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「……追っ手は撒けましたかねぃ」

 命からがら逃げ出した先は、あの森を抜けた先の町で拾った乗合馬車。
イルとテオ、それから御者しかいない馬車の中で、彼らはひっそりと身を潜めていた。

「テオ氏、いつまでも泣いていたって仕方ないですよぃ。これからどうするか考えねぇと……。……テオ氏?」

 啜り泣く音が聞こえてきていたが、あまりにも反応がない。
イルは思わずテオの様子を確認する。
すると、テオは、メェリャから押し付けられた荷物の中の本を読み耽っていた。
月明かりの下、読みにくいだろうに熱心に。

 馬車が止まる。

「お客さん、今日はもう遅いんで、ここらで野宿になりますが」
「分かりましたよぃ」

 周辺を見渡せば、いい感じに小高い木が茂っている。
イルは馬車を降りて、野宿できる場所を作りに歩く。
テオはまだ本を読んでいる。

(何か思い出の品なんですかねぃ)

 比較的平らな地面に荷物を放り、ランタンを灯す。
ぼんやり明るくなったところで、木と木の間に紐を通し、布を引っ掛ける。
四隅に杭を打ち込み、布端を縛った紐をそこに括ってピンと張る。
その中に寝具代わりの布を敷き、荷物を詰め込めば野宿用天幕は完成する。

 薪を拾い、積み上げて火を付けようと、石を2つ取り出す。
火付け石をカッチカッチ鳴らし、火花を上げる。
綿かと見紛うほどフワフワに削いだ木に、火花が燃え移る。

「うわっちちち……」

 素手で掴み、それを積んだ薪の細い部分に置き、燃え移るように空気を送る。
そうして苦心していれば、いつの間にか火は暖かく周囲を照らしていた。

(軽くでも何か腹に入れておかねぇと、後々しんどいですからねぃ)

 テオがあの時もいだ果物を剥く。
一口大に切り揃えられた果物たちは、大きめの葉の上に並べられた。

「お客さん、支給品だ」
「ややっ、これは嬉しいですねぃ」

 御者が支給品として、小分け用の襤褸(ぼろ)に幾ばくかの食料を包んで持ってきた。

「ではあっしも。心ばかりですがぃ」
「お、助かりますわ」

 代わりにと、イルは残った果物をいくつか御者に押し付ける。
御者はほくほく綻んだ顔で持ち場に戻っていった。
 ひとまずこれで、朝ご飯の心配をすることはないだろうとイルは思う。
 旅人は相互互助が大切だから。
一方の手を振り払えば、以降は助けてもらえない。
 裏を返せば、最低限の礼儀と助け合いの精神を見せることができれば、食うことだけは保証されるだろう。

 襤褸を開く。
カチカチの干し肉が二枚。塩ひとつまみ。それから干し麦が少し。

(一般的な旅食ですねぃ)

 火を使えないときはそのまま食べざるをえないが、イルは旅用に誂えた小さな鍋を取り出し入れる。

(あ、水……)

 鍋に入れる水がないことに気が付き、御者にもらいに行こうと立ち上がると、テオが立っていることに気がついた。
まるで幽鬼のようなテオのその顔色は悪い。

「テオ氏、こっちに来て火に当たりなせぇ」
「……ん」

 ぽて、ぽて、とゆったりした動作で隣にやって来ると、静かにそこに腰を下ろした。

「あっし、水をもらいに行ってきますねぃ」

 イルが入れ違いに立ち上がれば、テオは弱々しい声で弱々しい呪文を吐く。

「《水よ》」

 瞬間、鍋の中に水が満たされる。
イルは二度、三度、鍋とテオの顔の間に視線を往復させた。

「テオ氏……。魔法、使えたんですねぃ」
「……ん」

 テオはそれ以上何も言うこと無く、黙って火が揺れる様を眺めている。

 バチバチ焚き木が爆ぜる音。鍋の中身がくつくつ煮える音。
干し麦がどろどろに、干し肉が柔らかくなった頃。
それを器によそい、テオへと渡す。

「テオ氏。晩飯ですぜぃ」

 塩味のする麦粥を匙で掬う。
無言で食べながら、横目でテオを窺う。
 テオはしばらく器の中に視線を落としていたが、やがてもそ、と食べ始めた。
それを見て、ほっと息を吐く。

「果物もありますぜぃ」
「……うん」

 無理やり千切られたためか、不揃いで中途半端な長さの白銀が顔にかかる。

「その髪、切りそろえてもいいですかぃ?」

 少しの沈黙。
やがてテオは、か細い声でイルに要求する。

「……短くして」
「……お安い御用ですぜぃ」

 しゃき、しゃき。
ナイフで髪を削ぐように落としていく。
イルも慣れていないから、ざんばら切りとなってしまうのは仕方がないと言えよう。
それでも、不揃いなところからはいくらかマシになってきただろう。

「……師匠が残してくれた本を読んだんだ」
「……えぇ」
「……作った解毒薬、効果が無いって思ったんだ」
「……どうしてそう思ったんですかぃ?」
「……使った毒花の処理を間違えたけど、茹でたことで微毒化はできたと思ったから」

 でも、違った。
押し殺した声で細く絞り出す。

「本に書いてた。あの花は、微毒化できなければ、紫色に発色するんだ」
「それは教えてくれなかったメェリャ氏が」
「違う。わたしが悪い。師匠が瓶を落とさない場所に置いておけば、ああならなかった」

 髪を整え終わる。
髪が長かったときの面影は薄れ、どこか精悍な雰囲気が滲んでいる。

「わたしが殺した……っ!」

 血反吐吐きそうな声で仮面を外す。
見るも無残に引き攣ったケロイド状の皮膚の上を、荒々しく袖で拭う。

「ずっと考えていた」

 涙に未だ濡れる声でぽつりぽつり語り始めるテオの声。

「なぜ師匠が死ななければならなかったのか」

 僅かに震える声が、段々とはっきり芯を持ってくる。

「そうしている内に段々、段々と鮮明になっていった」

 イルはまさか。と呟いた。
テオはイルを見て頷く。

「今まで失っていた記憶(もの)。思い出せたんだ」

 無理やり上げようとして、不格好な角度で固まる唇の端。
その笑みはとても似合っていなかった。

「わたしの、このクソみたいな役目と使命を」

 それ以上に、なんと悲しいことだろう。
泣きたいのにそれが許されない、見えない重圧を、彼女は背負ってしまったようだった。

「思い出したんだ」

 テオは仮面を下げる。
元の位置に戻った仮面の奥に、黄金の強い光が見える。

「ごめん、イル。わたし、行かなきゃならない」

 イルは眉を下げる。
彼女のこれからの道は、きっとトゲだらけの茨の道であることは、容易に想像がつく。ついてしまう。

「全て放り出して、ひっそり穏やかに暮らす道だって、きっとあるんですよぃ?」

 だからこそ、イルは止めた。
それでも、テオは頑として首を縦には振らなかった。

 月を背に。
照らす月明かりに白銀色が映える。
ああ、なんて綺麗なのだろう。
神秘的なその光景の中で、イルはぼぅっと彼女を見つめていた。

「それはできない。だって、わたし――」

 月の光が彼女を照らす。
柔らかな祝福と決意の光が白を、白銀を照らしていく。

 紡ぐ言葉は()の声。

「――聖女だから」

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