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カフェでの勤務を終えて駅のロータリーに行くと、聡次郎さんは約束どおり私を待っていてくれた。

「わざわざごめんね」

「いいって。少しでも長い時間梨香と一緒にいたいから」

その気持ちが嬉しくて仕事の疲れなんて吹っ飛んでしまう。

龍峯の駐車場に車を止めて降りると、駐車場の隅に広げられたブルーシートの上には愛華さんが置いていったであろう複数の花器、花材が並んでいる。いかにも作業が途中であることがわかり、明日以降も彼女が龍峯に来るのかと思ったら憂鬱だ。
聡次郎さんは横目でそれらの道具を見ると何も言わずビルに入っていった。
正式な婚約者がこんなに近くにいることを聡次郎さんはどう思っているのだろう。

聡次郎さんの部屋に入ると疲れがどっと出てきた。それはここが居心地が悪いからではない。自分の部屋のようとまではいかないけれど、この部屋がリラックスできる場所になってきたからこそ緊張の糸が切れて疲れを感じてきた。

「先お風呂入っていいよ」

「うん。ありがとう……」

「梨香、元気ない?」

「え? そんなことないよ……」

「嘘」

私の動揺を感じ取ったのか、聡次郎さんは私に近づきじっと顔を見つめた。

「わかるよ、梨香のこと。何を不安に思ってるのかも」

その言葉にどきりとした。

「不安だなんて……」

誤魔化そうとしても聡次郎さんには通じない。私を見つめたまま私の答えを待っている。

「あのね……」

本当は不安だよって言いかけて口をつぐんだ。
愛華さんの存在が怖いだなんて、奥様が無理やり聡次郎さんに近づけようとしていることが嫌だなんて、聡次郎さんが愛華さんに心動いてしまうんじゃないかと焦っているなんて、そんな醜い嫉妬をしている自分を知られたくない。

「そ、そういえば綺麗だよねお花!」

自分でも思いの外大きな声が出た。視線を上げると聡次郎さんと目が合い焦った。1度口に出した話題を取り下げることはできない。

「フロアとかビルの前とか……お花綺麗だよね……」

「そうだな」

「………」

「梨香、気にするな」

聡次郎さんの言葉にはっとした。

「栄の人間がいくら龍峯を出入りしようと、俺と梨香にはなんの問題もない」

愛華さんの話を聡次郎さんの口から聞くのは初めてだ。

「愛華さんなら龍峯に利益があるよ? それでも?」

私が聡次郎さんのそばにいてもいいの?

「まあ、龍峯にとって銀栄屋の人間は文句ない相手だな。愛華さんはフラワーアレンジメントのコンペでいくつか賞を獲ったこともある」

「そうなんだ……」

素人の私でも会社中に置かれたものは素晴らしい作品だとわかる。名のあるコンペの受賞歴があるなんて、しかもあの美貌と家柄。文句などあるものか。愛華さんに何もかも負けている気がして、聡次郎さんから聞く愛華さんという人物には欠点がないように感じた。

「完璧……」

「完璧か?」

思わず口に出てしまった言葉に聡次郎さんが首をかしげた。

「愛華さんが完璧だと思うのか?」

「うん……」

「俺は、愛華さんよりも梨香の方が優れてると思うけど」

「え、どこが?」

「料理とか」

聡次郎さんの答えに笑ってしまった。私が愛華さんより優れているものが料理だなんて、自分では納得できない。

「愛華さんの方がちゃんとしたもの作りそう」

「別にそんなこともないと思うけど」

「料理とか、な。もっと俺は梨香のいいとこ言えるよ」

「じゃあ言って」

私のお願いに聡次郎さんは困ったように笑う。そして私に近づくと優しく抱き締めた。

「言わない。それは俺だけが知ってればいいから」

「えっ、気になる! 教えて」

「内緒」

私の不満そうな顔に再度笑うと額に唇を優しく当てた。

「梨香、ごめんね」

耳元で囁かれた言葉に軽く首を傾げた。

「どうして謝るの?」

「俺が頼りないから梨香を不安にさせてる。ごめん……」

ぎゅっと私を抱き締める腕の感触が心地いい。

「大丈夫」

聡次郎さんに言った言葉だけれど自分にも言い聞かせる。

「私は十分良くしてもらってます」

大事にされている。聡次郎さんで満たされている。

「でもね……」

私はとても言いづらいことを意を決して口に出した。

「聡次郎さんから愛華さんの名前を出されるの……なんか嫌だ……」

言ってから顔が真っ赤になったのが自分で分かった。
こんな子供っぽいことを言ったら聡次郎さんに呆れられてしまうかもしれない。恐る恐る顔を見ると聡次郎さんは笑っている。

「嫉妬する梨香も可愛い」

そんな言葉を言うものだから、私は聡次郎さんの胸を軽く叩いた。

「俺が好きになったのは梨香だよ」

聡次郎さんは私の額に再びキスをした。その唇は肌を滑らせるように下がっていき、頬に触れるとゆっくり唇へと移動する。そうしてしばらく唇が合わさり離れない。やっと離れた唇は「愛してるよ」と囁いた。

「私も愛しています」

そう言うと私は唇を今度は自分から聡次郎さんの唇に重ねた。

大丈夫、聡次郎さんの気持ちは私にある。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



龍峯のビル内の掃除は数か月に一度清掃業者が入るけれど、普段の掃除は社員とアルバイトが当番制でしている。今日は私が4階から地下までのフロアのモップがけの当番だった。
応接室や社長室のある4階までモップを持って上がったとき、廊下に活けられたアレンジメントの存在の大きさに嫌でも気がついた。
ひし形のグレーの花器に三ツ又の枝が挿され、ラメが入ったリボンと金色の太い針金で装飾されている。
エレベーターを降りるとすぐに目に入るアレンジメントは来客のある4階にふさわしい作品だ。

会議室からは何人かの話し声が聞こえた。確か営業会議があるとホワイトボードに書いてあったっけ。そして応接室からも奥様の声が聞こえた。誰か来客のようだ。

議論が交わされている会議室と違って応接室は奥様の陽気な声が際立つ。経営に直接関わらなくなったとはいえ、会議の最中に横の部屋で談笑とは会社のことを思っているのか呑気なのかわからない。

応接室から人の出てくる気配がして私はエレベーター横の階段に思わず隠れてしまった。そうして隠れたまま聴覚だけをフロアに集中させていた。すると応接室の中からは奥様と愛華さんが出てきた。

「本当にありがとうございます」

「こちらこそ、社内が華やぐわ。これからも定期的にお願いしたいくらいです」

「喜んで」

私は奥様に見つからないようにほんの少しだけ顔をフロアに出して様子をうかがった。本来なら隠れる必要はないのに奥様に嫌みを言われたくないし、愛華さんがそばにいるときに比べられてしまうのも嫌だった。
ちょうどそのとき会議が終わったのか会議室から営業部の社員が続々と出てきた。社員は奥様と愛華さんに頭を下げ、愛華さんも社員に笑顔で頭を下げた。最後に会議室から聡次郎さんが出てくると愛華さんの表情が変わった。

「こんにちは聡次郎さん」

「ああ、どうも」

男女問わず見惚れてしまう笑顔を見せる愛華さんにも、聡次郎さんは顔色一つ変えず素っ気ない挨拶をした。

「そうだわ聡次郎、このあと愛華さんと食事にいってらっしゃい」

奥様の提案に私は息を呑んだ。愛華さんと食事なんて、そんなの困る。だって聡次郎さんはこのあと私とお昼休憩の予定なのだから。

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