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「梨香が龍峯を辞めて婚約も白紙にしたら俺の好きにしていいって言ったんだよ。だから一緒に住もう」
聡次郎さんの滅茶苦茶な言い分に今度は私が笑った。確かに強引な奥様にはこちらもこのくらい強引に意見を押し通さないと勝てないのかもしれない。聡次郎さんと奥様はやっぱり親子だなと思い、真剣な表情の聡次郎さんを微笑ましく思う。
けれど聡次郎さんとの今後を考えるとこの部屋で住むのは落ち着かないかもしれない。
「ここが住みにくいなら別の部屋を探そうか。梨香のアパートでもいいし」
「聡次郎さんにあの部屋は似合わないよ」
「俺は梨香と居れればどこだっていい」
「私のアパート駐車場ないから不便だよ。駅から距離あるし」
「龍峯にこだわってないから大丈夫」
その瞬間私は動揺した。聡次郎さんは龍峯からも離れるつもりなのだろうか。私のせいで……?
聡次郎さんは更に真剣な顔で何やら考え込んでしまったから、頭に浮かんだ疑問は怖くて聡次郎さんには聞けなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「三宅さん、写真館に今年のお歳暮のカタログを届けてくれないかしら?」
事務所から花山さんが顔を出し、私に雑用を押し付けた。
「渡すだけでいいの。商品が決まったら後日連絡が来るから」
「いいですが、川田さんが休憩から戻ってきてからでもいいでしょうか?」
「それで結構です」
花山さんは私が渋々引き受けたことに満足そうだ。
付き合いの深い古明橋にある老舗写真館の店主は話好きで、1度訪れるとなかなか帰してもらえない。面倒な客だけれど重要顧客でもあるからいつもなら社員が行くところだけれど、花山さんが私に頼んでくるとは珍しい。
「今日は麻衣さんがお休みだから仕方なくね」
「そうなんですか?」
だから花山さんが私に頼んだのだ。本来なら社長夫人である麻衣さんが行くところなのに。
「風邪なのか、だるいらしくて」
麻衣さんが休みならば自分が行くわけでもなく、麻衣さんがいないからこそ花山さんは私に都合よく仕事を押し付ける。
聡次郎さんと付き合っていると認知されてからあからさまに嫌な態度をとられることはなくなったけれど、よくは思っていないことはわかる。写真館に私を行かせるのは『専務の恋人』だからではなく、単に店主の話し相手になるのが面倒だからだ。
「じゃあお願いね」
「わかりました」
花山さんは事務所に戻っていった。嫌だけど麻衣さんのためだと思って行くしかないか。
川田さんが休憩から戻ってきたのでカタログを持ってビルの裏から出た。
駐車場の隅には今日もビニールシートが敷かれ、その上で愛華さんが花を剪定していた。愛華さんは私に気づくと「こんにちは」と声をかけてきた。
「お出かけですか?」
「はい……ちょっとそこまで」
相変わらず羨ましいほど綺麗な笑顔を向けられて自分が卑屈になってしまう。
「本店の方は注文も受けに行くのですね」
愛華さんは私の手に持ったカタログを見て言った。
「えっと……注文を受けに行くわけではないんです。私は社員じゃないので……」
「そうなのですか?」
「はい。バイトです……」
自分が社員ではないと言うのは抵抗があった。愛華さんは私のことなんて何も意識していないのに、私だけが勝手に劣等感を抱いている。
「では私と同じですね。いえ、私以上に自立されています」
愛華さんの言葉に首をかしげた。
「私は親の伝でここにいますから」
「でも栄さんは奥様の方から直々に頼まれてここにいるんですよね? 賞を獲られるほど活け花の技術があるとお聞きしました。私とは違いますよ」
自分でも驚くほど低くて攻撃的な声だ。これでは愛華さんは私のことを知らなくても良い印象は持たないだろう。
「確かに賞は何度か頂きましたが、社会に出て自立されている方とは違います。私は働いたことがないんです」
これには驚いた。私の冷たい態度を気にすることのない愛華さんは恥ずかしそうに下を向いた。
「バイトしたことは?」
「1度もありません。大学を卒業してから父の会社の店舗でアレンジメント講座をお手伝いしただけで、本当に自分の力だけでお金を稼いだことがありません」
そんな人が本当にいるのかと驚いた。愛華さんが大学を卒業したばかりの年下だということも、働いて自分の力でお金を稼いだ経験がないことも。
では花を活ける技術を身に付けたのも、勉強して稽古して生花から花材から全ての資金は親に出してもらって今があるのだ。
羨ましい話だ。私だってコツコツ真面目に働いてきたのに、職を失って非正規雇用の生活。家賃も払えないかもしれないギリギリの生活を目の前のこのお嬢様は経験したことがないのだ。趣味に使えるお金なんて余裕がない。お稽古なんて縁遠い。生きてきた環境がまるで違う。私と愛華さんは違いすぎる。
「この年でお恥ずかしいのですけど……これから龍峯のお手伝いをしていけるのか不安で」
愛華さんは本当に不安そうな顔で花の茎から葉をハサミで切り落とした。
龍峯のお手伝いというのは今の麻衣さんのように会社の事務仕事を担うという認識でいるのだろうか。愛華さんは龍峯に携わる気でいる。それはつまり聡次郎さんと結婚する気でいるということか。
「あの……私はこれで失礼します」
居たたまれなくなった私は愛華さんにそう告げた。
「ああ、お引き留めしてしまってすみません。いってらっしゃいませ」
笑顔で見送られて逃げるように写真館までの道を早足で歩いた。
愛華さんに会う度に私は自信を無くしていく。龍峯の嫁として、聡次郎さんの結婚相手としては愛華さんのようなお嬢様がお似合いだ。私のような凡人では不釣り合い。
こんな醜い嫉妬なんてしたくないのに。
この夏を乗り越えた私はどうしているのだろう。聡次郎さんのそばにいるのだろうか。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
龍峯に出勤すると廊下の奥のトイレから苦しそうな声が聞こえてきた。
「けほっ……おえっ……」
あまりに辛そうな様子にトイレの前まで近づいた。
「うぅ……しんどい……」
呟かれた声は麻衣さんのものだった。
「麻衣さん、大丈夫ですか?」
声をかけずにはいられなかった。最近体調が悪いという麻衣さんが心配だった。
トイレの鍵が外され中から麻衣さんが顔を出した。そのあまりの顔色の悪さに私は絶句した。肌が白くて美人の麻衣さんが、今はいつも以上に白い顔で目に生気がない。
「梨香さん……」
「あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫……そのうち良くなるから……」
「そのうちって……今日はお休みした方がいいんじゃないですか? 風邪っぽいですし、もし熱があったら大変です」
「ううん……風邪じゃないの」
麻衣さんはそう言うと微笑んだ。
「実は、妊娠したみたいなの」
「本当ですか!? おめでとうございます!」
それはとてもおめでたいことだ。ずっと子供を望んでいた麻衣さんが妊娠したのだ。
「ありがとう。だからこれはつわりなの。幸せなんだけど、気持ち悪くて……」
麻衣さんは今にも倒れそうなほど気持ち悪いようだ。
「じゃあやっぱりお休みした方がいいですよ。今は無理をしてはだめです」
「そうね……奥様と花山さんに言ってくる……」
麻衣さんはトイレから出てフラフラと事務所に入っていった。
麻衣さんが妊娠した。龍峯にとって吉報だ。もし産まれてくる子が男の子だったら、間違いなく龍峯の後継者になるだろう。
社長である慶一郎さんと麻衣さん夫婦に子供ができなければ、聡次郎さんの将来の子供が後継者になる可能性が高かった。けれど社長にめでたく跡継ぎができたとなると、聡次郎さんが跡継ぎのことを考える必要がなくなる。それは聡次郎さんが愛華さんとの結婚を急ぐ必要がなく、奥様も無理に話を進めようとしなくなるかもしれない。
同時に嫌な考えが頭をよぎった。
聡次郎さんはもう龍峯に縛られる必要がなく、ここを出ていくことも自由になるかもしれない。恋愛も自由に選択できるのだから相手が私でなくともいいと思ってしまうかもしれない。今は奥様と揉めているから元凶である私のそばにいてくれるけど、反発心がなくなり冷静になったら愛華さんの魅力に囚われて、私のことなど見向きもしなくなったらどうしよう。
麻衣さんの妊娠は嬉しいはずなのに、私の居場所がなくなってしまう気がしてとても怖い。自分が最低な人間に思えてきてしまった。