1、プロローグ
その日のお茶の時間、クリヴァフ伯爵スワヴォミル氏は、長女アリツィアににこやかに言い放った。
「アリツィア、君ももう18だ。そろそろ結婚した方がいいと思って縁談を用意したよ」
「はい?」
——またそんな唐突に。
父の思い付きからの行動には慣れていたアリツィアだったが、これにはさすがに驚いた。
だが、貴族の娘の適齢期からすれば、早過ぎる訳でもない。
まずは話を聞いてみようとアリツィアは、手にしていたカップとソーサーをテーブルの上に戻し、スワヴォミルに向き合った。
「正直、まだ結婚したいとは思えないのですが、お父様がどんな方を選んでくださったのか興味はありますわ」
スワヴォミルは頷きながら、側に控えていた執事のウーカフに合図を送る。
「これへ」
ウーカフが厳かな態度で肖像画を運んできた。
はらり。
誰の手も触れていないのに、かけられていた布がゆっくりと外れていく。
——お父様が魔力を使っている?!
その事実にアリツィアは緊張した。いつもの父ならこんなことで力を誇示したりしない。縁談の相手がよほど優れた人で敬意を払っているのだろうか。直接手で触れることをためらうような。
「見てごらん」
父の声に、アリツィアは息を止めて肖像画に目を向けた。
「あれ?」
偉そうでも怖そうでもなかった。描かれていたのは、アリツィアの予想以上に弱々しい、痩せた白髪の老人だ。
「これはまた……人生経験が豊富そうな?」
「ジョバンニ・ムナーリ。ムナーリ商会の会長だ。アリツィアも名前くらいは知っているだろう」
「まさか、ベネツィアの貿易王の?」
「その通り」
「質問してもよろしいでしょうか?」
「もちろん」
「こちらのお孫さんが婚約者なんですのね? 何かの事情でお孫さんの姿絵が間に合わなくて代わりにこれを。そういうことですね?」
頼むからそうであってくれと、すがるように聞くアリツィアに対して、スワヴォミルは軽快に答えた。明らかにこの状況を面白がっている。
「いいや? 正真正銘、この人がアリツィアの婚約者候補だよ。お前より40歳上だったかな? 3回目の結婚で、前の奥方たちとの間に子供と孫がいる。商人だから魔力はないね」
「それでは嘘や冗談でなくこちらが本当に私の婚約者候補……?」
「そうだよ」
「お断りします」
「早いね」
「いくら政略結婚でもこれはありません! お父様よりも年上で、もはやお祖父様じゃないですか」
「嫌なの?」
「嫌です」
「じゃあ、自分で相手を見つけなさいね」
「うっ」
痛いところを突かれて、固まるアリツィア。スワヴォミルは容赦なく続ける。
「私だって可愛い娘を道具のように扱いたくないよ? アリツィアが自分で殿方を見つけてくれば、向こうがどんなに嫌がっても裏から手を回して結婚させてやろうと思っていたぐらいなんだ」
「ちょ、そんなこと考えてたんですか? 嫌がってもって?! どんな手を使う気だったんですか?!」
「まあいろいろ。なのにお前ときたら、社交界が苦手だとか言って、私の仕事を手伝ってばかり。いや、ありがたいよ? ありがたいけど、帳簿付けにハマって婚期を逃したら責任感じるじゃないか。申し訳ないなー、みたいな?」
「責任の感じ方が軽い……」
「で、結婚だよ。一般的な貴族なら、もっと高位の貴族に娘を嫁がせたりするんだろうけど、うちは魔力の多寡にこだわらないじゃん? だから思い切って商人との結婚はどうかなーと思って」
スワヴォミル自身はかなりの魔力持ちなのだが、ある日、運命的な出会いを果たした商人の娘であるブランカと、身分差を超えた結婚をしたため、娘たちの魔力は少ない。
それならいっそ魔力にこだわらない生活をしようと、貴族にしては珍しく商売に力を入れており、ここ20年ほど、領地経営とは別に、金融と貿易を扱っていた。ブランカが10年前に亡くなってからは、アリツィアがそれを手伝うようになったのだ。
当初は子供だったこともあり、書類整理ぐらいしか手伝えなかったアリツィアだが、自分で見聞を広め、最近では新しい提案もできるようになった。特に、この前から採用した新しい仕組みの帳簿付けはかなりの良案で、わかりやすく利益が把握ができるとスワヴォミルも満足だ。
アリツィアは、再びカップを手にした。
「正直、社交界に出るより、帳簿に向かう方が楽しいんです」
「私としてはかなり助かっているんだよ、それはわかってほしいんだけど、このままじゃ、いつまでお姉様をこき使うつもりだって、私がイヴォナに怒られるからねえ」
「……この場所にイヴォナがいないのはなぜかと思ってましたけど」
「”私が口を挟んだら、二人とも叱り飛ばしてしまうから遠慮する”だそうだ」
アリツィアが仕事面で母の代わりをしているとしたら、2歳年下の妹のイヴォナは家政面で母の代わりをしている。姉妹は仲良く、お互いの役割を尊重していて、何の問題もない。が、イヴォナは少々、アリツィアに対して心配性なのだ。
「たまにどちらが姉かわかりませんものね……イヴォナの気持ちには応えてあげたいんですけど」
「じゃ、ムナーリ翁と結婚する?」
「嫌です。ムナーリ様が悪いわけじゃありませんし、40歳年上の人と幸せな結婚生活を送る人もいると思います。ただ私は……」
ただ、私は。私には。
その続きが言えなくて固まっていると、スワヴォミルが笑みを浮かべた。
「アリツィア」
ヤバい。
アリツィアは直感で悟った。
伊達に畑違いの分野で結果を残してきたわけじゃない。スワヴォミルはときに、冷酷なほど的確な判断を下せるのだ。
「ただ嫌というだけじゃ誰も納得しないよ。ムナーリ翁と結婚するか、自分で相手を見つけてくるか。どちらかにしなさい。この社交シーズン中に」
「短っ! 短すぎます! そんな短期間で見つけられません」
「そのときはムナーリ翁と結婚したらいいじゃないか。何の問題もない……ウーカフ、あれを」
ウーカフが一枚の紙をアリツィアに手渡した。
「シーズン中、声がかかっている夜会や舞踏会、お茶会のリストだ」
「これに参加して相手を探せ、と?」
「サーヴィスだ。親心だよ。もちろん貴族じゃなくて商人でもいいけど」
魔力の強さが権威の象徴であるこの国で、クリヴァフ伯爵家は貴族の中で唯一と言っていいほど、魔力に頼らない生活をしている。だからこそ、娘の結婚相手に商人を、という発想にもなる。
アリツィアは心底悟った。自分で決めなければいけないことを。40歳年上の異国の商人との結婚か、苦手な社交界、あるいはそれ以外の場所で見つけた誰かとの結婚か。
——どっちも難易度高え!!
だが、こうなったら腹をくくるしかない。アリツィアはリストを手に父を見つめた。
「わかりました」
「いい婿を頼むよ」
アリツィアは最後にひとつだけ、ずっと気になっていたことを口にする。
「お父様、さきほど……肖像画の布をウーカフにさせるのではなく、ご自分の魔力で外しましたわよね? なぜですの?」
「ああ、あれ? ウーカフが最近肩を痛めていてね。高いところに手を伸ばすのが辛そうだから」
隣のウーカフが頭を下げた。
「旦那様のご配慮に感謝致します」
「あ、そうなの?! それだけ?」
「何だと思っていたんだ?」
「いいえ……ウーカフ無理しないでね」
「ありがとうございます」
しかし、用心深いこの執事が肩を痛めるなんてことあるだろうか。もしくは、主人の手を煩わすくらいなら無理してでも手を伸ばしそうだ。
あれも父の演出ではないか?
何のために?
アリツィアを苦手な社交界に飛び込ませるために。
もっと言えば、自発的に結婚に踏み切らすために。
——やられた!
悔しさを誤魔化すように、アリツィアはお茶を飲み干した。
すると、ぬっと音もなく人影が現れた。
「お話はまとまりましたか? それではお姉様、お針子を待たせているのでこちらへ」
「って、イヴォナ?! あなたいたの? どこに?」
「そこの壺の後ろよ」
「遠慮するんじゃなかったの?」
「だから、口を挟まないようにしていましたわ。さ、早く」
話をすべて聞いていた様子のイヴォナが物陰から現れ、アリツィアを問答無用で連れ出した。スワヴォミルはそんな姉妹の様子を目を細めて見送った。