ショック過ぎる!クロワッサン!
結局、その日も次の日も、私は寝ていた。
なんと、パリ旅行を楽しめたのは、たった一日だけということになってしまった。ショック過ぎる。
倒れてから二日目は、熱も下がってなんとか動けそうだったから、「外行こっか?」と言ったら「ダメですね」と言われた。
湿布を足の裏にまで張られてしまい、私はおとなしく寝ていた。
「ねぇ。カズナリ君はどこか観光に行っておいでよ。ヒマでしょ?ルーヴルとか」
カズナリ君は備え付けのソファに座って、ずっと日本から持ってきていた本を読んでいた。何十年も前の小説と社会心理学者の本だと言っていた。
「いや、別にヒマじゃないから、大丈夫だよ」
そう言って微笑む。会社の近くのベンチで隣に座っていた時も、こんな感じだったのだろうか。
ただ、そばにいてくれる。
「・・・穏やかなクマみたい」
「うがー」
カズナリ君は他にもご飯の用意や私が寝ている間にコインランドリーに行って、服を洗って乾かしてきてくれたりした。なにげに生活力がある。見知らぬ土地なのに。
ようやく回復したのは、出発日の朝だった。
まだ夜とも言える時間帯で、空は暗かった。
カズナリ君はいつの間にかソファで寝てしまったらしく、身を縮こまらせて、本を胸に抱いて寝ていた。
外の景色を眺めるために立ち上がる。窓から見えるパリの景色は、街灯がところどころに灯っていて、なかなか幻想的だった。
これで見納めかぁ・・・。
けれど、それほどがっくりきていなかった。その理由は、やはり穏やかなクマさんのおかげなのだろう。
ソファに目を向けると、カズナリ君も起きてしまったようで、身を起こすところだった。
「体調は?」
カズナリ君が聞いてくる。
「治ったみたい。看病、ありがとう」
「うん。ほういらしまして」
あくび混じりに微笑む。
「ね、散歩行こうよ」
私たちは、朝のモンマルトルに、最後の散歩に出掛けた。
夏の朝のモンマルトルの風は、心地よくて、昼間よりも浄化された空気のように感じられた。
大きな清掃車が道路を洗っていた。大きなブラシが車体の下からいくつも伸びていて、水も発射されている。なるほど、これで街の清潔さを保っていたのだなと合点がいった。
朝からやっているパン屋さんに入って、コーヒーとクロワッサンを食べた。病気中はスーパーで買ってきた果物やヨーグルトなどを、カズナリ君が食べさせてくれた。
何度もあーんてやられた。
やっぱりちょっと羞恥心が壊れていたから、今思い出すと恥ずかしい。
「なに?」
「いや、美味しいね」
私はついごまかす。
出発時間はすぐにきてしまった。飛行機に乗れば、水曜日の日本だ。そして、翌日から仕事である。
私は休み中に一切のメールを見ていなかった。仕事をこんなにも頭の中から追い出せたのは、初めてのことだった。それは痛快なことだった。
出発前は、ブチギレて退社してしまったこともあって、仕事のことを思い浮かべると憂鬱だったが、今ではどうでもいい気分だった。
人生において、些事以外の何物でもないという気分になれた。
仕事のための人生ではない。人生のための仕事なのだ。
まるでパリジャン(イメージ)のようなことも、当然のように思えた。
けれど、これもまた、一過性のことなのかもしれない。また日常に飲まれて、憂鬱になるのかもしれない。
「行こっか」
「うん」
ホテルの前で、カズナリ君が手を伸ばす。私は、自然とその手をつかむ。それにしても二人して身軽な格好だ。
キャリーバッグの一つも持っていない。持っているのはバックパックに、仕事用のカバンとファストファッションブランドの袋だけだ。
けれど、この気軽さってなんか良いな、とも思う。
私たちは空港に向かうシャトルバスへと歩き出した。
モンマルトルとはこれでお別れだった。
サクレクール寺院の方向をなんとなく見た。寺院は見えなかったけれど、青い空に白い飛行機雲が二本浮かび上がっていて、寺院の前で眺めたパリの景色が頭に思い浮かんだ。