私が嫌いになった理由
「──困ったことがあるなら、いつでも電話するんだよ。仕事中でも夜中でも構わないから」
そう言って、パパは私の頭をそっと撫でた。
相変わらず大きくて、ちょっとゴツゴツしてて。そしてガサガサで、こそばゆい手。
求めれば、いつだって私を迎えてくれるその手が離れていくのだと、私は理解して胸がつぶれそうだった。
寂しい音を立てて鍵が開いて、ドアが動く。
入ってきたのは、スチームのような風と、色濃くなった夏の声。
蒸し暑いそれは、簡単に私の頬と髪の毛をべたべたにくっつけた。
私は、パパを追いかけなかった。
きっとママが嫌がるだろうから。
今もそう。ママは見送りにもこない。いつからだったかな、ママがパパを見送らないようになったのは。
もう虚ろになった記憶を求めていると、パパの姿は消えていた。
まだ、私の背中にランドセルが乗っかっていた頃のことだ。
蝉時雨、夏時雨。
外はきっと、無駄に高い積乱雲と、明るい青の空だ。
滲み出る汗のせいで貼り付いてくる髪をかきわけて、私は靴を履く。
「サキ、お弁当」
カバンを肩に担いだタイミングで、ママがきれいな赤のスカーフで包まれた弁当箱を渡しに来てくれた。
私はしっかりとそれを受け取る。
「ありがとう、ママ」
「うん、いってらっしゃい」
笑顔を向けると、ママも笑顔を返してくれた。毎日、私が学校へ行く日は必ずやる。
大事なお弁当をしまいこんで、私は外に出た。
ママは、私をたった一人で育ててくれてる。
大変なのに、毎日お弁当を、それも美味しいお弁当を作ってくれる。ただの一度だって、私は残したことがない。
私は外食よりも、コンビニよりも、ママのご飯が大好きだった。
外は暑い。
たった徒歩五分の道のりだけど、やる気を削ぐのには十分だ。
視界の端に見えるグラウンドでは、野球部の男子たちが声を張り上げながら練習をしていた。朝早くからご苦労様と思いながら、私はグラウンド沿いの道を歩く。
今はノック、だろうか。
野球のルールには疎いのだけれど、そういう単語だけは覚えた。理由は至極簡単だ。耳元でひたすらにうるさく語るやつがいるのだ。
「水瀬!」
直球で射抜いてくるような声。というかうるさい。無視をしようと思ったけど、また名前を呼ばれた。
仕方なく横目をやると、猛然とした勢いで走ってくる男子が一名。眩しいくらいの好青年と言えるだろう。
彼は朝目陽(あさめ よう)。
我が高校の誇るエースである。
毎回思うのだけれど、よくもまぁあんな距離から私を見つけられるものだ。さすがドラフト候補と謳われるだけあるか?
「おはよう!」
「おはよう。朝から元気だね」
ちょっと皮肉をこめて言ってやるけど、単細胞らしく、朝目は元気に「おぅ!」とだけ返事をした。
はっきり言おう。私はこいつが苦手である。
一頻りわめきにも似た口上を聞き流し、私はてくてくと歩いていく。さっさと暑い道から解放されたい。
「なぁ、水瀬、今日の昼は暇?」
「ご飯食べるから暇じゃない」
「よし、じゃあ中庭な!」
「ちょっとねぇ、話聞いてた? 今の聞いてた?」
本気で問い詰めるけど、朝目には効果がない。一度決めると一切話を聞かないタイプなのだ。
結局、朝目は「じゃあ!」と言って立ち去ってしまった。私としては何でさも約束を取り付けたように「じゃあ」となるのかが本気で分からない。
確かに朝目は、プロ野球のスカウトが何人も目をつける程のスポーツマンで、一般的に見てイケメンの部類だ。性格だってああだし、正直に優良物件だと思う。
でも、それとこれとは違うのである。
もやもやしたものを吐き出すように、私は重いため息をついた。これはいよいよハッキリと言ってやらねばならんかも知れない。
それはそれで気が重い。
なんとなく重くなった足取りで、私は自分の教室へ入った。
「おはよ」
「おはよう」
席に座ると、隣の男子──夜口司(よるくち つかさ)が挨拶してきた。
挨拶を返せば、それで終わる。
素っ気ないのだろうけど、私にとっては一番適切な距離間だったりする。さすが幼馴染、良く分かっている。
「……今日も暑いわね」
そう独りごちて、私は一つ席を挟んだ窓から、青空を見上げた。
◇◇◇◇◇
「……なぁ、水瀬。俺と付き合わないか?」
昼休みの中庭。そこでも端っこの、今は使われなくなった小さい体育館のあたりで、私は朝目から告白された。
いや、まさかとは思ってたけど、このタイミングで来ますか。
私は思わずため息をつきかけた。
「俺はこれから甲子園にいって、活躍して、プロになって、スターになる。そうしたら、不自由させない生活だってさせてやれるし、メジャーにいけたら、海外生活だって出来ちゃうぜ。水瀬は英語得意だから、ちょうど良いだろうし」
私の沈黙をどう取ったか、顔を赤くさせ、嬉しそうに朝目は語る。
――自分の夢を。
ああ、どうか、それを辞めてくれないかな。
「これから俺には支えがいると思うんだ。色々とあるかもだけど、俺は水瀬を一生守るし、水瀬に支えて欲しいんだ。だって、水瀬はそこそこ可愛いし」
おい。本人を前にしてそこそことかつけんな。
こういう部分からして、デリカシーがない。割と幻滅ポイントだぞ。それでもあんたはヒーローだから、飲み込んじゃう女子も多いんだろうけどさ。
「それに、家事とか得意じゃん? 料理だって、すっげぇうまいし」
……ああ、そっか、そういえば、出会ったきっかけってそれだっけ。
カワイイ感じに恥ずかしがりつつ頬をぽりぽりする朝目を見て、私は思い出した。
確か、いつだったか。調理実習で自分のお昼ご飯を作ろうって時があった。でも、その日もうっかりママがお弁当を作っちゃって、で、どっちを食べるかって言えば、もう言うまでもなくママのお弁当なわけで。
で、どうしようかなーと思ってたら、朝目がお腹空かせた子犬状態だったので恵んであげたら、泣いて喜んで食べたんだっけ。
なんだ、餌付けか何かか。
「だから、その、なぁ。一緒に夢を見ようぜ」
「うん、無理」
我に返った私は、即答した。
「……え?」
即答で拒否られるとは思ってなかったのか、朝目は顔をひきつらせた。
「確かに、朝目の夢は立派だし、応援したいと思う。でもね」
私は精一杯の笑顔を浮かべる。
「ごめんね。私、夢を語る人ってダメなんだ」
そうハッキリと告げて、私はその場を後にした。
原因はパパにある。
パパは、自分の夢のために私とママを捨てた。だから、私は夢が嫌いだ。夢を語って、そこへ真っすぐ進む人が嫌いだ。
いつかパパのように、私を捨てるかもしれないから。
それに、今の私には誰かと付き合うなんて選択肢はない。
高校二年の夏。
もう受験を意識しなければならない時期だ。
本当は高卒で就職も考えたんだけど、ママが「大学は出てた方がいいから」と進学を勧めてくれたので、そっちに甘えた。
けど、私立なんて簡単にいけないし、なるべく負担はかけたくない。
だから私は国公立の大学を狙っているし、奨学金制度を使う予定だ。経済事情を考えれば浪人も許されない。そのためには一定以上の成績が必要だった。
塾とかも行けないし、先輩たちに使わなくなった受験の参考書とかを譲り受ける予定だ。
そんな苦学生まっしぐらの私である。
「……もし、パパがいたら、今の告白、受けてたのかなぁ」
そうぽつりと零した声は、真夏の湿気に吸収されてしまった。