不語 鬼子 前編
夜遅くなった街道を歩く者あり。半人半妖で、方向音痴の
今は、
物騒に思えるかもしれないが、案外野宿している者の持ち物を盗む者はいない。
遊行は、懐かしさを覚えた。今日は、ここで野宿をしよう。そして、目を瞑れば、旅の疲れもあってか、すぐ眠りについた。
昔むかし、ヒトが踏み入れてはいけない、龍神の森があった。そこには、その名の通り、その森には龍神がいらっしゃる。龍神は、人々に水の恵みを与え、近くの山の噴火や、鉄砲水、土砂災害から守って下さる。その他にも神々や妖怪がいると信じられていた。
近くの村の娘・
「龍神様、貴方様の住まう地へ踏み入れてしまった、愚かな私を許してくだされ」
しかし、もう手遅れであった。
急いで
ギャーギャーと妖怪か何かの声がした。藻掻く
バサバサと、翼の羽ばたく音が聞こえた。そして、いきなり影が差したのだ。そのことに気がついた
鳥の妖怪に攫われた
「ひひひ。久しぶりのヒトじゃ」
「しかも、若い女子よ。楽しみじゃのう」
「皆の者、俺に感謝しろよ」
麓の村では、若い娘がいなくなったと、騒ぎになっていた。病がちの母を思い、薬草を摘みに出かけたが、数日帰ってこなかった。娘は神隠しにあったのだと、村人たちは決めつけた。しかし、いなくなった
黄昏時に、村に帰ろうとした
「
「母上、ご心配をおかけしました。されど、神隠しにあった方が良かったのかもしれません」
母と
翌日には、
病弱な母親のために、近い小さな村に母娘は住んでもいいかを訊ねた。病弱な者がいるにもかかわらず、追い出そうとする者はいない。聡明な村長は、この母娘に何か事情があることを察する。彼女たちを憐れんだ村長は、空き家を一軒紹介した。母娘はそこに住まわせて貰うことになった。
母娘が移り住んでから、二月が経った。
ある日、
翌日、
「
夕方帰ってきた
「お腹の子の父親は誰なんだい?」
「これ、
医者に診せたくても、医者には通えなかった。何故なら、また噂になってしまうからだ。
早いうちに手を打とうと、
村人たちは、
あの事件から十ヶ月が経った。
三人は、人里離れた場所に空き家を見つけた。竈もあり、雨風も凌げる。何よりも、人目に触れないことが一番だった。
それから六ヶ月が経った。
更に七ヶ月の月日が流れた。通算して二年七ヶ月である。これは、普通の妊娠期間が十月十日なのだが、その三倍の期間だ。もう、
ある丑三つ時に、
力んでも力んでも、お腹の子は中々出てこなかった。
正午ごろ、やっと赤子の頭が出てきた。血塗れの頭には毛が薄ら生えている。
逢魔が時になり、
「
鬼子を洗い終えた
「ははは。くたばったか、化物め」
斧が刺さった鬼子は、目を見開いた。そして、そのままゆらゆらと起き上がり、倒れこんだ。
「まんま」
あまりの恐ろしい光景に、おわは狂死した。
斧の重さに、鬼子はよろめいて、尻もちをついた。どうにも頭の上が重くて痛いのだ。
「うー」
唸りながら、鬼子は頭の上に手を伸ばし、確認するように触っていると、何かが刺さっていることに気がついた。鬼子は、身を返したりしているうちに、なんとか斧が外れる。
鬼子は、屍二体に近寄った。それぞれ揺すってもピクリともしない。鬼子は、這い回り、家を出る。頭の傷は、閉じつつあった。
鬼子は、家の外を出ていく。喉が乾き、腹が空いていた。川の方へ這ってきて、水を飲もうとした。しかし、顔を水面に近づけると、ごろりとそのまま川へ落ちてしまった。鬼子は、己がどうなっているのかも分からず、ただ息苦しさを覚えた。腹を空かせていたのが良かったのか、沈むことなく浮き上がる。赤子は泣き叫び、川下へと流れていった。
子どもが授からない夫婦がいた。二人は毎日のように、朝に夕に神仏に祈った。
妻が川で野菜を洗っていると、子どもの声が聞こえてくる。ハッとした妻が辺りを見回すと、川上から子どもが流れてくるではないか。驚いた妻は、ずぶ濡れになるのも構わず、川へと入った。幸いなことに付近の川は浅い。妻は流れてくる子どもを拾い上げた。
子どもは、とても大きくて丈夫な裸の男の子である。年は一歳くらいだろうか。体が大きいのに、生まれたてのような赤い顔をしている。息はあるが、体が冷え切っていたので、手拭いで体を拭いてから包んだ。そして、帰る道中は子どもを擦りながら、急いでわが家へ戻り、子どもを温めた。
妻は、薪割りをしていた夫に、川上から子どもが流れてきたことを報告する。妻の話を聞いて、夫は驚き、子ができない自分たちへの授かりものだと思った。きっと川上で飢饉か何かがあり、口減らしのために子どもを流したが、幸運にもその途中で溺れ死ぬことなく、妻の目に留まったのだろう。急いで家へと帰り、子どもを見た。
二人は急いで湯を沸かし、子どもを風呂へ入れた。そして、夫は、近所の子どもがいる家へ行き、訳を話して、使わない子どもの服を数枚、譲ってもらった。家に帰ると、子どもは風呂で温まり安心したのか眠っていた。妻が嬉しそうに、子どもを寝かしつけているのを見ると、夫の胸をじんわりとさせる。
二人は子どもを育てることにした。「捨て子は良く育つ」と言う通り、丈夫に育つと考えられている。運よく川に流されても死ななかった子どもなら、強運も持ち合わせているだろう。名前は何にしよう。二人は子どもを見ると、穏やかに眠っている。なんとも可愛らしい寝顔に、二人は頬が緩むのであった。考えた末に、二人は「
夫婦は、周りの人に子育ての仕方を教わりながら、捨吉を育てた。その甲斐もあってか、捨吉はすくすくと丈夫に育った。捨吉は、同じ年頃の子どもよりも大きく、目鼻立ちがはっきりしている。そして、力があり、優しい。なんと将来有望な子どもなのだろうか。我が子の成長ぶりを見て、夫婦は嬉しくなるのであった。
捨吉を拾ってから、七年の月日が経過した。捨吉は、病一つすることのない、元気な少年へと成長した。
捨吉について、夫婦には二つ悩み事があった。それは、迷い癖と、夜に歩き回ることである。迷い癖は酷く、家にも辿り着けないことがあるので、夫婦は家の庭に栃の木を植えた。
とある日の夕暮れ時のことである。捨吉の村に、行者がやってきた。捨吉一家が、農作業から家まで帰る途中のことである。捨吉の義父は、行者に話しかけた。
「これはこれは行者様。どちらから参られたのですか」
「拙僧は、
「日が暮れると危のうございます。今宵は、わが家にお泊りになられてはどうでしょうか」
「ありがたきお申し出、かたじけない。貴方様に、御仏の加護が有らんことを祈りましょう」
行者は、捨吉の家に泊まることになった。行者は、捨吉のことをじいっと見つめている。そして、捨吉の義父に話しかけた。
「あの子は、拾い子ですか?」
「えっ。よく分かりましたね。そうなんですよ。七年前に、川から流れてきたあの子を拾ったんです。わが家には、子が無かったものですから、嬉しかったもんです」
「あの子は何か癖がありますか?」
「そうですね。迷い癖と、夜に歩き回ることですね」
「歩き回る?」
「ええ。時々、丑三つ時に起きだして、どこかへ行くんですよ。ある日、おいらが『捨吉、厠か?』と声をかけても、寝惚けているんだか答えもせずに、ふらふらと出ていったんです。追いかけたら、厠ではなく、そのまま村の中を歩き回ってたんで、驚いたんですが……」
行者は、捨吉の癖の話を聞いた途端、考え込んでしまった。行者から見て、捨吉は何か不思議なものでもあるのだろうか。捨吉の義父は、義母の手伝いをしている捨吉を、不安そうに眺めた。
その夜、丑三つ時のことである。捨吉が、何かにおびき寄せられるかのように、ふらふらと母屋から出てきた。今宵は新月であり、月明りのない闇が広がっている。捨吉は、この何も見えないような暗闇の中を、よろめきながらも真っ直ぐに歩いていく。村の外へ出ていこうとしたとき、背後から声がした。
「小童、そこから先へは行ってはならぬよ」
行者である。彼は、捨吉の癖を聞いて、今宵もその癖が出てくるのかと、眠らずに見張っていた。そして、捨吉が家から出ていくのを見て、追いかけてきたのだ。持っていた錫杖がシャラリと鳴る。捨吉がピクリとする。すると、村の外の茂みから、声がした。
「誰だい。わっちの邪魔をする者は……」
行者は、声のした方を見た。闇夜の中から現れたのは、八つの脚に八つの目、大きな
「わっちの糸を切ろうなどと、無駄なことをする」
絡新婦は、幾重にも纏めて鋼の如く強靭になった糸を、行者へ向けて飛ばした。行者は、ひらりと身を躱し、後ろへと跳んだ。
「夜な夜なこの子を、その糸でおびき寄せていたのか?」
行者は問いかけた。その間にも絡新婦は、糸を手繰り寄せて捨吉を自分の近くまで来させた。そして、無数の脚で眠る捨吉に絡みついた。更に、絡新婦は捨吉の顔の横に、自分の顔を寄せた。
「そうさ。なんせこの子はヒトと妖の子だから、誘いやすいんだよ」
「なんだと!?」
行者は驚いた。捨吉からは、他の者からは感じることのない、異様さを感じていた。それがなんだかは皆目見当がつかなかった。その異様さの理由は、捨吉がヒトと妖の子であったからなのだ。行者は、捨吉への理解を深めるために、更に絡新婦へ問いかける。
「その子を呼び寄せて、何をしているんだ」
「この子はヒトよりも生気が強いけど、何分未熟だから、今のうちに唾をつけているのさ。今は、この子を通して村を探り、村の男どもの生気を喰らっているがね。待ち遠しいねぇ。早く喰いたいもんだよ」
絡新婦は、四つの目で行者を見ながら、捨吉の頬を舐める。捨吉はされるがままだ。捨吉が余りにも絡新婦に近すぎて、行者は動けなかった。この絡新婦、隙が無いのだ。
「そうだ、今宵はあんたを喰っちまおうかねぇ」
絡新婦は、脚の一本を行者に向ける。行者は怯むことなく、絡新婦に錫杖を向ける。一触即発の空気が、絡新婦と行者の間に漂う。絡新婦は、糸を行者へと放つ。糸は、行者の錫杖に絡まってしまった。行者の力では、強靭な糸を引き千切ることができない。ずるずると絡新婦の方へと引きずられてしまう。
行者は、腰に括りつけていた法螺貝を取り出して、高らかに吹いた。法螺貝の音は、如来の説法の声を象徴する。そして、魔を祓う効果があった。絡新婦に効くかどうかは分からないが、一縷の望みをこの法螺貝の音にかけたのだ。一瞬、法螺貝の音を聞いた絡新婦は怯むが、特に変わった様子はない。
「はん。そんな貝笛の音がわっちに効くもんか」
絡新婦は、大きな口でにたりと笑った。行者は、法螺貝の音が絡新婦に効かなかったので、険しい顔をしている。首にかけている念珠を手に取り、構えの姿勢をとった。そんな時、絡新婦の脚に抱きつかれていた捨吉が目を覚ました。法螺貝の音で驚き、起きてしまったようだ。捨吉は絡まれていた糸を難なく千切って解き、脚の合間を縫ってから、行者の元へ駆け寄った。怖かったのか、行者の後ろに隠れ、
「小童、何故わっちの糸が切れた」
絡新婦が捨吉に問う。その声は大きくもないのに、びりびりと空気が揺れる。捨吉は怯えながらも答えた。
「知らない。なんとなく切れた」
絡新婦の催眠に使う糸は、攻撃などに使う糸よりも強度が劣る。法螺貝の音は絡新婦自身には効かなかったが、捨吉の催眠を解くには効果があったのだ。催眠が切れてしまえば、糸は脆いものなのだ。絡新婦は折角の獲物が逃げたので、少し狼狽している。その隙を、行者は見逃さなかった。行者は、経を唱えながら
「ぎいいいやあああああ」
絡新婦は、金切り声をあげた。行者は、そのまま
「あ、ありがとうございました」
捨吉は、深々と頭を下げて、行者に礼を述べた。行者は、満面の笑みを浮かべた。
「いや、こちらも君に礼が言いたいほどだ。どうもありがとう」
一番鶏が鳴き、深い闇だった空が明るみ始めた。行者は捨吉の手を取り、家へと向かう。行者は捨吉に訊ねた。
「捨吉くんは、あの蜘蛛を知っていたのか?」
その問いに捨吉は、こくりと頷く。そして答えた。
「あの大きな姿ではなかったけど、この前、夕暮れ時に村の境に大きな蜘蛛の巣が張ってあったんです。それに引っかかったことがあります」
なるほどと、行者は納得した。夕暮れ時とは逢魔が時のことであろう。村の境に巣を張り、獲物を待ち構えていた時に、捨吉は引っかかってしまったので、絡新婦は捨吉を利用したのだ。
「他に、何か妖の類で困ったことはないかな」
行者は、更に捨吉に問いかけた。捨吉は、ゆっくりと答える。
「昔から、亡者や妖が見えたんだ。でも、周りは気がついていないみたいで、言えなかったんです」
行者は、繋いだ捨吉の手が、震えているのが分かった。捨吉を見ると、顔を俯かせ、繋いでいないもう片方の手は、着物の裾を強く握っている。捨吉の足元には、水滴がぽたぽたと落ちた。声を殺して泣いている。人知れず、この幼い子は恐ろしいものと向き合ってきた。しかも、今回は見るだけでなく、実際に襲われたのだ。絡新婦が、この子はヒトと妖の子だと言っていた。ヒトでもなく、妖でもないということは、ヒトとしても妖としても生きてはいけない。この子は生気が強く、妖気に敏感だ。幼いながらも体躯に恵まれている。行者は、捨吉に退魔の力を身に着けさせようと考えた。行者は、捨吉の正面に向かい、視線を合わせた。そして、出来るだけ優しい表情を浮かべて述べた。
「辛かっただろう。だけど、君の生涯でこういったことが何度も起きるだろう。これからそういうことが起きた時のための術を、拙僧と共に習得しないかい?」
捨吉は目を見開いた。そして、行者に問う。
「それって、おっとさんやおっかさんと離れなくてはいけないのですか?」
行者は静かに頷いた。まだ、年端もいかない子どもだ。取り分け、この子は親に愛されて育ったことだろう。親と離れることに対して、未練があるのだ。どうにも迷っている捨吉に、行者は目を細める。
「今すぐでなくてもかまわないさ。幼いうちは、親に甘えるのも孝行だ。これを持っているといい」
行者は、捨吉の頭を優しく叩く。そして、数枚の木簡を捨吉に渡した。木簡は、いわゆる護符であり、厄除けになるものである。捨吉は、木簡をまじまじと見つめている。
「持っていれば、低俗な妖魔からなら、君を護ってくれるだろう」
家に戻った行者と捨吉は、捨吉の両親と共に朝食を食べた。絡新婦に襲われた話は、二人にはしない。朝食を食べ終えると、行者は部屋に捨吉の両親を呼んで、二人と話した。捨吉は霊や妖が見えること。霊や妖に憑りつかれやすいこと。護符を持たせたこと。両親は、信じられないような話であったが、黙って聞いていた。ひと通り話終えると、行者は出立の準備を整えた。
いざ、出立という時、行者は捨吉に話しかけた。
「捨吉君。数年の内に、また来よう。その時には、あのことを考えてくれ」
「あのこと」とは、妖魔に対する術を習得することであろう。
「必ず、必ずここへやって来る。それまで、元気で暮らすんだぞ」
そして、行者は捨吉の手を取り、己の小指と捨吉の小指を絡ませた。捨吉は戸惑ったが、約束を厳守するための風習なんだそうだ。捨吉は、ぎゅっと胸元で木簡を握る。捨吉の中では、返事はもう決まっていた。笠を掲げ、行者は歩いていく。その姿を捨吉はずっと見つめていた。今度お会いできるときは、行者に弟子入りすると心に誓った。しかし、行者は捨吉の元へ来ることはなかった。約束した後、妖怪に殺されてしまったからだ。
四年の月日が流れた。捨吉は、数えで十三歳になろうとしていた。もう、大人ほどの身長があり、落ち着いた優しい性格もあって、村人達に愛された。また、捨吉は、自分が夫婦の実子ではないことに、薄々気がついていた。その確認は未だにとれてはいない。
捨吉のいる村に、法師が一人やって来た。多くの峠や街道を通って、はるばる来た彼は、一軒の家、いや一人の子を探している。彼は、一人の村人に声をかけた。村人は、法師よりも背が高く、立派な体格をしていた。
「すんません。愚禿は
「捨吉なら俺ですけど……」
「お前かい。子どもや聞いとったけど」
「何故、俺のこと知ってるんですか?」
捨吉は見知らぬ法師を怪しむ。法師と名乗る銘安は、見るからに胡散臭いのだ。髪はぼさぼさで、服装は汚れがちでよれよれ、無精ひげも生えている。そして、服装からは酒の匂いがした。恐らくは腰に吊るしてある瓢箪だろう。銘安は、捨吉が訝しんでいるのも気づかずに、答える。
「ああ、行者の
「格宗さん?」
「四年位前に行者が来よったろ。そのお方や」
捨吉はピクリと反応する。
「なんで、行者様じゃないんですか?」
銘安は、後頭部を掻き毟りながら、捨吉の問いに答える。掻き毟った頭からは、頭垢や虱が飛び散った。
「格宗さんは、妖怪退治の際に亡くなった。その前に、愚禿にお前のこと頼みよった。せやから来たんや」
捨吉は、驚き悲しんだ。あんなに優しくて強いお方が亡くなったことが、信じられなかったのだ。痛いくらいに両の拳を強く握り、戦慄いた。涙が零れてしまう。
「……ないと嫌だ」
「うん?言いたいことははっきり言いや」
「行者様じゃないと嫌だ」
捨吉は、顔を上げ、はっきりと言った。銘安の顔色が変わる。そして、捨吉の胸倉を掴んだ。
「それ、本気で言っとるんか」
銘安は声を低くして、怒りの形相で捨吉に言った。銘安は、この時本気で怒っていた。そして、捨吉の頬を叩いた。
「我儘言うなや。死んだ人間は帰ってこうへん。せやけど、生前の未練は残る。そんだけ慕っとるんなら、何故その未練を晴らそうとせんのや。それが一番の供養じゃろ」
捨吉の目からは、涙が溢れて止まらなかった。その場にしゃがみ込んで、大きな体を小さく丸め、声を殺して泣く。その傍らに銘安は座り、捨吉の頭を抱き寄せた。
「叩いてすまんかったな。格宗さんは、愚禿を助けてくださったんや。そうでなければ愚禿も死んどった。『報恩』って言葉がある。二人で格宗さんの恩に報いたろ」
先ほどとは異なり、銘安の声は優しくなった。捨吉は泣きながら、深く深く頷いた。
夕暮れ時になり、銘安と捨吉は、捨吉の家へと向かった。捨吉の義母は、驚いてしまった。それは、捨吉が見知らぬ法師を連れ、頬が腫れて泣き腫らした顔で帰ってきたからだ。
「捨吉や、その方はどなた?何かあったの?」
義母は、心配そうに捨吉に訊ねる。捨吉は答えにくかった。己が悪いと理解しているからだ。銘安は、一歩前に出てきて、捨吉の義母の問いに答える。
「愚禿は銘安と言います。妖怪退治を生業にしている破戒僧です。知り合いから、幽霊や妖が見える逸材がいると聞いて、畿内(京の都の周辺。現代の京都・大阪・奈良)から来たんですよ。そんで、その逸材が子どもや聞いとったんですが、愚禿よりも大きくて、『愚禿より大きいやないかい』とツッコミ入れたら泣いてしまって。大人気ないことしました。本当にすいません」
銘安は、腰を直角に曲げて、義母に謝った。義母は困った顔で銘安を見つめている。義父が農作業から帰ってきて、四人で話し合うことにした。銘安は、捨吉の家に泊まることになる。
「ところで、銘安さん。貴方が畿内から、捨吉を探しに来たということですが、誰の紹介ですか?」
「四年前に行者の格宗さんってお泊りになったでしょ。そんで、この子が霊や妖が見えるからって、木簡を渡したって聞いとります」
「ああ。あの行者様か。覚えております。半信半疑だったのですが、あのお方の御陰で、息子の夜に歩き回る癖が無くなったんですよ」
「本当は格宗さんが迎えるのが一番なんでしょうけど、格宗さん殺されてしまいまして……」
「そうでしたか。捨吉、このことについて、お前はどう考えているんだ」
捨吉は、膝の上の拳をぎゅっと握って、両親に体を向ける。
「おっとさん、おっかさん。実は、行者様と約束をしていました。数年の内に必ず来るから、その時までに考えていてほしいって。ずっと俺の中ではもう決まってて、行きたいと思ってました」
両親は驚いた顔をしている。まさか、捨吉がそこまでの覚悟を決めていたことに気がつかなかった。親の知らないところでも子は成長するものだと、感心する。捨吉は、両親に平伏した。
「おっとさん、おっかさん。お願いします。捨吉は、銘安様の元で修行したいと思っています。どうかお許しください」
両親は、黙って聞いている。義父は腕を組み、少し悩んだ後に言った。
「わかった。捨吉にそこまでの覚悟があるのであれば、そうしなさい。今まで言わなかったが、お前は拾い子でな、おっとさんとおっかさんが拾ってきた子どもなんだ。しかし、実の子のように大事に思っている。おっとさんとおっかさんは、お前の覚悟を信じ、送り出そう。そして、辛かったなら帰ってきなさい」
「おっとさん、ありがとうございます」
捨吉は、義父に感謝を述べた。義母は黙って聞いている。
話し合った結果、捨吉が銘安と共に旅立つのは七日後になった。旅立つための準備を親子は進めていく。義父は、捨吉の履く草鞋を丹精込めて作り、義母は、脚絆を縫った。二人とも、捨吉が怪我をしないように願いを込めた。
銘安は、その間に滝で体を洗ったり、刃物で髭を剃ったりして身なりを整えていた。最初とは違う有り様に捨吉は驚いた。
あっという間に日は過ぎ、捨吉が出立する日がやって来た。身綺麗になった銘安は、両の拳を床につけ、堂々とした態度で礼をした。
「捨吉君のご両親、愚禿が責任をもって、大事な息子さんをお預かりします。捨吉君であれば、きっとよく妖怪を退治する者となるでしょう」
「不束な息子ではありますが、どうぞよろしくお願いします」
捨吉の両親も深々と頭を下げて挨拶をする。銘安は、最初に会った時とは別人のようだ。今日は畿内訛りが出ておらず、丁寧に挨拶をした。捨吉の両親にしてみれば、大事な一人息子を預けるのだから、それに礼節をもって答えるのが、銘安の流儀であった。人が変わったような銘安を見た捨吉が、呆けたように見ていた。それを見透かしたのか、銘安は捨吉の頭を手で強く押さえつけた。
「お前も挨拶しいや」
押さえつけられた捨吉は、額と鼻を床にぶつけた。そして、三人を真似るように手を顔の下に持ってきて挨拶をした。
「えっと……おっとさん、おっかさん、長い間お世話になりました。捨吉は銘安様と一緒に旅をして、強くなります。どうか、いつまでもお元気でお過ごしください」
拙いながらも、捨吉の挨拶を聞いた両親は、涙を大量に流していた。
挨拶を終えた捨吉は、両親に見送られて銘安と共に旅立った。両親の寝る間も惜しんで作った脚絆と草鞋を、捨吉は身に着けている。両親は無理したような笑顔で見送った。
「ほな、行くで」
銘安は、捨吉の背中を平手で叩いた。
「おっとさん、おっかさん、さようなら」
手を振りながら、捨吉は歩き出す。そして、前を向き歩き出した。両親の声が聞こえてきたので、振り返ろうとしたが、それは銘安が許さなかった。
「歩き出した以上は、振り返ったらあかん。それがこの道に入る覚悟いうもんや」
銘安の声が低いことに驚いた。そうだ、もう歩き出したのだ。捨吉は、胸元で拳を握り、両親への思いを自らの中に押し殺した。そして、自らの歩む道を全うする覚悟を決めた。迷いのない目で、銘安の方を見る。
「ところで師匠、これからどうするんですか?」
銘安は口角を上げて言う。
「それでええ」
旅を始めた銘安と捨吉は、辻にある岩に腰掛けて一休みをした。そこには大きな木があり、木陰になっていて気持ちがいい。捨吉は、今までこんなに歩いたことがないので、疲れてしまった。捨吉は、竹の水筒の水を飲む。喉を通り抜け、体のあちこちが潤う初めての感覚に、「五臓六腑に染み渡る」という言葉の意味が分かる気がした。ぷはあと息を吐き出すと、疲れが抜けて気持ちよくなった。捨吉が水のおいしさにご満悦でもう一口水を飲んでいると、銘安は話しかけてきた。
「ところで、お前の名前変えようや思うんやけど」
捨吉は魂消てしまった。驚いて、水が気管や鼻の管に入ってしまい、咳き込んだ。鼻の奥がツンと痛む。咳き込みながら、捨吉は問う。
「何故ですか!?」
「いやあ、お前の名前、あんまり縁起よくないねん。吉を捨てるに通じるからなあ。妖怪退治は縁起って大事なもんで、名前も無視できんのや。命名っていうのもあって、縁起のいい名前か否かは人生を左右するで」
十年以上その名前で呼ばれてきたので、捨吉には違和感はなかったが、そう言われてみればと、納得のいく話であった。相手は超常の生き物であるから、縁起でもって運を味方にするのも、妖怪退治には大事なことなのだろう。
「では、どういった名前がいいんですか?」
捨吉は、身を乗り出して銘安に尋ねた。銘安は、人差し指を天へ向けて話し始めた。
「そうやなあ。『
「ゆぎょう……」
漢字の知識が無い捨吉は、銘安の言う名前の意味が分からなかった。銘安は一本の小枝を拾ってきて、土に書き始めた。捨吉は、銘安の書いた「遊」と「行」の字をまじまじと見つめる。銘安は小枝を持ったまま、それぞれの字を差しながら説明した。
「こっちの字は遊ぶ。興の赴くままに楽しむとか、ぶらぶらするとかいう思い込みが強いけど、学問を修め、見聞を広めるっちゅう意味もある。そんでこっちの字は行く。どっかへ行くとか、人のする行いのこっちゃ」
捨吉は、銘安の説明を頷きながら聞いた。続いて、銘安は小枝で二つの字を丸で囲んでから差した。
「二つ合わさると、あてもなく歩き回るとか放浪するって意味もあれば、修行のために諸国を巡り歩くって意味もある。」
「その名前って縁起がいいんですか?」
新しい名前の意味は理解できたが、いまいち縁起のいい名前だとは、捨吉には思えなかった。今の名前よりはいいことだけは理解できたが。特に、捨吉は己の生来の迷い癖を自覚しているため、なおさらそう思ってしまった。
「正直どっちにもとれるやろ。無意味に歩き回っとるのか、有意義に修行をしとるのか。せやから、それはお前の行動と考え方次第っちゅうこっちゃ」
銘安は小枝の先を捨吉に向け、口角は上がっているが、真面目な顔をして捨吉を見つめている。師匠の底知れない凄みに、ぞくりと寒いものが捨吉の背骨を駆け上った。捨吉は新しい名前について考えた。己の行動と考え方で、意味合いが変わるという名前。今まで他人よりも損していると思っていた迷い癖も、考え方次第では有意義なのかもしれないと、前向きな気持ちになった。そして、なんとも言えない昂揚が捨吉の中に湧きだした。捨吉は、隣の銘安に体を向けて、深々と頭を下げる。
「師匠、いい御名前をお与え下さり、ありがとうございます。捨吉改めこの遊行、頂いた御名前を大事にしたいと思います」
銘安は、弟子が名前を気に入ったようで嬉しかった。この「遊行」という名前は、実は格宗が付けた名前であり、捨吉のことで、格宗が銘安に託したことの一つである。
「ほな、そろそろ行くで」
銘安は、一休みを終えて重い腰を上げた。捨吉も立ち上がり、師匠の後ろをついて歩く。
こうして、捨吉改め遊行は、新しい生涯を始めたのである。彼にとっての長い永い旅の始まりだ。