第2話
風呂でしっかり温まり、男に体を拭かれて家の中に運ばれる。玄関で一度下ろされ、靴下を履かされた。椅子に着けるやつ。
玄関から一つ扉を開けて最初の部屋は、二人掛けのソファと二脚の椅子、テーブルがあった。リビング的な部屋だろう。奥にはキッチンがあり、リビングの様子が見えるようになっていた。
「家に入って何がしたいんだ?」
「めー」
鏡が見たい。俺の羊姿はどんな感じか確かめたいのだ。
そう伝えようとめーめー鳴くものの、男は首をかしげて「腹減ったのか」と言う。確かに色々と驚きすぎて空腹感はあるが、それよりも己の姿が大切だ。かっこいい羊でありたい。
「飯用意するから、その辺でおとなしくしてろよクロスケ」
そう言って男はキッチンに引っ込む。今がチャンスと部屋から出ようとすると声が飛んできた。
「クロスケ、部屋からは出るんじゃない」
「めぇ」
なるほど。リビングとキッチンが繋がっているタイプは、子どものいる家によいという意味が分かった。監視される側となると厄介だ。
おとなしく、ソファに座る。少しかためのクッションが、なかなか好みだ。
することがない。なので、キッチンの様子を覗き見る。
男の胸辺りから上は見えるが、その下は見えない。手元を見ているのは分かった。とんとんと小気味のよい音が聞こえるので、何かを切っているらしい。
そういえば、デフォルメ羊は何を食べるんだろうか。先ほどの集団では、ちらほら草を食べているやつらがいた。元の世界と同じく草食であれば、肉が食えないのでは? それは困る。俺は肉も魚も好きなのだ。
「めぇー」
ソファから飛び降り、キッチンに行く。入るのは衛生的にどうなのかと、聡い俺は外から声をかけた。
「まだできてないぞ。もう少し待ってろ」
「めめぇ」
少し見せてくれるだけでいいのだ。肉の有無を確認させて欲しい。肉がなければ、俺は一人で狩りに行く。
「仕方ないな。ほら、切れはしやるから」
男はそう言って小皿を差し出した。乗っているのは赤い……何だこれは。
匂いを嗅ぐ。甘い。
男を見る。男はもうこちらを見ておらず、調理を再開していた。
少し舐めてみる。味はない。本当に何なんだこれは。
おそるおそるかじってみる。すると、匂いの通り、甘い味がした。
もう一口、大きめにかじる。噛むと甘い汁が口の中に溢れる。りんご……いや、梨か。食感はりんごで、味が梨。名付けるなら「なしんご」。
……。
切れはしのくせして、皮に包まれたりんごと同じ色をしている梨味の果実。うん、嫌いじゃない。おいしい。
いい気分で食べ進めれば、あっという間になくなってしまう。また騒いで催促するか……いや、大人な俺の心がそれはよくないと言っている。
おとなしく男が気付くのを待っていると、男が両手に皿を持ってこちらを向いた。
「クロスケ、運ぶからそこどいてくれー」
「めぇ」
素直に従い、リビングに戻る。男が床に皿を置いた。
「食ってろ」
中を見ると、葉っぱ、果実、何らかの固形物。固形物は黄色く、匂いはチーズ。少しかじる。うん、チーズ。
つまるところ、これはサラダだ。ということは俺に肉は与えられない。この世界の羊も、元の世界と同じく草食らしい。チーズは食うけど。
あとで狩りに行かなければと思いながら、サラダを食べる。祖母の家で食べた、採れたて野菜づくしのサラダと同じ味。新鮮でうまい。けれど肉は欲しい。
皿を空にして、ソファに上がる。背伸びをすると、机上の料理が見えた。
俺と同じくサラダ。そしてパン、スープ、肉。肉がある。
「めえめえめえめえ」
「うわ、なんだなんだ」
肉を寄越せと騒いでみる。が、やはり伝わらない。
「おかわりはないぞ……。このサラダもお前には味が濃すぎるし」
「めえ」
後ろ足で立ち、前足をテーブルに乗せた。伸ばし、肉を盗ろうとする。
「こら。いたずらするんなら、外だぞ」
「めっ」
鏡を見ていないのに追い出されるのは困る。まだ俺のかっこいい羊姿を確認できていないのに。
「めぇ……」
すみませんでしたと鳴きながら頭を下げる。男は「よし」と言って、俺の毛を撫でた。
男が皿を洗うのを、ソファに乗って眺める。人間であれば手伝ったが、羊の俺ではどうすることもできない。
やはり、早く人間に戻らなければ。
つい先ほどまでは、神的な人が戻してくれるのを待とうと思っていたが、肉が食べられないのならば話は別だ。肉に限らず、しっかり味付けされたものが食べられないのはつらい。元から薄味派ではあったものの、やはり自然の味だけでは飽きてしまう。
となれば、人間に戻る他ない。それに、人間であれば男と意思の疎通もできるし。
しかし、どうすれば戻れるのだろう。神的な人曰く、「お主の努力次第」。つまり、俺が頑張れば戻れるらしい。何を頑張れというのか。
うんうん唸っていると、もふりと触られた。
「クロスケ」
「め」
「風呂入ってくるけど、おとなしくしてろよ」
「めえ」
男を見送り、水音が聞こえてくるのを待つ。ザーッと、毎晩聞いていた音が聞こえたところで、俺はリビングから抜け出した。
シャワーの音がする方へ向かう。風呂場なら、きっと鏡があるだろう。戻るための努力もしなければいけないが、とりあえず己の姿を確認しておきたい。
風呂場の扉を開く。引き戸なので開けやすい。開けると、洗面台と洗濯機。現代的だ。
奥に一つすりガラスの扉があり、そこからシャワーの音が聞こえる。男が出る前に自分の姿を確認したいが、洗面台の鏡は遠すぎる。
いっそ男に見つかれば、追い出すために持ち上げられるだろう。その一瞬で鏡を見たらいいのでは。なるほど、俺はあまりにも賢い。
「……うお、クロスケ。お前、リビングにいろって言っただろ」
「めえ」
おとなしくしていたから許して欲しい。
「まったく……」
男はため息を吐き、タオルを首にかけた。すると、その一部が光る。タオルを洗濯機に放ると、着替え始めた。
どうやら、あのタオルは瞬間乾燥機的な機能が付いているらしい。確かに、俺も風呂上がりにタオルで軽く包まれただけで、さっぱり乾いていた。便利な世の中だ。
着替え終わった男に抱え上げられる。目論み通り鏡に俺の姿が映った。
「……めえ」
黒い。
男からの呼び名で薄々分かってはいたが、俺の毛は真っ黒だった。そうか、黒か……。
「めっ」
黒もかっこいいから問題ないな。赤の方が好きではあるが、黒もかっこいい。よし。
「もう寝るぞ」
色について考えている間に、寝室まで運ばれていたようだ。男は言うと、床に毛布を置き、その上に俺を下ろした。
「夜は化け物が出るから、外に出るなよ……って、知ってるか」
「めえ」
知らないが。
「それじゃあ、明かり消すぞ。おやすみ」
男が電灯を指差すと、ぱちりと明かりが落ちた。スマートホームだな。
「めえ」
挨拶をして、毛布の上で丸くなる。今日は眠いから、おとなしく寝よう。人間に戻る方法は明日考えればいい。
『ヨウタ……ヨウタよ』
微睡みながら暖かい空間を漂っていると、頭の中に声が響く。薄く目を開けると、二度目の眩しくない白の世界。
「めえ」
神的な人からのお呼び出しらしい。俺はしっかり目を開く。
『お主にプレゼントだ……受け取れ』
その声と同時に、目の前に光の玉が現れた。触れると、しゃぼん玉のように弾けた。
『その瓶を満たせば……お主は元の世へと帰ることができる』
「め!」
なんと! それはいいものをもらった。
『途中で嬉しい特典もある……頑張るのだぞ』
「めえぇー」
待て待て。瓶を満たすための方法は教えてくれないのか。
『これ以上は言えぬ……決まり事だ』
そっちのミスでこんな状態にしておいて……。
『……ヨウタよ……全てはお主の努力次第……頑張るのだ、ヨウタよ』
声が遠ざかっていく。だんだんと意識が遠くなり、真っ白い世界は見えなくなった。
「めっ」
はっ、と目を覚ます。立ち上がって辺りを見回せば、眠る前と変わらない男の部屋。一歩踏み出すと、冷たいものに当たった。神的な人からもらった瓶だ。とりあえず毛布の上に乗せておく。
ベッドに乗り上げ、窓を覗いた。
外はまだ暗い。
夜にじっと目を凝らすと、ちかり。何かが光った。その正体を探る。大きな影が動いた。
闇に紛れる黒く、巨大な体。光る無数の斑点。典型的な「化け物」が、確かに存在し、うごめいていた。
「めえぇ……」
瓶を満たすための方法。まさか、あれを倒すとかではないよな? もしそうであれば、俺は神的な人を憎んでも憎みきれない。
そういえば、とカラフルを探す。デフォルメ羊たちは大丈夫だろうか。視線を巡らすが、それらしいものは見当たらない。食べられた? いやまさか。あんな大勢の羊たちを食べるなんて……できそうなくらい、化け物はでかい。
「めぇ、めえ」
男を起こす。牧場主、一大事だぞ。
「どうした、クロスケ……」
窓を叩く。
「うん……? なんだ、ひつじたちか。お前も夜は群れに入っておきたかったのか?」
「め?」
「え?……まさかお前。群れにいたことがないのか」
「め?」
「小さいのは個体差と思っていたが、群れとはぐれて飯が食えなかったからなのか。やけに人懐っこいのも、警戒することを教える親がいなかったから……」
まず、あの化け物が羊なことに驚いて。次に男がぶつぶつ言い出したことに困惑して。何なんだ。落ち着いて欲しい。
「めえ」
「そうか。そうだったのか……」
「めえ」
「クロスケ!」
男が俺を高く掲げる。
「もう大丈夫だ……。お前はもう、一人じゃない!」
「め、えぇ……」
「俺のひつじはお前の家族だ! 俺も、お前の家族だっ!」
男の瞳に炎が浮かんだ。
「俺が、お前を! 立派なひつじにしてやるからなあ!」
「めぇえー……」