45、決意
「それは……確かに予想外だったな」
「はい。驚きましたわ」
舞踏会の次の日、アリツィアは一部始終を父、スワヴォミルに話した。
本当はその日のうちに話したかったのだが、帰宅が遅くなったので、スワヴォミルの体調を慮って翌朝にしたのだ。
アリツィアが用意した温かいスープを飲み終えたスワヴォミルは、食器を下げさせたあと、再び枕に頭を深く埋めた。体力が保たないのだ。
それでも眼の光は日に日に増してきており、回復の予兆に、アリツィアや使用人たちは、揃って胸をなで下ろしていた。
ーーヘンリク先生のおかげだわ。
ヘンリク先生から送られた護符を身に付けてから、目に見えて良くなってきたのだ。
ーーそれも、そもそもはミロスワフ様がヘンリク先生を、ご紹介してくださったから……。
そう思うと、チクリと胸が痛んだ。だが、すぐに前を向いた。
アリツィアの決意を読んだかのように、スワヴォミルがわずかに目を細めた。重々しい口調で話す。
「……ありがたいことだが、それに甘えるわけにはいかないな」
「おっしゃる通りです」
アリツィアの返事は軽やかだったが、スワヴォミルは窓の外に視線を流した。落葉した木を見つめたまま、スワヴォミルは続ける。
「婚約は、家と家の重要な契約だ。一方的に破棄して、本来なら慰謝料を請求されても仕方ないのに、理解を示してくださるのは、異例だ。それを貴族社会が許すわけがない」
「はい」
「放っておけば、サンミエスク公爵家の信用にまで影響するだろう」
伝統を重視するこの国では、しきたりやルールを破ることは不利益でしかないのだ。そんなリスクのある行動を、サンミエスク公爵家にさせるわけにはいかない。
「お父様、ご安心ください」
アリツィアはスカートの上に置いた手を、父にわからないように強く握りしめた。
「わたくしからミロスワフ様の婚約を破棄した以上、元の関係には戻れないこと、覚悟しております」
スワヴォミルは何も言わなかった。やはり窓の外に目を向けていた。アリツィアは、父の横顔に向かって告げた。
「婚約破棄を正式に表明したら、イヴォナは戻ってくるはずです。それを見届けたら、フィレンツェに立つのをお許しください」
「……バニーニ商会か」
「はい。お祖父様は以前からわたくしかイヴォナにフィレンツェに来ないかとお声をかけてくださってました。お役に立てるかわかりませんが、なにか手伝わせていただけないかお願いしようと思っています。わたくし、商売から離れることが寂しかったので、ちょうどいいですわ!」
「……本当にいいのか」
スワヴォミルは、ここで初めてアリツィアと視線を合わせた。アリツィアは小さく微笑んだ。
「元よりご縁がなかったのですわ」
何かが喉の奥から込み上げてきたが、アリツィアは微笑みで上書きした。
「旦那様、アリツィア様、少しよろしいでしょうか」
スワヴォミルとの会話が一区切り付いたのを見計らい、ウーカフが丁寧に礼をして近付いてきた。アリツィアが振り返った。
「どうしたの?」
「実は、レナーテの具合がだいぶよくなりまして、旦那様とアリツィア様さえよろしければ、こちらに通してよろしいでしょうか」
「じゃあ、詳しいことが聞けるのね?」
腕の骨を折ったレナーテは、長い間、寝たきりだった。スワヴォミルと同時期に回復してきたということは、何かの呪いがかかっていたのかもしれない。
「もちろん、旦那様のご気分がよろしければですが」
「ああ、大丈夫だ」
すぐにドロータがレナーテを連れて部屋に入ってきた。
‡
包帯姿が痛々しいレナーテは、アリツィアが勧めた椅子に座り、低い声で話し出した。
「この度のこと……イヴォナ様を守れず、誠に申し訳ございません……それに、スモラレク男爵様のご親戚だと、嘘を付いたこと重ねてお詫びします。どんな罰でもお受けします」
スワヴォミルは、小さく頷いた。それを見たアリツィアはレナーテの正面の椅子に座り直し、手を取った。
「いいのよ、事情があったのでしょう?」
レナーテのぎゅっと結ばれた唇が、ゆっくりと動いた。
「わ、わたくしは、ここよりももっと田舎の、領地も小さな男爵家の生まれでして……」
さっきは落ち着いていた声が揺れていた。
「父が投資に手を出して、失敗しました」
アリツィアはわずかに眉を上げた。スモラレク男爵家と同じだ、と思ったのだ。
「借金のために、父は何もかも売らなければいけませんでしたーー私のことも」
「そうだったの……」
アリツィアは握った手に力を込めた。レナーテが顔を上げた。顎が震えていた。
「どうなるかと思ったのですが……こちらのお屋敷でお世話になることができて、本当に良かった」
レナーテの目から涙がこぼれた。
「イヴォナ様もアリツィア様も、ご苦労されてるはずなのに、魔力のあるどんな貴族のお嬢様達より、お優しくて、強くて……勇気をもらいました」
アリツィアは腕を伸ばして、レナーテを抱きしめた。レナーテは涙を拭うこともなく、続けた。
「なのに……なにもお役に立てなくて……わたくし」
「いいのよ、あなたが無事で良かった」
レナーテはそこから問われるがままに、イヴォナとレナーテがさらわれたときの状況や、カミルがどのようにレナーテを逃したのかをアリツィアたちに説明した。
一通り聞き終えたアリツィアは腕を組んだ。
「カミル様の狙いがわかりませんわね。お父様、どうお思いになります?」
「深い意図があるようでないのかもしれないな。思いつきで動くような男なんだろう?」
「以前はそうでしたけれど……」
ウーカフが口を挟んだ。
「僭越ながら申し上げますと、カミル様より、ジェリンスキ公爵家が厄介かと」
「どういうこと?」
「ユジェフとロベルトの話によると、ジェリンスキ公爵は、あちこちでアリツィア様とイヴォナ様の悪評を立てているそうです。それだけではございません。スモラレク男爵家や、このレナーテの家のような者の背後に、ジェリンスキ公爵家がある可能性が高いと。放っては置けないのでは?」
アリツィアはスワヴォミルと一瞬目を合わせた。先に言ったのは、スワヴォミルだ。
「ウーカフ、珍しいな」
寡黙で実直なウーカフがここまで口を挟むのはあまりないことだ。
「もしかして、怒っているの?」
ドロータが礼をしてから、口添えした。
「ウーカフ様は、わたくしたちのことをとても親身に思ってくださいますので。レナーテのことも」
ウーカフが静かに頷いた。
「私事ですが、そろそろ我慢の限界です」
そうね、とアリツィアは呟いた。放っておくのは得策ではないかもしれない。
ーーなによりサンミエスク家に類が及ばないとも限らないわ。
その決意に、時間はかからなかった。アリツィアは何かに集中する目つきになった。
「そうねーーそろそろジェリンスキ家を揺さぶりましょうか」
立ち上がって、微笑んだ。
「そしてカミル様を引っ張り出しましょう」