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「約束があるから他で食べるよ」

聡次郎さんはそう言って立ち去ろうとするのに、奥様は「愛華さん以上に大事な約束があるのかしら?」と言って聡次郎さんを挑発した。

「………」

「奥様いいんです。聡次郎さんはお忙しいですから」

無言の聡次郎さんに代わって愛華さんが遠慮した。

「でも……」と愛華さんは遠慮がちに聡次郎さんを見つめた。

「しばらく龍峯を出入りする間に1回でもお食事をご一緒できたら嬉しいです……」

この言葉に私は階段から飛び出していきそうになるのを堪えた。それは聡次郎さんをどう思っているのかを思い知るには十分すぎるほどの声色だった。愛情と聡次郎さんの返事への期待。愛華さんの美貌で甘い言葉を言われたらほとんどの男性は断らないだろう。
けれど愛華さんが本当の婚約者でも聡次郎さんは私の恋人なのだ。愛華さんと食事にいくことを許せるわけがない。

「遠慮いたします」

聡次郎さんはばっさり切り捨てた。

「何言っているの聡次郎! あなたがお昼に会社に戻ってきているのは把握しているのよ」

奥様は私と聡次郎さんが一緒にお昼を食べているのを知っているのだ。だからわざと愛華さんと食事させようとしている。

「ランチタイムはいつも先約があるので」

「そう……なのですね……」

愛華さんの表情はみるみる暗くなる。私としては聡次郎さんがはっきり断ってくれて嬉しい。

「聡次郎! 失礼なことを言わないで!」

「愛華さんもいつまでも母さんの我が儘を聞いてここに来ることもないですよ。もう飾る所もないでしょう。龍峯のビルの至るところに愛華さんの活け花でいっぱいだ」

聡次郎さんは淡々と話す。一切感情がこもっていないことが私を安心させる。
龍峯のビル内は今まで以上に生花が増えていた。こんなところに必要ないと思える作業場の廊下にまでアレンジメントが置いてある。

「まだ2階のフロアとお店の中が残っています。それに、生花ですから時々はお手入れに来なければいけません」

声音から愛華さんの本気を感じた。聡次郎さんの遠回しな断りにも負けていない。親同士が決めた縁談だとしても、愛華さんは聡次郎さんに惚れている。

「見て聡次郎、愛華さんの活けた作品は素晴らしいでしょう」

奥様が指した先の活け花を見た聡次郎さんは、「そうですね。とても綺麗だと思います」と言った。その言葉に愛華さんは「ありがとうございます」と嬉しそうに微笑んだ。
私のモップを持つ手が震えてきた。聡次郎さんはお世辞で愛華さんの作品を綺麗だと言ったのではない。これは本心から褒めたのだ。私は聡次郎さんにお茶を褒められたことがないのに。茶と花では全然違う。けれど負けた気になってしまった。

「では、俺は昼に間に合うように仕事を終わらせたいのでこれで失礼します」

聡次郎さんは引き留める奥様を無視してそのまま社長室に入っていった。
残された奥様と愛華さんは呆気にとられ無言だったけれど、愛華さんが先に口を開いた。

「奥様……もしかして聡次郎さんはお付き合いしているお方がいるのでしょうか?」

「いいえ! そんな人はおりません!」

奥様は慌てて私の存在を否定した。

「けれどいつもお食事を共にする方がいるとおっしゃっていました」

「聡次郎が大変失礼を致しました。申し訳ございません。聡次郎は今冷静に判断できないだけですのよ。どうか見捨てないでください。お父様にもそのようにお伝えくださいませ」

奥様は必至だ。それほどに銀栄屋が重要なのだろう。
2人は開いたエレベーターに乗っていってしまった。ドアが閉まるまで奥様は愛華さんに謝罪していた。

私はやっと身動きがとれるようになり階段に座り込んだ。
聡次郎さんが私を大事にしてくれていることに安心した。それ以上に奥様の本気が垣間見えて恐ろしかった。





お昼休憩は聡次郎さんが来る前に仕込んでおいた野菜を炒めて、ソースと共に茹でたパスタに絡めた。聡次郎さんが部屋に入ってきたときにはお皿にパスタを盛り、お茶の準備もできていた。

「会議だったんですね」

ソファーに座る聡次郎さんに動揺を見せないように平常心を保って聞いた。私とのお昼の時間を大事にしてくれているのに暗い顔はできない。

「ああ、春に新店舗を出すんだ。その会議だよ」

「新店舗か……すごい……」

新店舗と聞いて喜びよりも不安が増してしまった。
もしも聡次郎さんが愛華さんと結婚したら龍峯の店舗を銀栄屋に増やしてもらえるかもしれないという話だった。今このタイミングで龍峯の店舗が増えるというのなら、愛華さんとの結婚の話を進めているのではないかと勘ぐってしまう。だからさっき奥様と愛華さんは応接室で話をしていたのではないかと。

「ん、やっぱうまいな」

「でしょ? これも今度カフェで提案する新メニュー候補なんだ」

「そっか、頑張れよ」

「うん」

聡次郎さんは笑顔で応援してくれるのに、私の気持ちは晴れない。
料理は褒めてくれる。それは素直に嬉しいけれど私の淹れたお茶を褒めてくれることはない。愛華さんのアレンジメントは褒めるのに。

「聡次郎さん、お店では龍清軒を冷たくして出してるんだけど、今日は少し淹れ方を変えてみたの。どう?」

聡次郎さんにグラスに注いだ冷茶を寄せた。いつもは単純に濃いめの龍清軒に氷を入れて冷やすだけだった。けれど今日は玉露のようにぬるめのお湯に数分抽出させた。

「うん……まあまあ」

「それだけ?」

「店で出してもいいんじゃない?」

「うん……社員さんに相談して試飲してもらうね……」

ほら、やっぱり私のお茶は美味しいとは言ってくれない。愛華さんの活けた花は綺麗だと言ったのに、私の欲しい言葉は聡次郎さんの頭の中にはないかのようだ。私がここを退職する前に聡次郎さんにお茶が美味しいと言わせることは無理なのだろうか。
素っ気なくパスタを頬張る私を見て聡次郎さんは何故か満足そうに笑う。

「ここに完全に越してくる?」

「え?」

「アパート引き払ってここで一緒に住もう」

突然のことに驚いたけれど目頭が熱くなる。聡次郎さんと共に生活できたら嬉しいに決まっている。けれどそうできない事情がある。

「嬉しいけど……だめです……」

「なんで?」

「奥様が反対してる……」

聡次郎さんから『一緒に住もう』と言われたことは嬉しい。今では聡次郎さんと住む龍峯の部屋の方が服や日用品が多く置いてある。これからの生活を想像しては顔がにやけそうだ。けれど奥様は全力で私の存在を龍峯から遠ざけたいと思っている。ここに住むのなら家族全員に祝福してもらいたい。

「退職が近づいてから愛華さんをここに呼ぶなんて、奥様の望み通りだね……」

私が退職すれば聡次郎さんの望まない相手との結婚もやめてくれると言ったのに、愛華さんと無理矢理くっつけようとする。聡次郎さんのお母さんを悪く言いたくはない。けれど数々の仕打ちには精神的に限界が近い。

「母さんが強引でごめん。梨香との婚約を白紙にしたら、俺の望まない相手と結婚をしないっていうのを逆手に取ってるんだ。俺が愛華さんを好きになるように仕向けてる」

そういうことか。無理矢理愛華さんを近づけるのは策略で、私が龍峯を退職したあと聡次郎さんが愛華さんを好きになって、結婚したい相手に愛華さんを選べば何も問題ないということ。

「あんなこと言わなきゃよかった……」

今更後悔しても遅いのだけれど。

「だからこっちも逆手に取る」

「どういうこと?」

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