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月明かり見上げれば

 ――月明り。
 今日はいつもより明るい。けど、柔らかい光。僕はそう感じて、少しため息を漏らす。
 冷えた空気は、つまらないと言わんばかりに白い息をかき消していく。
 今日も、上手くいかなかったな。

 夜の工事現場のバイトを終えて、身体はクタクタだし、すっかり汚れた。腹も減った。

 乏しい街灯の中、吸い寄せられるようにコンビニへ入る。
 最大手のチェーン店といえど、この時間帯は品数が少ない。結局、おむすびとカップラーメンのシーフード味になった。すっかり飽きた組み合わせなのに。
 それは僕がずっと変わってないって証拠なのか?

 ――お前の演技には覚悟がない。変化がない。やる気あんのか?

 厳しい言葉が蘇ってきて、胸がじくじくと痛んだ。

 ああ、そうだ。少しだけ、遠回りしよう。

 そう決めて、僕はそっと道を外れた。
 人気のない路地で夜空を見上げると、独り占めしているようだった。 

 でも、その月明かりは、周囲の星の小さい光をかすませていた。
 僕はそのかすんでいる方の星だ。

 役者を目指そうと決心して。
 妻と、子を捨てて。
 僕は一人、この町にやってきた。
 もちろん最初から何もかも上手くいくはずがないことは覚悟していた。こう見えても社会人経験はしっかりとあるのだ。
 だから必死にバイトして、節約して、なんとかやっている。自分一人養うのに精一杯なんだ。

 そういえば、あいつは今日も誉められてたな。

 稽古を思い出して、やっぱりため息が漏れる。
 年齢的にも相手の方が若いし、稽古のための時間を取れるのも分かる。でも、それでも悔しいものは悔しくて。

 あーだめだ。プラス思考になれない。

 道端の小石を蹴って、僕は帰り道を急いだ。
 木造二十年もののアパート。そこが今の住処だ。前とは随分変わったけど、住み心地は意外と悪くない。
 古く錆び付いた鉄の階段をあがって、左端のドア──二〇一号室。今時でない鍵を差し込んで、ドアを開ける。

「ただいま、っと」

 誰もいない、寒いだけの真っ暗闇を照らして、僕は家の中に入る。古い和室だけど、エアコンだけは最新式だ。すぐにリモコンを操作してスイッチを入れる。
 静かな駆動音を立てて、エアコンは素直に動いてくれた。

「さて、と。お湯を沸かさないと」

 テーブルにラーメンを用意して、台所に立つ。
 一度鍋をすすいでから、水をはって火にかけた。そこからの熱がほんのり温かい。
 台所の目の前には、すりガラスの小さな窓があるんだけど、そこから冷気が入り込んでくるから余計にそう感じる。それにドアもすぐ隣にあるし。

「あー、いたいた、おっすおっす!」
「どわぁっ!?」

 そんなドアがいきなり勢いよく開かれて、僕は盛大に声をあげてのけ反った。
 いやだって、普通に開けないでしょう、こんなとこ!

「やだちょっと何そんなにビビってんのよ。防護チェーンあるから大丈夫でしょ?」

 からからと笑いながら茶化してきたのは、僕よりも幾分か年下の女性だ。こんな時間なのにしっかりとメイクが決まっているし、清楚なスーツ姿で、いかにもキャリアウーマンだ。

「そういう問題じゃないですって!」
「じゃあどういう問題なのよ。言っとくけど、開けて声をかけたことが問題にするなら鍵をかけてないあんたが悪いんだからね?」
「いやマスターキーで鍵あけたのそっちですよね」
「細かいこと気にしてたら役者として大成できないわよ?」

 しれっと言い放つ大家さんの表情に悪気はない。

「それよりも、ちょっといい?」
「はい、どうぞ」

 僕はチェーンを外し、ドアを開ける。
 瞬間、大家さんは電光石火の動きで僕の懐に潜り込み、綺麗なマニキュアの施された人差し指で僕の首筋を突いた。

「ふふふ。今ので三回は死んだわよ、あなた」
「いや一度です。っていうか、どうされたんですか?」

 しっかりと大家さんから離れつつ、僕はため息をつく。

「うん、あのさ、悪いんだけど、ちょっちこれから出張は入っちゃってさ」
「こんな夜に?」
「うん。それで察してくれると私としては精神衛生上ありがたい」

 にこにこした顔の奥に潜む何かを察して、僕は頷いた。きっとロクでもない出張だ。

「それで、息子を預かってくれないかなぁ」
「えっ」
「オネーサン知ってるぞ、明日からしばらく休みなの。自宅でトレーニングするために」
「そ、それは……」

 本当にどこで手に入れてくるんだろう、この人は。

「家賃サービスするからさ、お願いね。もう少ししたらこっち来ると思うから」
「既に色々と決定事項にされてるんですね?」
「そうとも言う。それじゃ、悪いんだけど。お願いね」

 大家さんは言うだけ言って、ぱたぱたと出ていった。
 一気に静かになった室内で、僕は大きく息を一つ吐く。強引だけど、仕方ないとは思う。これからくる息子クンは高校二年生。サキより一つ下の子だ。
 高校生なんだから留守番くらい簡単に出来るだろうけど、彼にはあまり一人にさせたくなり理由がある。

 難病による発作だ。

 もしそうなった時、誰かが処置をして、救急車を呼んでやらないといけない。
 その事情を知っているからこそ、僕も断れない。

「……ま、休みなのは事実だしな」

 自分にそう言い聞かせてお湯が沸騰するのを待っていると、ドアが控えめにノックされた。それだけで分かる。大家さんの息子――カイ君だ。

「いらっしゃい、開いてるよ」
「あ、はい。お邪魔します」

 優しく声をかけると、控えめにドアが開く。
 なんて礼儀正しいのだろう、と毎回思う。大家さんとのやり取りの直後だから余計だ。
 中で待つよう促すと、真面目、という言葉が似合う格好のカイ君は、そのまま靴を脱ぎ、綺麗に揃えてから奥へいった。
 このあたりは、しっかりと大家さんの教育が生きている形だろう。

 僕はそっと棚からカップとインスタントの紅茶パックを取り出す。
 外は冷えていたから、温かいのが欲しいだろう。エアコンの暖房もまだそこまで効いてるわけじゃあないし。

「あの、本当にお世話になります」

 しゅっしゅ、とお湯が沸きだした頃、カイ君が口を開いた。

「ああ、気にしないでいいよ。問題はないしね」
「……本当におじさんは良い人だね」

 カイ君はちょっと異質なくらいには聡い。
 どんなに取り繕っても、気付いてしまう。そういうとこ、サキもそうだったなぁ。意外とカンが鋭いんだ、あの娘も。後ちょっとキツい。
 彼はそうじゃなく、柔らかいんだけどね。

 紅茶パックを入れたまま、僕はテーブルに戻る。
 ラーメンはちょっと諦めた。匂いキツいし。それでもお腹はすいたのでおむすびは食べるけど。

「そうでもないよ」

 パリパリとおむすびの包装紙を破きながら、僕は苦笑する。

「いや、だって、こうして様子見てくれるし、色々と気を使ってくれるし」
「ははは」
「ホント、パパだったらいいのに」

 気遣いは出来るし聡い。けど、まだ子供。
 それがカイ君だ。
 彼はぐいっとテーブルに乗り出してくる。

「ねぇ、っていうか、パパになってよ。ママのこと、嫌いじゃないでしょ?」
「へ?」
「イイ感じだし、ママだってあそこまで遠慮がないの珍しいし」

 まぁ、親しくしてもらってるのは理解してる。
 こう見えてしっかり大人だ。そういった機微に疎いわけではない。逆に言えば、相手も大人であり、そういった線引きというのは互いにしっかりと取っている。向こうのスキンシップがパーソナルスペース侵害甚だしいだけで。

 それに、事情があって、それにより利害が一致してる、っていうのが一番だしなぁ。

 その辺りまでは、カイ君もまだ分からないかな。

「せっかくそう言ってくれるのは嬉しいんだけどね。僕は良いパパじゃないんだ」
「へ?」
「耳にしてると思うけどね、僕は役者志望だ。この年齢だけどね。でも、そのためには経済的に色々と弱くなっちゃうから、ね。そのために、妻と子と別れたんだ」
「ま、まぁそこは聞いたことある」
「気にしなくていいよ、事実だから」

 少しだけ気まずそうにするカイ君をフォローしつつ、僕は続ける。

「まぁ思っただろうけど、事実として僕はサイテーな父親なんだ」

 おむすびを一口して、僕は言う。

「だから、誰かと結婚とか、家庭を持とうとか、そういうのしちゃいけないんだよ」

 ああ、子供に僕は何を言っているんだろうか。
 自嘲がどうも止まりそうになかった。

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