石畳の呪い
次の日に目覚めると、私は体を少しも動かせなかった。
金縛りかと思ったが、そうではなかった。
全身が筋肉痛だったのだ。足の爪先から、首元まで、指先を動かそうとするだけで鈍い痛みがある。
その上、熱もあるようで、視界がぼんやりする。熱特有の視界が勝手に移動していく感じだった。眼球が勝手に動いてしまっているのだ、と頭が勝手に推論を働かせる。
舐めていた。パリの石畳を舐めていた。ペッタン靴で、テンションの赴くままに歩いていたツケが、早速次の日にやってきたのだ。
子どもみたいにはしゃいでいたが、すっかり体は老化していたのだ、とまた勝手に頭が動く。
カズナリ君は大丈夫だろうか?
ラインをしてみる。
すると、すぐにドアがノックされる。
私は重い体をジリジリと動かして、壁に手をつきながらドアのロックを解除した。
「サエさん?」
ドアが開く。おでこにドアがぶつかる。
「あう」
私はまったく抵抗力なく、尻もちをついた。
「サエさん!」
「だ、大丈夫だから、ちょっと筋肉痛で熱あるだけだから」
上半身を起こすための力もろくに入らない。
カズナリ君が揺れて見える。体を支えられる。
「解熱剤飲めば、すぐ良くなるから。ルーヴル行こうね?」
「わかった、わかったから」
まるで子どもをあやすように、私のうわ言をカズナリ君は流す。
カズナリ君はまた私をお姫様抱っこして、ベッドに連れて行った。
「ゆっくり休んでくださいねー」
その声に従って、沈むように、私は眠ってしまった。
額に冷たい感触がして、目が覚めた。
「あっ、起きた」
カズナリ君が間近にいる。腕を私の頭に伸ばしている。
「きもちい・・・」
「下で氷もらってきたから」
頭にタオルが置かれ、その上に氷水の入ったビニール袋を載せられている。けど、不安定だからか、カズナリ君はずっと手で支えているようだった。
「腕、疲れない・・・?」
まだぼんやりする頭で聞いた。時間感覚も狂っていて、さっきから何時間経ったかもわからなかった。
「ちょっとしたトレーニングだと思ってるから平気だよ。むしろ、トレーニングチャンスをありがと」
そう言って微笑む。
私は少し笑って、少し泣けてきた。情緒が変だ。並列に感情が出てきてしまう。
「大丈夫?どこか、辛い?」
カズナリ君が、タオルで涙を拭いてくれながら言った。そのタオルはもう使った跡があって、私の汗を拭いてくれていたのだとわかった。
「ごめんねぇ。せっかくパリまで来たのに、こんなことになっちゃって」
異様に情けなく感じてしまう。
「良いよ。また来ようよ」
「ゔん」
鼻水がつまる。
「はい、チーンして」
カズナリ君がティッシュを鼻に持ってくる。
「うう」
私は仕方なく、鼻を言われたとおりに出す。
「はい、よく出来ました」
鼻の周りを丁寧に拭かれる。カズナリ君はどこかうれしそうに言った。
「・・・なんで、こんなに優しくしてくれるの?」
ぼやけた頭が勝手に働いて、勝手に言葉まで出してしまう。普段なら、絶対に出さない甘えた口調が、他人の声のように自分の耳に響く。
カズナリ君は困ったやつを見るように、やさしげに微笑んだ。
「サエさんに、優しくしたいからだよ。だから、もっと甘えて欲しい。何でも言って欲しい」そう言って、わざと意地悪く笑う。「サエさん、甘えるの下手なんだもん」
体調が悪いのに、心臓が跳ね上がりそうになる。
「・・・ズル」
「ん?」
私は、この時、頭がおかしかった。熱のせいで、普段ならあるはずのものが、いろいろと決壊していた。
「体、気持ち悪い。拭いて」
主に羞恥心が、決壊していたと思う。
「わかった。準備するから、待ってて」
カズナリ君は一瞬の躊躇も見せずに、洗面所へと姿を消した。
私は羞恥心が壊れているから、もぞもぞとシャツを脱ぎ、パンツも脱いだ。ショーツも汗じみがひどかったから脱いで、羽毛布団に潜り込んだ。
全裸で入り込んだ羽毛布団は気持ちよかった。
「お待たせ」
カズナリ君はキツく絞ったタオルを手に戻ってきた。
そして、ベッドの縁に腰掛けて、微笑む。私は、顔だけ出してそれを見ていた。
「はい」
促すような声をかけられ、私は今更羞恥心を感じる。けれど、それはまだ遠くの方から声を張り上げているだけだった。
「うん・・・」
私は上半身を起こした。カズナリ君がすかさず手を貸してくれる。両肩に大きな手が添えられる。右手にもったタオルは熱くて、蒸気を感じる。
さすがに自動的になのか、私は無意識に羽毛布団を前に引き寄せていた。
「ちょっと熱いかも。熱すぎたら言ってね」
カズナリ君はタオルを広げて何回か折って、熱を失わない内に素早く私の背中に当てた。
「ん・・・、大丈夫」
一瞬寒く感じた背中が解けていくように温まって、強張った筋肉から力が抜けていく。
「どうですかー、お客さん?」
「うん、気持ちいい」
首元から肩にかけてを撫でられて、思わず口元が緩み、ため息が出る。
カズナリ君がタオルをたたみ直して、新しい面で腰の方も拭いてくれる。そこから下も、カズナリ君は気にする素振りもなく拭いてくれた。
「ちょっと待っててね。タオル、冷たくなっちゃった」
カズナリ君は、洗面台の方へ再び向かった。その前に、私の体が冷えないように、体を寝転がらせ、布団の中へ潜らせた。
やさしいなぁ。
私はそう思ったけど、体を拭いてもらってすっきりしたからか、少しだけ頭が働いた。
『あれ?前とかも拭くのかな?』
お尻を拭かせといて何を今更という気がしないでもないが、今では羞恥心がずいぶん身近に戻ってきていた。
『さすがにそれはヤバくね?』
カズナリ君が戻ってくるのが見えた。手には、ホカホカのタオルが載っている。
「カ、カズナリ君、前は自分で拭こうかな、なんて・・・」
言ってて恥ずかしくなってきた。どこかに行っていた羞恥心が、完全に戻ってきていた。
カズナリ君は布団に潜って顔だけだしている私を見て、改めて笑った。
「そうだね。じゃあ、俺は買い物してくるよ。三十分くらいで帰ってくるから」
「うん」
布団から腕だけ出して、私はタオルを受け取った。そして、すぐに布団の中に引っ込めた。まるでヤドカリか何かだ。
カズナリ君は可笑しそうに微笑んで、「じゃあ、行ってくるよ」と言った。
私は「・・・いってらっしゃい」と言った。
扉が閉まって、カズナリ君の背中がドアの向こうに消えた。
その瞬間、少しの時間だけのはずなのに、とてもさみしい感じがして、胸が締め付けられた。
胸に当てたタオルが冷めない内に、私は体を拭いた。