドロータは聞いた。
「今日はユジェフ様はいらっしゃらないんですか?」
「上司から回される仕事が多すぎて、二人同時に店を離れられなかったんですよ。心配しなくても、次回はユジェフが来ますよ。交代で行くことにしたんで」
「……心配とかしてませんから」
ニヤニヤとしてロベルトが言うのを、ドロータがぎこちない態度で応じた。この二人、いつの間にこんなに仲良くなったのかしらと思うアリツィアだが、今はそれどころじゃなかった。報告書に目を通し、ため息をつく。
「ノヴァック男爵、カリシャー商会、ウラム伯爵……こうやって改めてリストにしたら、ジェリンスキ公爵家と繋がりがある貴族や商会は、赤字体質ばかりね」
「正直、それは僕たちも驚いてます。多いな、とは思ってましたけど、全部とは」
それらすべて、黒字化の目処も立たないのに、努力もしていないのだ。
ロベルトが頷く。
「ジェリンスキ家の名前をちらつかせるから、仕方なく融資していたけれど。今回、整理して良かったんじゃないですか」
アリツィアは数々の不愉快な対応を思い出した。
「……こちらに魔力なしの娘が二人いるというだけで、勝手に自分たちの方が偉いと思い込んでいた取引相手ばかりね」
「下っ端とはいえ、この辺が倒れていくと、ジェリンスキ家への影響も大きいんじゃないですか」
「そうあってほしいわね」
ジェリンスキ家の威光を借りている貴族や商会は、自らも甘い汁を吸う反面、自分たちの収入もまた、ジェリンスキ家に吸い取られているはずだ。
今回クリヴァフ商会が行なった債務整理で、彼らはジェリンスキ家に融通していた資金を用意できなくなる。
「揃いも揃ってもう少し待ってくれとジェリンスキ家に泣きついたら、きっと気づくわよね。クリヴァフ商会の存在に。そうしたら、カミル様の居場所と交換で融通してもいい、とこちらから持ち出せる」
果たしてそううまくいくかが問題なのはわかっている。アリツィアはもうひとつの作戦を確認する。
「発火装置の販売はどう?」
「そちらは順調です。魔力がない庶民だけじゃなく、一部の貴族にも評判がいいです」
「そうなのね!」
発火装置の浸透は、魔力保持協会を揺さぶるはずだ。そちらからカミルを引っ張り出せればいいのだが。
アリツィアは無意識に唇を噛んだ。
すると、そこに。
「それだけじゃ不十分じゃないかな」
聞き慣れた声が響いた。
「サンミエスク公爵!」
「ミロスワフ様?」
ミロスワフが入り口に立っていた。
「失礼。ウーカフに案内してもらったんだ。立ち聞きするつもりはなかったんだけど」
「まあ……こちらこそ気付かず失礼いたしました。どうぞこちらへ」
指し示した席に、ミロスワフはすぐに座らなかった。
向かい合ってアリツィアをじっと見つめている。
ーーというか、不意討ちすぎます!
アリツィアは思わず、ブルネットの髪を手で撫で付けた。ずっと仕事をしていたから、髪が乱れているのではないかと気になったのだ。そうだ、服も! 今日会うのはロベルトくらいだと思っていたから油断しましたわ。わたくし、何着てましたかしら?
アリツィアがせわしなく、髪や服に視線を落としているのを見て、ミロスワフは手を伸ばした。
「髪とか服とか、どうでもいいよ、アリツィア、こちらへ」
アリツィアが顔を赤くしてその手を取ると、ミロスワフは膝を折ってその手の甲に口付けた。
「久しぶり。我が元婚約者殿」
「ミ、ミ、ミロスワフ様!」
「ん? どうかした? ちゃんと婚約破棄のことは覚えているだろ?」
「そうですけど」
しかしこれでは婚約破棄をしていないのも同然ではないか。
ミロスワフは立ち上がって、微笑んだ。
「スワヴォミル氏からいろいろ感謝とお詫びの言葉をいただいたよ。君が何を考えているかわかっているつもりだ」
ミロスワフは、アリツィアに一歩近付いて、小声で囁いた。
「僕から逃げれるとは思わないで?」
アリツィアはぎくり、と背筋を強ばらせた。