廊下で鳴りやまない呼び出し音
高校三年の冬。
誰もが受験モードに入っていて、どこかピリピリする空気。その極限の形が、センター試験だと思う。
あれ以来、恋愛ごとから遠のいた私は順調に勉強を進め、国立の推薦を得られるくらいに成績優秀者だった。けど、センター試験を課せられたので、結局勉強三昧である。
今日もママの弁当を貰って、私は試験に挑んだ。
独特の雰囲気のある会場は、もういるだけで胃がキリキリしそうな、絶妙なくらい張りつめていた。
大きい会場で、会話している人たちもいるけれど、勉強している人たちの方が圧倒的に多い。私も後者の方だけど、もう軽く見直す程度だった。
勉強、というよりは、自分を落ち着かせるためのルーティンワークに近い。
それでも、会場全体の雰囲気のせいか、落ち着けない。
「……おはよ」
おどおどとした態度で声をかけられた。
「夜口?」
「隣の席だったんだね。偶然」
幼馴染の姿を認めて驚くと、夜口は堅い表情で笑みを浮かべた。いや、無理しなくていいんだけどね?
っていうか、ガチガチに緊張してないか。
「うん、偶然だね」
「びっくりした」
「声が超棒読みっていうか震えてない? ちょっとすごく緊張してるとか」
「うん。正直ちびりそう」
「トイレいこう?」
小刻みに震える夜口に、私は実に的確なツッコミを入れた。
「大丈夫。もう出ないから」
「何回いったんだあんたは」
っていうかなんだその無駄な自信は。
「うう、だって、この結果が悪かったら……」
「そう後ろ向きなことばっかり考えてたら、本当にそうなっちゃうよ」
「それもそうだけどさ」
苦笑して、私はつい鼻から息が漏れた。なんというか、私が落ち着いた?
けど、夜口はそうでもないようで、ぎゅっとしきりに何かを握りしめていた。あれは確か、お守りだったはず。
おばあちゃんから貰ったんだ、って喜んでたのを覚えてる。
「ほら、お守りをそんなにしないの」
私はそっと強く握りしめられているお守りを助けようとして、夜口の手を触った。
一瞬だけ凄い力がかかったけど、すぐに弛緩したので、私はさっと救出する。私は少し曲がってしまったお守りを伸ばしてから、夜口に返した。
「ほら、おばあちゃんから貰った大事なものでしょ」
「あ、ああ、うん」
「そんなに緊張が取れないなら、試験が終わった後のことでも考えたら?」
戸惑う夜口に、私は提案を一つする。
ママがいつもしてくれていたことだ。ママは顔に出したりはしないけど、いつもここぞという時に私を助けてくれる、魔法のことばたちをくれるんだ。
「ほら、美味しいご飯食べるとか、カラオケいくとか、なんかあるでしょ」
「うん。おばあちゃんのお見舞い……いきたいなって」
お守りをそっと胸にやりながら、夜口は少しだけ顔を綻ばせた。あ、成功したかな。
「いけてなかったの?」
「おばあちゃんが、お見舞いに来るなって。そんな時間あるなら勉強しなさいって」
「あー、あのおばあちゃんなら言いそうね。気が強いというか、基本的に全部強いから」
「そうだね。保育園の頃だっけ? イタズラした時、すごく怒られてたね」
「後にも先にもスカートとパンツ剥ぎ取られてナマ尻ペンペンされたのはあの時だけね」
「……女子がナマ尻ペンペンとか言わない方がいいと思うんだけど。特にこんな場所で」
「……あ」
夜口が顔を赤くさせながら指摘してきて、私も顔を真っ赤にさせた。
でもかなりリラックスはしてくれたらしい。
盛大な自爆かました私の心拍数はうなぎのぼりだけど。でもまぁ、少しは楽になってくれたなら良かったかな? 幼馴染だし。
ちなみに私は明日、ママとおでかけする予定である。
久しぶりだしなぁ、バイト代とか溜まってるし、ちょっと贅沢してもいいカモ。
なんて考えてると、私もしっかり落ち着いた。
会話はそれっきりなくなって、そして試験の時間がやってくる。
「大丈夫、ダイジョウブ」
私は、出来る子。
◇◇◇◇◇
試験の手応えは、上々だった。
もうすっかり陽も落ちてしまっていて、寒さもすごくて、私は足早に帰宅した。
いつものようにカギを開けて、きっといつものように明かりと暖房がついていて――。
「あれ?」
ただいま、と言うよりも早く、疑問がやってきた。
明かりが、ついてない?
何か嫌な予感がして、私は明かりをつけながらリビングへ向かう。
「――ママ!?」
リビングの明かりをつけて、私は絶句した。
冷たい床に倒れているのは――
――ママ。
「マ、ママ!? しっかり、しっかりして!」
慌てて駆け寄って揺さぶる。けど、返事はない。
頭が、真っ白になった。
どうして、何があったの。え、どういうこと。
何もかもが私を襲ってきて、私は息さえ忘れた。
いや、いや、いやだ。
ダメ。でも、ダメ。
このまま、何もしなかったら、じっとしてたら、ママが死んじゃう。
しっかりして、サキ。
今ここで、ママを助けられるのは、私だけだ。
「救急車っ……!」
不安で潰れそうで、頭なんて何も回転しなくて、視界も狭くなってて。
掠れた声で、私はなんとか救急車を呼んだ。
本当に完全に取り乱してしまって、駆け付けてくれた救急隊員に何も伝えられなくて、ただ情けなくて。でも、それでも、なんとかついていって。
緊急手術が必要だからって、お医者さんの説明を受けて、同意書にサインして。
手術室のランプがついた時、私はようやく我に返った。
――あ。
そっか。ママ、もしかして、死んじゃう?
は、と、息が漏れて、息が吸い込めなくなりそうになって、私は慌てて息を吸う。
あれ。呼吸って、こんなに意識しないと出来なかったっけ?
なんだかぐるぐるして、気持ち悪くて。
少しだけ状況を理解したら、少しだけ余裕のできた脳の容量に容赦なく不安が押し込められて、なんだか、もう。
「ちょっと、大丈夫」
駆け付けてきてくれたのは、看護師さんだった。
さっと毛布を貸してくれた。そのぬくもりに、思わず縋る。
「不安だよね。まだ高校生なのに」
そっと隣に座ってくれて、背中をさすってくれた。
そのおかげで、少しだけ、頭がまた回転する。けど、そこにまた不安がやってくるのは学習していたので、私は脳裏をよぎった考えに飛びつくことにした。
「あ、あのっ……」
「どうしたの?」
「その、電話したくて、でも、その……」
「ああ、それならそこに公衆電話があるわよ」
看護師さんが指を向けた方向に、緑色の公衆電話があった。
私は一言お礼を伝えてからすぐに駆けこむ。
受話器を取って、お金を入れて、アナログなキーを押し込む。一度もかけたことはなかった、でも、しっかりと、今でもすぐに思い出せる数字。
――プルルルルッ。
つながった。
不安で不安でたまらなくて、私はゆっくりと息を吸う。
きっと仕事中かもしれない。時間的にありうる。でも、でも。パパは言ってくれたから。困ったことがあったら、いつでも電話するんだよって、夜中でも、仕事中でも構わないからって。
だから。
ぎゅっと受話器を握りしめる。手から汗がしみだしているのが良く分かった。口元が自然と閉まって、電話がつながるのを待った。
留守電には、ならない。
どうかしたのかな。トイレとかお風呂とか? それとも仕事中?
あ、でもそれなら留守番電話にするよね。
どうして切り替わらないんだろ。
ねぇ、パパ。
私は、サキは、今、とっても心細いよ。
頼れる人がいなくて、どうしようもなくて、どうしたらいいかも分からなくて。
今まで、確かに一回も電話しなかったけど。
都合いいかもしれないけど。
でも、お願い。出て、出てよ……パパ……助けてよっ……!
ねぇ、ねぇ……。
静かで、暗い病院の廊下。鳴り響くだけの呼び出し音に、私はずっと問いかける。
「……水瀬ちゃん?」
――パパ?
はっと顔を上げると、そこにいたのは、パパじゃなかった。
私に声をかけてくれたのは、夜口だ。
どうしてここに?
と訊ねる前に、頭が回転した。そうだ。そういえば、センターが終わったらおばあちゃんのお見舞いにいくって言ってたから。きっと、そうだ。
「よ、夜口……」
おろおろとして、私は未だに呼び出し音が続く受話器を手放す。
だらんと落ちた受話器。
慌てた様子で駆け寄ってきてくれた夜口。
そんな彼に指で涙を拭き取られて、私は泣いていたんだと気付いた。
夜口は受話器を戻してくれた。
ぴぴ、ぴぴ、と電子音が鳴って、お金が戻って来る。
「何か温かいもの買って来るから、そこに座ってて。すぐ戻ってくるから」
「う、うん」
公衆電話の隣にあったソファに私は腰かけた。
ふぅ、と息を吐いて、吸う。
ゆっくりと公衆電話を見上げる。受話器が置かれている粗、音なんて鳴っているはずがないのに、どうしてか、呼び出し音が響いている気がした。
「お待たせ」
本当に夜口はすぐ戻ってきてくれた。
そっと渡してくれたのは、私の好きなメーカーのミルクティーだった。
それをちびりちびりとやりながら、私は事情を説明する。
勉強上手、なんて言われてた私だけど。ノートを作るのが上手くて、説明上手とも言われたことのある私だけれど。
てんでそんなことはない。
つっかえつっかえ、支離滅裂。私はたっぷり時間を使って、ママが倒れたことを説明した。
「……大変だったね」
「うん」
「ご苦労様。よくやったと思うよ。救急車を呼んで、こうして待ってて」
「え?」
夜口は、静かな廊下にそぐう小さくて落ち着いた声で言ってくれた。
「こうして待ってくれる人がいるから、あそこに入っちゃった人たちは、戻ってこれるんだよ」
「……夜口」
「だから、信じていよう。お医者さんも頑張ってるし、ママも頑張ってるから」
「……うん、うん」
私は、頷くことしか出来なかった。
つながらないパパなんかより、今傍にいる夜口の方が、頼りになった。
同時に私は決めていた。
忘れよう。
パパなんて、いなかったんだ。どこにも、いなかったんだ。
ずっと色鮮やかに保っていた記憶が褪せていくのを、私はどこかで感じた。