バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

変わりゆくモノ4

 その人物は、周囲の者よりも一段上質な服に身を纏った人物だが、その服もところどころ擦りきれているのが確認出来る。
 普段から着用しているのだろうが、その人物がその姿をめいから賜ったのはそれ程前ではないので、酷い摩耗具合だった。よほど酷使しているのか、動きに癖が強いのか。

(まぁ、前者だろうな)

 代行とはいえこの城の主にして、ここに集まっている者達の上司に当たる人物である少女を横目に捉えたそれは、集まった大臣をはじめとした面々に少々の同情を覚えた。

(とりあえず、戻ったらまずは断罪の準備からだな)

 やる事はめいへの提案ではあるが、めいが自身の半身でもある真っ黒なそれ、ヘカテーの提案を蹴るとは思えなかった。その程度にはヘカテーはめいから信を得ている。
 あとは何処までこの少女を落とすかだが、その辺りは報告を聞いためいの管轄なので、ヘカテーはその先については思案の外に追いやった。
 帰ってきた少女へ大臣達はもの凄く文句を言いたそうにしているが、それでもヘカテーの手前、そこは抑えて歓迎の言葉を口にする。

「ようこそいらっしゃいました。ヘカテー様」

 上質な服を着た男性が、穏やかな口調でヘカテーを城の中へと案内する。それにヘカテーが続き、その他の者達も続く。城主であるはずの少女は何故かそこに紛れていた。
 だがよく見れば、案内している大臣と一緒に城の外に居た者達が、少女を逃がさないようにそれとなく囲うような位置に移っているのは致し方ない事だろう。ヘカテーもそれに気づいてはいたが、言及する事はなかった。
 大臣の案内でヘカテーは客室に通される。
 客室は真っ白な室内だが、そこに置かれている豪奢な椅子は品のある赤色をしていて、机は高級感のある落ち着いた色合いをしていた。
 ヘカテーは慣れた様子で室内に入り、遠慮なく椅子に座る。
 ヘカテーが椅子に腰掛けたところで、大臣が本日の要件を尋ねてきた。
 それにヘカテーが答えると、大臣は少々お待ちくださいと告げて、少女を部屋に残して出ていった。他に居た者達は少女が客室に入ったのを見届けた段階で持ち場に戻っている。
 大臣が出ていったことで再びヘカテーと二人っきりになった少女は、扉近くに突っ立ったまま、迷子の様におろおろとしていた。
 ヘカテーはそんな少女など気にも留めず、大臣を待つ。そこへ軽く扉を叩く音が響く。
 その音にヘカテーが反応して来訪者を中に入れると、お茶と幾種類かの茶菓子の入った器を持ってきた女性が机の上にそれを置いて出ていった。
 用意されたお茶もどの茶菓子も上質な物で、こんな場所で用意されるとは思えないほど。ヘカテーもだが、死後の世界の住民に飲食睡眠は必要ないので、お茶も茶菓子も本来は不要の産物である。しかし、飲食できない訳ではないので、ヘカテーは出されたお茶を一口飲んだ。
 何とも上品な渋みのお茶で、用意された茶菓子の抑えられた甘味とよく合った。しかしヘカテーとしては、甘味と一緒に用意されている塩気のある茶菓子の方が好みだったようで、お茶と一緒にそちらの方だけに手を伸ばしていた。
 その間も少女はそわそわしつつ、その場に立ったまま。
 いい加減鬱陶しく感じてきてはいるが、ヘカテーは茶菓子に集中する事で少女の存在を意識の外へと追いやる。今はまだこの少女が必要なので、ここで短気を起こしても面倒になるだけだ。
 かといって、ヘカテーに少女に椅子を勧めるつもりはない。勝手に座ってもヘカテーは何も言わないし何も思わないが、そこまでこの少女は図太くはない。それだけめいに徹底的に躾けられたという事だろう。伝え聞くヘルという人物は、随分と傲慢で我が儘な性格だったようだし。仕事だって適当だったようで、ごく一部の者とはいえ、長く死者蘇生なんてモノが許されていたぐらいなのだから。
 それが今ではこのありさまである。おどおどとしていて、常に何かに怯えている様子。仕事は相変わらず直ぐに怠けるが、今では最初だけ虚勢を張る程度。
 実際、ヘカテーの言葉だからヘカテーが居なくなると直ぐに元に戻っているようだが、仮にこれがめいの言葉であったならば、少女は愚直に従うだろう。この少女はめいに対しては絶対服従で、言われた事はしっかりとこなす。まぁ、仕事に関しては最低限という言葉が頭につくが。
 お茶を飲み終えたヘカテーは、空になった湯呑を机に置き、ふむと腕を組んで考える。

(これの処分を提案するより前に、こちらで一度しっかりと調教してみるべきか・・・?)

 言う事を聞かないのであれば躾ける。その考えは別におかしな事ではないように思われた。この少女が上位者であるヘカテーの言う事を聞かないのは、何処かで舐めているのだろうから。

(書類の処理には時間が掛かるから、その間に躾けを行ってみるか。この調教次第で今後の処分をどうするかを決めればいい訳だし)

 手間ではあるがいい考えだと、ヘカテーは自身の考えにうむうむと頷く。それを見た少女は、何だか不吉な予感にビクビクとより一層の怯えを見せた。
 そこへ扉を叩き大臣が戻ってくる。手には膨大な書類の束が抱えるように載せられていた。
 死者を外へ連れ出す為の手続きは、それほど難しいものではない。
 まずは連れだす死者を申請し、その死者の登録票を申請を受理した側が用意する。次に間違いがないか相手に確認した後、管理者もしくは権限を貸し与えられたその代行が、申請を受諾した死者に世界を出る許可を与える。その後に、世界を出た死者の登録票を移すだけだ。
 ヘカテーの場合、今回連れだす死者は直ぐに連れていければ何だっていいので、数だけ伝えて残りは相手に任せている。
 そうして登録票を用意されたのだが、何分その数が多いので、登録票の用意から確認から何もかもに時間が掛かる。今回大臣が取り急ぎ持ってきたのも、全体の一割ほど。一気に持ってきても置く場所に困るし、確認にも用意にも時間を要する。
 ヘカテーは登録票と共に用意されていた、その死者に関する簡単な資料も併せて一つ一つしっかりと確認しながら、大臣の話も聞く。
 用意に時間が掛かるのは最初から解っていたので、そこに文句は一切ない。むしろ先行してこれだけの数を用意してもらえた事に感謝しているぐらいだ。姫を探している間にヘカテーの来訪が告げられ、予測して事前に集めていたのかもしれない。今回のような事はこれが初めてではないのだから。
 時間を掛けて数百人ほどの資料を全て確認後、ヘカテーは大臣にこの方向性で問題ない旨を伝える。
 大臣は心底ほっとした顔をしながら、資料などと共に部屋を出ていく。この後は結構待たされることだろう。数日中に終わればかなり早い方だ。
 そうして最初の確認を終えたヘカテーは、未だにおろおろしている少女に目を向けた後に、さてどうやって躾けようかと思案する。それでもとりあえず最初にやるべき事は、上下関係をしっかりと教えてやる事だろう。
 そういう訳で、空の湯呑と茶菓子はそのままに、ヘカテーは少女を強制的に連行しながら、勝手知ったるとばかりに城内を移動していく。
 暫くして二人が到着したのは、何も無い部屋だった。そこはただの真っ白な部屋で、部屋の境目だけ黒い線が引かれているので部屋の広さは何とか解る。それでも目が痛いので、長時間は遠慮したいような部屋であった。
 広さはそこそこあり、ニ三人で剣の素振り程度は出来そうな広さがある。見ただけでは分からないが、壁も床も天井も分厚く頑丈に出来ており、何かあった場合の避難場所として使えるかもしれない。
 ヘカテーは少女を中に入れると、部屋の扉を閉める。それはもうしっかりと。ちょっとやそっと泣き叫んだ程度では部屋の外に声が漏れないぐらいにしっかりと。
 今にも死にそうなぐらいガタガタと振るえる少女は、今からヘカテーが何を行うつもりなのかは知らされていないが、それでも今から己が身にとんでもない災難が降りかかる事だけは理解出来た。
 抗議しようにも、それが許される雰囲気ではない。何せヘカテーが纏う雰囲気は、触れただけで人が殺せそうなほど殺気立っているのだから。
 少女は自分が何かしたのかと考えるも、特には思いつかない。強いて挙げるのであれば、たまたま留守だった事か。少女が仕事を放り出して城を抜け出すのは日常的な事ではあるが、それでも居る時には城に居るのだ。それ故に、時期が悪かった程度にしか少女は捉えていない。
 仕事を放り出すのだって、別に悪い事だとは思っていない。一応必要最低限は仕事をしているのだ。業務が滞っているといっても、困っているのは大臣などの自分の部下ぐらいだろう。それならば何が問題だというのか。
 少女の認識としてはその程度。ヘカテーが何度注意しても、その程度の認識だった。
 その反省どころか自覚のなさが、これから起こる事へと繋がっているなど夢にも思っていない。
 そしてその日から、少女は嫌というほどにヘカテーとの上下関係を徹底的に教えられ、仕事を放りだす事がどれだけ迷惑かなどの改善すべき部分をしっかりと躾けられたのだった。
 その後ヘカテーによる教育を終えた少女は、人が変わったようにしっかりと働くようになった。ヘカテーに対しては愛玩動物よろしく従順になり、ヘカテーが居なくても言いつけはしっかりと守るようになったとか。
 少女のこの変化は大臣達には大いに歓迎され、ヘカテーをより一層畏れ敬い、崇めるようになった。
 ヘカテーが少女を躾けている間に選定と登録票の用意はすっかり済んでおり、ヘカテーは残りを資料と共に一日掛けて確認して、それが終わると、直ぐに連れていく死者が城の前に集められ、少女による世界を出る許可はその死者達へと一斉に与えられた。
 全ての手続きが終わった後、ヘカテーは全ての死者を用意された大型の転移地点で生前の世界へと連れていく。
 生前の世界に転移した後は、だだっ広い転移先で待機していためいの部下達に連れてきた死者を全て任せて、ヘカテーはめいの居る場所へと向かう。

(存外躾ければ上手くいくものだな)

 その道中、ヘカテーは少女の事を思い出し、ただ処分して首を差し替えるだけが全てではないと学んだ。
 今では立派に務めを果たすようになった少女を思い出しながら、ヘカテーはとりあえず次に行った時に元に戻っていたら処分は確定だな。と内心で思うのだった。





 めいの居る部屋に移動すると、ヘカテーは今回の件を報告する。必要量の死者を連れてきた事だけではなく、死後の世界の管理代行を矯正した事もその報告には含まれている。
 それらが終わると、めいの前を辞したヘカテーは適当に歩いていく。

(さて、どうしようか)

 やる事はあるのだが、今は少しだけ空白の時間が出来てしまったヘカテーは、何をしたものかと思案する。
 ヘカテーには休息も飲食も不要なので、余暇の過ごし方というものが特には無かった。趣味らしい事も無いので、突然手が空くと困ってしまう。
 とりあえずやる事も無いので、ヘカテーは世界を観てみる事にする。
 まずは巨人の森。異世界との道を繋いだ場所で、その先がヘカテーの分体が消滅した場所。その消滅させた相手は戻ってきているだろうかと探してみると、ぼんやりとだが発見する。

(ふむ。またあの木の中か)

 中で何をしているのか気にはなったが、流石に相手も強き者なだけに、覗く事は出来そうにはなかった。
 それにしょうがないと諦めると、森の中の探索を始める。

(異世界からの客人は来ているのだろうか?)

 元々異世界から呼ぶために道を開いたので、いくらヘカテーが邪魔をしたといってもそれは一時的なものだ。
 ヘカテーが消えた後、異世界から何かを呼ぶ事は出来ただろう。その時間も十分に与えている。
 なので、ヘカテーはその目的の相手が来ていないかと探索をしていく。来ていたとしても、おそらくまだ森は出ていないだろうと推測しながら。

(異世界との扉は既に閉じていた。そして、あれが木の中に居るという事は、異世界から帰ってきているという事。ならば、連れてきた何かが居るはずだが・・・)

 そう思いながら探索するも、森の中にはそれらしい存在は確認出来ない。とはいえ森の中は広いので、そう簡単に見つかるものでもないだろう。
 それを暇つぶしには丁度いいと思い、ヘカテーはあまり感知範囲を拡げ過ぎないように気をつけながら楽しんで森の中を探していく。
 しかし、どれだけ探しても見つからない。手隙の時間が出来たといってもそれほど長い時間ではないので、いつまでも森の中を探している訳にはいかない。
 暫く探した後、ヘカテーは探索を打ち切る。一応ヘカテーは世界の監視の一部を担っているが、この辺りは別に監視している者が居る。監視範囲が被っても問題はないが、大した用もないのにわざわざ感知範囲を被せる意味も無いだろう。
 ヘカテーはめいの居城の在る山の地下深くに移動すると、前回死者の世界に行った方向とは逆の方向へと移動していく。
 逆の方向には溶岩ではなく、極寒の世界が広がっている。
 そこを平然と進みながら、ヘカテーは目的の場所を目指す。目的の場所は、この極寒の地のかなり奥まった場所。
 極寒の地には、ちょくちょく氷像が立っている。元は生き物や死者なのだが、ここではそんな事は関係ない。
 ここは単に温度が低いというだけではなく、凍える者は何であろうとも凍らせる不思議な地。なので、一定以上に寒いと感じた場合、それが何であろうとも凍りつかせてしまう。それこそ、めいやヘカテーでも一定以上に寒いと感じれば凍りついてしまうだろう。
 しかし、ヘカテーには極寒の地は冷たいとさえ思わないので、何の問題も無い。
 そうして極寒の地の大分奥まで進むと、そこに洞窟が現れる。山の様に大きな岩の中に消えていくその洞窟は、見た目以上に奥深い。
 ヘカテーはその洞窟の中へと足を踏み入れると、奥へ奥へと進んでいく。
 洞窟の中とはいえ、外と大して変わらない極寒の空間。上ったり下ったりする暗い一本道がずっと続いていくと、大きな部屋に出る。大きいといっても、一辺五メートルほどのやや丸みを帯びた四角い空間。
 岩肌が向き出しで、何も無い光景は寒さを助長するようでもあった。
 ヘカテーがその中に入ると、ぽわっと黄緑色の淡い光が足下から輝き出す。まるで春を飛ばして夏の訪れを告げるような爽やかな色が空間を埋めると、ヘカテーは一瞬で場所を移動する。
 ヘカテーが飛んできた先は、真っ黒な空間に星を散りばめたような小さな光が瞬く場所。
 上下左右全てがそんな様子で、天地が在るとは思えないほど一体となった世界。
 そんな世界だが、ヘカテーは気にせず歩いていく。
 普通であれば、歩いていても自分が今本当に歩いているのかどうかも分からなくなりそうな世界だが、ヘカテーは上下の感覚も、歩いて移動しているという感覚もしっかりと保持している。
 足取りに迷いはなく、道の無いその世界で道の上を歩いているかのような力強い歩みだ。
 ヘカテーが暫くその世界を歩いていると、星の海の中から一匹の巨大なワニが飛び出てくる。
 見た目は誰もが思い浮かべるような普通のワニなのだが、纏う雰囲気はおどろおどろしい。
 まるで見る者全てを飲み込んでしまうかのような雰囲気だが、ヘカテーはそれへと冷めたように目を向けている。その視線はワニの足下に向けられていた。
 ヘカテーの視界には、そのワニがそれぐらいの大きさに見えているかのようなその視線に、ワニは思わず後ずさる。
 それを鼻で笑ったヘカテーは、気にせずワニに向かって歩き出した。
 近づいてくるヘカテーに、ワニはガーガーと口を大きく開けて威嚇するも全く効果が無いようで、ヘカテーの移動速度は変わらない。
 ヘカテーが目の前まで来ると、ワニは来た時の様に星の海の中に潜っていった。
 ワニが潜っていった先へと目を向けたヘカテーは、そちらへ進路を変更する。
 しかし、ヘカテーがいくら歩こうとも、星の海へと沈む事はない。
 まるでそこはただの平地であるかのように歩くヘカテーだが、暫く歩いたところで立ち止まり、足下を叩くようにその場で足踏みをする。
 ヘカテーが足踏みをして数妙ほど待つと、突然足下が沼の様に変化して、ヘカテーはずぶずぶと地面の中へと呑み込まれるようにしてゆっくりと沈んでいく。
 完全にその身が星の海の中に呑み込まれるも、次にヘカテーが辿り着いたのは、先程と同じで何の変化も無い空間。
 先程と同様の見た目の空間でも、ヘカテーは気にした様子もなく移動を始める。
 何処を見渡しても、上下左右同じ見た目の空間だが、相変わらずヘカテーは迷いない足取りで進んでいく。
 暫く歩くと、遠くにワニが顔を出しているのを見つける。

「・・・・・・」

 星の海から僅かに顔を出して、ヘカテーの方をどうしたものか、といった雰囲気で見詰めているワニ。そんなワニへと向けてヘカテーは進路を変える。
 それに気がついたワニが慌てて星の海の中に潜っていく。数秒遅くワニが居た場所に到着したヘカテーは、気にせずその先へと歩いていく。
 それから更に歩いたところでまた立ち止まり、その場で足踏みする。
 ヘカテーがその場で足踏みすると、今度は足下の星の海が盛り上がりヘカテーを捕食するかのように飛び出してきて、ヘカテーを包み込む。
 一瞬の内にヘカテーを飲み込んだ星の海は、そのまま包み込んだヘカテーを足下の星の海へと引きずり込んでいった。
 次にヘカテーの視界に飛び込んだのは、やはり同じ空間。
 それでも全く気にしないヘカテーは、相変わらずの迷いない足取りで進んでいく。
 程なく進むと、またあのワニが星の海から顔だけ出してヘカテーの方を窺っていた。
 それを確認したヘカテーは立ち止まると、くすくすと小さく笑う。

「・・・何がそんなにおかしいのか」

 そんなヘカテーへと、星の海から姿を現したワニは口を開いて、不機嫌な声音で問い掛ける。

「いえいえ、別におかしくて笑った訳ではないのですよ」
「では何故笑う?」
「それは勿論、おかしいからですよ」
「意味が解らん。何がおかしいというのか」
「貴方のその虚勢が、ですかね?」
「・・・・・・」

 ヘカテーの答えに、ワニは考えこむように口を閉ざした。それから少しして、ワニは再度口を開く。

「そうかそうか。君がそうなのか。ではではこちらへ案内しよう。我が主がお待ちかねだ」

 突然感情を失ったかのような無機質な声音でそう答えたワニは、ヘカテーに背を向けて星の海の中へと消えていった。
 それを見届けたヘカテーは、くすりと馬鹿にする様に小さく嗤うと、ワニが消えた方向とは反対の方向へ歩き出す。

「無駄に無意味に生きている。捻くれねじくれちぎれ飛ぶ。上げて落とすは何者か。そこに居るのに去っていく。右に左にいはしない。上に下にもいはしない。前に後ろに飛び越えて、お前の首を取ってやろう」

 歌うように言葉にしながら、ヘカテーは星の海を歩いていく。すると目の前の海が大きく盛り上がり、中から何かが飛び出してきた。

「何だ、その歌は?」

 星の海の中から姿を現したのは、山のように大きな顔。その目がヘカテーに向けられると、大きな口を開いて問い掛けてきた。ただそれだけで突風が吹き抜ける。
 ヘカテーはその風の影響を全く受けていないが、迷惑そうに顔の前で手を振った。

「臭うので喋らないでくれるかな?」

 その一言に、巨大な顔は視線を強くする。しかし、喋りはしなかった。素直なのかもしれない。

「別に意味はないよ。ただ単に、君をどうやって殺そうかと思案していただけで」
「そうか。出来ると思うか?」

 静かで真面目な声でそう問うも、ヘカテーは再度顔の前で手を振った。

「だから、臭いから喋るな」
「・・・・・・」
「それに出来ない訳がないだろう。現に君はもうその大きな顔しかないだろう?」
「・・・・・・」
「この体内だってそろそろ維持出来ないはずだ。もうすぐ君の本体も食い殺してやるから少し待て」

 それに大きな顔が口を開こうとしたところで、すぐさまヘカテーが鋭く指差す。

「喋るな! お前に言葉は必要ない」

 ヘカテーが強くそう告げた瞬間、巨大な顔は上下から強く押さえつけられたかの様に無理矢理口を閉ざされた。更には口に何か張り付けられた様に開かなくなる。しかし、見た目は何も変わっていない。

「よし、完了だ。さようなら」

 それを確認したヘカテーは、巨大な顔に背を向けて歩き出した。
 背後で巨大な顔が徐々に縮んでいくのを感じながら、ヘカテーは星の海を歩く。

「あれは詰めが甘いところがあるからね。目的のモノを回収したら、ちゃんと根元まで処理しておかないと」

 先程よりも星の数が減った世界を歩きながら、ヘカテーは何処か楽しげに小さく呟く。
 何処まで行っても変わらない景色を眺めながら暫く進むと、何処となく恨みがましい目で星の海から覗くワニの姿があった。
 ヘカテーはそれに気づいてはいたが、気にせず歩いていく。
 そのままワニの近くまで行くと、ワニは沈んでいくように密かに星の海の中に潜っていった。
 それを確認したヘカテーは一瞬で距離を詰めてワニが居た場所まで移動すると、両手の間に先端の尖った漆黒の細長い棒を現出させて、足下の星の海に思いっきり突き刺す。
 星の海の中に沈んだ棒の先端に手応えを感じたヘカテーは、そのまま棒を掴んでいる両手を絞るように捻る。
 捻った後に棒を引き上げていくと、体長三十センチメートルほどのワニが棒の先端で体内から棘を生やして絶命していた。

「ふむ、この程度で終わりか」

 ワニを星の海の上に置くと、ヘカテーは先程絞るようにして捻った部分を元に戻す為に反対方向に捻る。そうすると、ワニの体内から突き出ていた無数の棘が引っ込む。
 その後に軽く棒を上下に振ってワニを先端から外すと、ヘカテーはワニの尻尾を片手で摘まみ、もう片方の手で握っていた棒をそこらに放る。
 手から離れた棒は、そのまま星の海の上へと落ちていく途中で幻の様に消えていった。
 ヘカテーはそちらには目もくれず、尻尾の先端を摘まんだワニを眼前に持ってきて観察を行う。

「うーむ。消えない所を見るに、やはり核の一部か。丁度いい、腹が減っていたところだ」

 ワニを上部に掲げたヘカテーは、がばりと信じられないほどに大きく口を開く。
 自分さえ呑み込めてしまいそうなほどに大きく開いた口へとワニを放り込んでから口を閉じた。その光景は、全長三十センチメートルほどのワニの身体が実際よりも小さく感じられた。
 ワニを呑み込んだヘカテーは、口元を拭うように手を動かす。

「さて、あとは核の本体だが・・・もう少し下だな」

 足下に目線を落としたヘカテーは、少し考えて足を肩幅ぐらいに開くと、片腕を大きく引く。

「面倒くさくなってきたし、一気に進むとしよう」

 大きく引いた腕を星の海目掛けて勢いよく振り下ろす。そうすると、一瞬世界が弛んだように波打った気がした。
 腕を戻して周囲を見回したヘカテーは、再度歩みを再開させる。

「結構下まで下りられたみたいだね」

 見た目には先程までと何も変わらない景色ながらも、ヘカテーにはしっかりと階層を移動したのが解った。足取りも迷いが無いので、やはり道は知っているのだろう。
 暫く歩くと、ヘカテーは立ち止まって周囲に目を向ける。上下左右探るように視線を彷徨わせたヘカテーは、再度歩みを再開させる。

「この辺りのはずなんだが、妙に存在の気配が薄い・・・」

 不審げにそう呟きながら慎重に歩いていると、再度足をピタリと止めて上下左右と周囲に目を向けていく。

「・・・・・・ふむ。なるほど」

 そう呟いたヘカテーは、その場でしゃがむと足下を凝視する。

「偽りの中に真実あり。というやつかな?」

 ヘカテーが足下に手を当てると、それだけで湖面の様に波紋が生じ、足下の星が水面に映っているかのように揺らぐが、当てている手が沈む事はない。
 そのまま円を描くように手を滑らせた後、手の動きを止めて指を曲げる。

「見つけた」

 親指と人差し指で足下に映っていた揺らがない星を摘まむと、ヘカテーはそのまま持ち上げた。
 直径三センチメートルほどの歪な球状のそれは青白い静かな光を放っているが、よく見れば微かに脈動するかのように動いている。
 それを掲げるように目の前にもってくると、それを見詰めたヘカテーは歪な笑みを口元に浮かべる。

「へぇー、こんなものが核か。さっきの一部の方が大きかったが、内包している力はこっちの方が圧倒的に上か。核の中に面白い法則が入り乱れているようだから、これは美味しそうだ」

 今度は小さな口のままで開くと、摘まんでいた核をそのまま口の中にそっと入れた。
 口を閉じて光が見えなくなると、数秒後にヘカテーの身体が内側からはじけ飛ぶ。
 自身のそれを平然と見下ろしたヘカテーは、黒い靄によってはじけ飛んだ部分を直ぐに修復していく。

「やはり直ぐには適合しないか。でも、次は大丈夫そうだ」

 修復されたお腹の辺りを擦ったヘカテーは、納得したように何度か頷いた。
 それから数秒後、今度は星の海が溶けるように歪んでいく。

「さて、取り込みは終わったから戻るとするか。次は別の可能性を取りに行かないといけないし」

 そんな空間でも慌てる事無く、ヘカテーは転移の魔法を起動させる。
 一瞬で景色が変わり、星の海に移動する前の岩肌がむき出しの暗い部屋に到着する。それを確認したヘカテーは、来た道を戻っていく。
 洞窟を出て極寒の地に戻ってきたヘカテーはそのまま戻らずに、今度は別の方角へと足の向きを変えて進む。ヘカテーの用事はまだ終わりそうにはなかった。

しおり