其の六
「ぐぬぬ、やはり裏があったかぁぁ……!」
馬上でクレメンス将軍はうなった。
偵察に出していた兵士が、迫りくる女王軍の兵力が、松明の数から算出した数よりはるかに多いことを告げたのだ。
それが松明を利用したトリックであったことを将軍が悟るまで時間は必要としなかった。
「それ見たことか。私が危惧したとおりではないか!」
内心で自分の洞察力を自賛しつつ、クレメンス将軍は思案をめぐらした。
あの油断ならぬ女王のこと。第二第三の「奇策」をはりめぐらせていることは容易に想像できる。
であれば、ここはやはり進軍を一時止めて敵の出方を待つが吉か……。
クレメンス将軍はそう考えたのだが、そんな「慎重策」は幕僚たちが許さなかった。
湿地帯を前にしばしの待機を命じた指揮官にこぞって詰めより、口々に反対意見を唱えたのである。
「ここまできて何をためらうことがありますか。敵の兵力が想定より多いとはいえ、われわれの兵力の方がさらに多いのですぞ!」
「そのとおり。このまま一気に進軍し、数で圧倒してやりましょうぞ!」
「分散している敵を各個撃破。これこそ兵法の常道なり!」
進軍を主張してやまない幕僚らに、「こやつらは前に進むことしか知らぬ猪か!?」と内心で罵るクレメンス将軍であったが、そんな心情は態度にも声にも出すわけにはいかなかった。
正規軍である歩兵はともかく、自分に付き従っている騎兵のほとんどは同盟に与した貴族たちの私兵であって、直接の部下ではないからだ。
それゆえ幕僚の中には、自分が大貴族お抱えの将軍であることを鼻にかけ、指揮官であるクレメンス将軍を軽んじる態度をとる者までいるほどだ。
結局、クレメンス将軍は幕僚らに押し切られ、しぶしぶ進軍の号令を出した。
ひとつには、たしかに彼らの言うとおり、自軍の方が兵力で勝っていたこともある。
目と鼻の先にいる女王を討ちとりたいという個人的な欲もあったし、いつまでも手をこまねいていたら、湖畔を右回りに進軍してくる敵の別働隊に後背を突かれるという危険性もあった。
それらさまざまな理由からクレメンス将軍は進軍を命じ、それまで湿地帯を前に足を止めていた三千の兵が一転、気勢をあげて湿地帯に突入していった。
水飛沫をまき散らし、泥をはね飛ばしながら猛然と水と泥濘の中を駆けぬけていく。
「――来たわ!」
姿こそ視認できないものの、闇中に揺らめく大量の松明の灯火ととどろいてくる気勢に、同盟軍が湿地帯に突入したことをヒルデガルドは察した。
察すると同時に馬首を並べるパトリシア、ペトランセル両人とすばやく視線を交わし、腰のサーベルを抜き、その剣先を宙空に突きあげながら後背の騎士たちに叫んだ。
「全騎、命令あるまで待機!」
その声に後背の騎士たちが、馬上で長剣や槍を身構えたままじつと待機する。
だが、甲冑越しに発せられる戦意と気勢は抑えようもない。
そうしているうちにも、先鋒の一団が湿地帯から抜け出てきた。
そのことを目で確認することなく敏感に察したヒルデガルドが、隣のペトランセルに向き直った。
「ペティ、ここから狙えるかしら?」
その一語にペトランセルはくすりと笑い、
「もちろんよ。やる?」
「お願い。前任の騎士団長殿に宣戦を告げてあげて」
ペトランセルは小さくうなずくと馬体に備え付けの矢籠から一本の矢をとりだし、前方の闇夜に向かって身構えた。
湿地帯までは、矢撃の射程としてはまだ距離がある。まして、闇夜に標的の姿はまったく見えない。
それでも馬上で矢を構えるペトランセルの表情には、不安やためらいの翳りは微塵もなく、それどころか余裕めいた微笑すらあった。
やがて人の気勢や馬のいななきが強まってきたとき、フランソワーズにして「王国随一の弓の名手」と讃えられる女将軍の手から矢が放たれた。
弓弦の弾ける音色が響き、放たれた矢は一直線に闇夜の中を飛んでいった。
女王軍の騎士たちの耳に、わずかな悲鳴が聞こえてきたのは直後のことである。
暗中や距離をものともせずに敵兵を射落としたことを知り、たちまち騎士たちの口から「おおーっ」というどよめきがあがった。
満足げに小さくうなずくと、ヒルデガルドが手にするサーベルを頭上に掲げた。
「総員、戦闘用意!」
その声に、麾下の騎士たちが馬の手綱とサーベルを握る手にさらなる力をこめた。
そして、湿地帯を抜け出てきた同盟軍の一陣がようやく視認できる距離にまで迫ったとき。ヒルデガルドの声が高らかに響いた。
「全騎、突撃せよ!」
次の瞬間、気勢がとどろいた。馬蹄が響きわたった。
ヒルデガルドの号令を端に三騎士団の騎士たちはいっせいに馬を駆り、迫りきた同盟軍めがけて湖畔を突き進んでいったのである。
†
「は、始まりました、陛下!」
本陣近くの湖畔の一隅で、一人遠眼鏡を覗きこんでいたランマルがにわかに甲高い声をあげた。
遠くに望む闇中で激しく揺れ動く松明の群を遠眼鏡越しに見て、両軍が交戦を始めたことを知ったのだ。
もっとも、遠眼鏡など使わなくとも両軍が戦闘に入ったことは、容易に察することができた。
なにしろ両軍兵士たちの怒号や喚声、刃鳴りや馬のいななきといったものが、この遠く離れた本陣にまでとどろいてくるのだから。
ふとランマルは遠眼鏡から目を離し、ちらりと横を見やった。
五メイルほど離れた湖畔の一画には、遠景を黙して眺めているフランソワーズの姿があった。
甲冑は着けておらず、絹織りの真っ白な軍装に膝丈まである白いロングブーツ。
さらには白いマントという全身白づくめの装いが、美貌の女王をいっそう映えさせていた。
そのフランソワーズが静かな声で独語した。
「フフフ。あとはガブリエラが連中の背中を突くのを待つばかりね」
その一語を聞きとがめたランマルが不安げな声で問うた。
「しかし陛下。お味方の軍勢千五百に対し、同盟、いや反乱軍はブルーク城に守備隊を残しているとはいえ、二千五百前後はいるものと思われます。ガブリエラ将軍が敵の後背を突く前に、兵力で劣る三騎士団が撃破されてしまう恐れもありますが?」
「さあ、それはどうかしらねえ」
含みのある言い回しで応じると、微笑まじりにフランソワーズは語を継いだ。
「兵力で上回っているといっても、相手はさまざまな貴族たちの、それも戦いの経験の乏しい私兵が寄り集まった烏合の衆。対してわが軍の兵士は、武芸と操馬に優れた精鋭ぞろい。千人の差などあってないようなものよ。それに……」
「それに?」
「それに私はあえて指示しなかったけど、おそらくヒルダであれば、あの辺りに広がる湿地帯を戦いに利用するはず。そうなれば、むしろ戦いを有利に進めるのはわが軍の方よ」
「湿地帯を、ですか?」
「そう。敵にあえて湿地帯を通過させる。そうすることで人間と馬双方の体力を奪い、機をみはからって一気に攻めかかる。体力の消耗は戦意の低下につながるからね。ただでさえ兵士としての技量が劣るというのに、体力と戦意が低下したところを攻められては、こちらを撃破するどころか抗戦するので精一杯になるはずよ」
「な、なるほど……」
「今頃、あのナマズ髭は後悔しているんじゃないかしら。烏合の衆を率いたことをね」
フランソワーズの悪意のこもった推察は正鵠を射ていた。
同時分。同盟軍の陣内でクレメンス将軍は、底知れない苛立ちと後悔に歯ぎしりしていたのだ。