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(メェリャ氏、何か変でしたねぃ)

 小屋から締め出されたイルは、釈然としない顔をして、テオの元へ向かう。

「イル! 師匠とは何を話していたんだ?」
「……今日は遠くで遊んでおいでって話ですよぃ」

 テオはイルの言葉に疑問を浮かべる。

「いっつも小屋の近くで遊べって言うのに?」
「今日だけは特別だそうですよぃ」
「ふーん?」

 釈然としないまでも、ま、いいかと思ってしまえる精神性は幼児のそれと大差ない。
しかし確実に言葉は流暢になってきているし、さっき小屋を出る前に聞いていた舌っ足らずの発音はどこにも面影がない。

 テオの異常な成長は、イルも感じていたところだった。
まるで、早く元に戻らねばならぬと急いでいるよう。

(下手な刺激を与えて、最悪な方向に向かなければいいんですがねぃ)

 イルはテオに手を引かれ、小屋から離れていく。
向かう先は森。普段なら止められて入らない場所だ。

「師匠、なんか変だったから! 栄養のつくものを持って帰りたい」
「多分メェリャ氏は体調不良じゃ……」
「ん?」
「何でもないですぃ」

 イルは口をつぐんだ。
テオは森の果物をもいではその両腕いっぱいに抱えていく。
心底心配しきっている顔を見たら、イルは何も言えなかった。



 ―― 一方その頃。
ここから離れた小屋の中で、メェリャは修羅場に陥っていた。

「いきなり人の家にズカズカと。礼儀ってものを知らないの?」
「この家に大罪人がいることは、すでに調べがついている。早く身柄を引き渡すんだな」
「何度も言ってるでしょうが。そんな人いーまーせーんー!」

 彼らは鎧を纏う、恐らく兵士。
鎧に示された国家の柄が、どこの国の者かを教えてくれる。

 獅子の双頭、鷲の羽。茂る青葉に世界樹の枝。
隣国、リガルド王国の兵士だ。

 彼らはテオたちが向かった方向とは逆。
あの丘の向こうからやって来た。

(テオたちは……。イルがいるから大丈夫でしょ。兵士共、外にも溢れているし、違和感は気付けるはず)

 不安なのは、兵士たちがテオたちのいる森に気が付くこと。
気がついてもいい。そこにいると知られなければ。
ただ、怖いのは。

「ぐっ!」
「吐け! こっちはいつでもお前を殺せるんだ!」

 自分が身動き取れない内に連れてこられること。
連れてこられて、目の前で害されること。

(そんなの、絶対にさせない!)

 なけなしの力を振り絞り、メェリャは抑えつけている兵士の手に魔法をかけた。

「うわっ?!」

 目の前で手が発火した兵士は思わず手を離してしまう。
その隙をついてメェリャは距離を取る。

「無詠唱っ……!」
「友達がとんでもないバケモンだとね! そばにいる人間も釣られるのよ!」

 とはいえ、メェリャが放てるのはそれ一度きりになるだろう。
 無詠唱魔法は詠唱する魔法よりもずっと精密なコントロールが必要な上、必要な魔力も桁違いに違う。
魔力の不足を詠唱が補っているイメージだろうか。
それをさらに杖などの媒介を使って道筋を作る。
 無詠唱は、それら一切を魔力で補おうとするのだから、それはそれはとんでもなく燃費が悪い。

「痩せ我慢か?」
「まさか」
「虚勢張るなよ。顔色悪いぞ?」
「まさか不法侵入者に体調の心配をされるとは思わなかったわ」

 事実である。
今、メェリャは魔力欠乏の一歩手前でギリギリ踏みとどまっている。

(もし次に無詠唱で魔法を放つときがあれば、その時は)

 きっと私は。
覚悟を決めた。その時だった。

「メェリャー! ただいまー!」
「ばっ、ちょ、テオ氏! 早く離れるんですよぃ!」

 呑気に帰宅を知らせる声と、これ以上ないほど焦ったイルの声。

「白銀色の長髪。女」

 兵士が呟く。
鎧の奥で、その目が獰猛に光った。

「捕らえろ!」
「させない!」

 テオがうっかり顔を出した裏口を背に、台所に置いてある包丁を手に取る。

「脅しか?」
「まさか」

 包丁に魔力が集っていく。
目の前の兵士も、外にいる兵士も、裏手に回って、今、まさにテオを捕らえようとしている兵士も全て標的にして。

「殺すつもりよ」
《炎の竜よ。全て燃やし尽くせ》

 包丁から飛び出すのは、炎のドラゴンを幻視する太く長い渦。
それは兵士を蹂躙せんと暴れようとする。
だが。

「……あ……?」

 それは消滅する。
代わりに、自分の腹に見えるのは鈍い銀色の光。
テオの髪よりも濁った銀色の刃物。

 腹が熱い。
吐き気と認識できない内に、口から飛び出すのは赤い塊。
血。
血。
血。

「師匠!!」

 テオの叫び。
外で揉み合う気配がする。
倒れる視界に映るのは、テオの髪の毛に掴みかかる兵士と、必死に引き剥がそうとするイル。
修羅場にもかかわらず、無我夢中でこっちに来ようとしている、馬鹿弟子(テオ)

「こ……ち、来んな、馬鹿……弟子……」

 魔力なんてもうほぼ無い。
命だってあと僅かと感じている。

 どうせ死ぬなら。

 風が起きる。
鋭い風切音。2度目の無詠唱魔法。
 それは兵士とイルの間を切り裂き、テオの髪を切断する。
 地面にバッサリ落ちる髪。
解放されたテオ。取り押さえるイル。
再び手を伸ばしてくる兵士の顔面に向けて、イルは土を投げつけて視界を奪う。

「ちっ! ちょこまかと! おい、秘薬を持ってこい!」
「はい!」
(秘薬……?)

 息も荒く、生命の灯火がもうすぐ消えようとしているメェリャだが、その単語だけは妙に耳に残る。
理由も分からない嫌な予感がしたから。

「聖女様の御業(・・)だ。これはどんな傷も立ちどころに癒し、生きてさえいれば虫の息の患者をも蘇生させる秘薬だ」
(そんな薬、あるわけがない。お伽噺の代物だ)

 反論しようにも、口から溢れるのは掠れた息と吐血だけ。
 持ってこられた薬瓶。
嗅いだことのない不気味な臭い。それから、嗅ぎ慣れた強力な睡眠薬の匂い。
これを少しでも口にした瞬間、意識は夢の中に誘われてしまうこと請け合いだ。

「この女はその罪人を抑えておくのに使える! 生かして抑制材にする!」
(は?)

 まるで人を人とも思っていない物言い。
メェリャはそれに腹を立てるより先、テオの邪魔をしてしまう可能性を危惧した。

(させない)

 彼女は最期の力を振り絞り、机の脚に体当たりをする。

(させない)

 勢い余って顔面を切ってしまったようだが、最早些細なこと。

(そんなこと、絶対に)

 机の上にあったものが転がる。
それは床に叩きつけられ、中身が派手に飛び散る。
その中の一つ、どす黒い紫色をした液体に、メェリャは顔を突っ込み舐める。

(させてたまるか!!)

 脳に走る危険信号。
これ以上無いほどの苦痛に、メェリャの口から泡が噴き出す。

「何をした!」

 秘薬とやらを飲ませようとしてくる兵士。
メェリャは頑なに口を閉ざし、床から顔を上げないよう固まる。

 直に自分は死ぬ。
その確信と共に、メェリャはそっと目を閉じた。

「やだ、やめて、イル、離して、離せ、離せ!」

 テオの叫び声が聞こえてくる。
人が倒れる音が聞こえてくる。
周囲の喧騒。兵士が殺されたとか、そんな感じの内容が、薄らぼんやり聞こえてくる。

 きっと、イルだろう。
テオは、人どころか、アリも殺せないくらい優しい子だから。

(ああ。イルに任せて、正解だったかも)

 テオにはできないことが、彼ならきっとできるはず。
そんな予感が、メェリャにはあった。

「師匠ーっ!!!」

 声が、テオの気配がどんどん離れていく。
メェリャは薄く口角を上げた。

(ちゃんと、逃げてね)

 上げた口角の端から、薄い言葉が溢れていく。
終ぞ言えなかった。ずっと言いたかった。

「あ……い、し……」

 言葉は途切れる。
喉が、頭が、もう動かない。
それでも心が叫んでいる。
たった一言、叫んでいる。

(愛してる、テオ)

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