第百九十三話
世界が、止まった。
息さえ忘れる。それだけの空白と、凍えがやってきて、俺はただその光景から目を離せなかった。
ただその存在に圧倒されたんだ。
ポチが弾かれる。まるで羽虫を追い払うような動作で。
『ぎゃんっ!』
「ポチ!」
ポチが地面に叩きつけられた音で、俺は我に返った。すぐに駆け寄ろうとするが、ポチが素早く起き上がる。
『問題ない、はたかれただけだ』
自分よりも奴を警戒しろ。言外に窘められて、俺は上を向く。
突如して姿を現したのは、サラサラで鮮やかな蒼い髪をもった、青年風の何かだ。見た目は人間だ。だが、人間ではない。
それにあの背中の翼。神々しいくらい白いのに、闇にしか見えない。どういうことだ。
そいつは酷薄な冷笑を浮かべながら、同様に動けなくなっているアザミの頭を片手で掴む。
「せっかく苦労して手にいれた不死の細胞と、月狼の呪いを加速させる呪文まで授けたと言うのに……この程度か」
ただそう言っただけなのに、アザミが恐怖に震える。何かを言おうとしたが、無造作にその口が黒い氷で閉ざされた。
「ガチャの大当たり転生者だと叫ばれていたが、なんでもないな。スキルとステータスに溺れた雑魚だ。これなら百年前の奴の方が骨があった」
──なんだ、何を、言っている?
「コイツではなく、おまけでハズレな君の方が良かったかな?」
その酷薄さが俺に向けられて、俺は後ずさった。
こいつ、やばい。本気で──やばい。
「いや、君では器という意味で相応しくないか。所詮は
「……あ、ああ……」
「おっと、忘れていた」
ぐしゃ。
本当に、そんな音がした。まるで豆腐でも握りつぶすように、そいつはアザミの頭を潰した。
飛び散る血と肉片を浴びながら、嗤う。
「名乗りを忘れていたね。私はベリアル」
再生の始まった頭をまた握りつぶし、ベリアルは言う。
「人は、悪徳の魔神と呼ぶね?」
やっぱりか。
そりゃそうだ。魔神クラスの魔族を恐怖させ、そしてあっさりと殺せる存在など、魔神以外にいるはずがない。
──悪徳の魔神、ベリアル。別名、水の魔神。
水の魔族の頂点だ。
「さて、こんな人間風情、一蹴して欲しかったものだが、所詮は子供か。我らと同格にはなれなかった。悲しいものだ」
ぼこぼこと再生を始めるアザミを見下ろして、ベリアルはだが笑顔だった。
「とはいえ、器としては良いか」
……器?
まさか、乗っとるつもりか?
「永劫苦しむと良い。身の程知らずの転生者」
予想は直撃だった。
アザミとベリアルの姿が重なり、一瞬でアザミが消える。否、肉体がベリアルのものへと変質していく。
「あ、ああぁぁぁぁあああああぁぁああぁぁぁっ!」
絶叫の断末魔。
『魂が……喰われていく……』
呆然とした様子でポチがこぼす。
俺にはそこまで見えない。だが、魔力が変化していくのは理解できた。そう、変化だ。
「レスタの肉片。これを手にいれるのに、私は二人の部下を犠牲にした。そう、アザゼルとアズラエルだ」
ベリアルは体の感触を確かめながら、とんでもないことを言い放った。
「二人は快く道化を演じてくれたよ。様々な罠と状況を作り出し、あの決戦まで導いた。見事に引っ掛かってくれて愉快ですらあったよ。すなわち、湖にヴァータを出現させるという罠さ」
さも当然のように語られて、俺は驚愕した。
あれは、あれだけの騒ぎは、レスタの細胞を手にいれるためのブラフだったってことかよ?
信じられない。けど、逆にその時しか考えられない。ヴァータの監視にあるレスタの細胞を手にいれるタイミングなんて。
「苦労した甲斐があったものだな。これは確かに良いものだ」
『貴様、何を……!』
「余興だよ。水の魔神、ベリアルの復活の瞬間としてね?」
静かに言い放った矢先、手のひらを俺たちに向ける。
それだけで、周囲が全て凍りついた。
急激に気温が下がり、体温が奪われていく!
吐く息は白く、耳が、鼻が痛くなる。なんだ、一気に氷点下にまで下げられたのか!?
「母が休んでいる今、眷属である私が頑張るのは当然だろう?」
「お前っ……何をっ」
「魔族が鳴りを潜める時期は終わった、ということだ」
ゆっくりと、ベリアルが降りてくる。空中さえ氷に閉ざしながら。
「今日からは私が母たるエキドナの代わりだ」
澄んだ音を立て、氷の玉座が生まれる。
ベリアルはそこに腰をかけて、尊大に足を組んだ。
「さぁ、震えろ、人間ども」
言葉が威圧になる。
声が届いただけで、俺は足がすくんだ。
『……最悪の事態だな』
ポチがいつにない焦燥の声を漏らす。
『魔神というものは、存在が強大すぎて本来の姿を顕現させることは出来ない。世界そのものが持たないからだ。故に、触媒となるものに憑依して顕現する。憑依するという行為そのものは魔族と同じだが、理屈が異なるのだ』
「なんだそれ……」
『その辺りは我ら神獣も似たようなものだ。だが、問題はその触媒の強さだ。もちろん強ければ強いほど、魔神はその力を使役できる』
ってことは、ベリアルはその強靭な肉体を手にしたってことか!
『エキドナを超える器の持主だ。これは脅威だぞ』
「……現時点での勝算は?」
『ゼロだな。悪いが、全盛期の私なら、なんとか抑えきれるだろうが、とてもとても望めないな』
ハッキリと言い切られ、俺は苦笑いしか出なかった。
状況は絶望的。おそらくも何も、逃げることさえ叶わないだろう。だったら華々しく散ってやる、なんてブシドーは俺の中に育ってはいない。
だったら、なんとかしてハインリッヒが来るまで時間稼ぎをするしかない、か……。たぶん、ハインリッヒが仲間を連れてくるはずだし。
「がっはっはっはっは! 意気消沈してどうするんじゃ!」
色々と考えていると、ライゴウが全部を笑い飛ばす。大剣を掲げ、その表情は戦意に満ちていた。
こんな時、こういう性格は本当に頼もしいな。
どこか勇気づけられて、俺も戦意を取り戻す。
勝つことは出来ない。けど、希望をつなぐことなら、出来る!
担任も俺と同じなのか、大きく深呼吸してから魔力を高めていった。
「矮小なる人間ども。この私に挑むか……良いだろう。だがまともに相手をしてやれば、一分と持つまい? ならばこの私を、玉座から動かしてみろ。そうすれば今回は引いてやる」
玉座に肘をつきながら、ベリアルは愉快そうに言った。
なめやがって。
「その言葉、後悔するなよ! がっはっはっはっはっは!!」
瞬間、ライゴウが飛び出す。周囲にはすでに氷が張られているが、関係なくバリバリと割りながら突き進み、間合いに入った。
「雷轟剣っ!」
「ふん。鈍いな」
ほとばしった稲妻が、止まる。
否、氷で鎖される。
瞬間、俺は動いていた。
「《エアロ》っ!」
空白へ差し込むように俺は風を放ち、強引にライゴウを吹き飛ばす。瞬間、凶悪な氷の氷柱が四方八方に生まれ、さっきまでライゴウがいた空間を貫く!
さらにポチが駆け抜け、吹き飛ばされたライゴウをキャッチする。
「ほう、カンの鋭い子供だ」
ベリアルの目線がやってくる。それだけでもう動けなくなるくらいの魔力が押し寄せてくるが、俺は気合で弾き飛ばす。
くそバケモノだな。ライゴウのあの速度を鈍いとかいうか。
ポチが回りこむようにして俺へ駆け寄り、ライゴウを解放した。
「ぐぅ、すまん!」
ライゴウはすぐに起き上がって剣を構える。
合わせて担任も俺のところへやってきた。その表情は苦い。
「迂闊に接近できねぇな……」
「だが、かといって固まっていては、どうしようもないぞ?」
小声の担任の愚痴を拾い上げながら、ベリアルは指を鳴らした。
直後、ベリアルの足元の氷が膨れ上がり、竜を模してこっちへ襲い掛かってくる! しかも一匹だけじゃない! 全部で――三匹!
こいつら、自律してやがる! 魔力の感じからして、中級魔族並みの強さか!
「俺が迎撃します! ポチ!」
『承知した!』
俺が地面を蹴ると同時にポチが遠吠えを放ち、落雷を呼び寄せる!
腹の底まで響くような落雷音が幾つも轟き、氷の竜に叩きつける。その威力は凄まじく、氷の竜の皮膚が次々と破壊されて剥げていく。
俺はそこへ《ソウル・ソナー》を撃って核を確認し、そこへ狙いをつける。
「《クリエイション・ブレード》」
地面から生み出した何本もの剣を持ち、俺は地面を蹴って加速する。
「《真・神撃》っ!」
一瞬の加速。そして核を両断し、俺は次の目標へ切り替えてまた《神撃》を放つ。
ガシャン、とガラスが砕けるような音を残して三体の竜は砕け散る。俺はボロボロになった剣を捨てて、ベリアルを横目に睨みつける。
剣はまだ一本、残ってる!
「ほう」
俺はそれを地面に突きたてる!
「《真・神撃》っ!」
そして放った一撃は、地面にへばりつく氷を砕く。瞬間、周囲の氷の全てが砕けて散った。
ベリアルの表情が、一瞬だけ感嘆に歪む。
「素晴らしいな、気付いたのか。魂を与えた氷であることを」
「テメェのやりそうなことだからな!」
ライゴウへの攻撃でなんとなく気付いてたことだ。
地面に展開した氷は、魔族だってことに。ベリアルは単純に指示を送っていただけなのだ。だからこそ、ライゴウはあの攻撃に気付けなかった。
「ふふ、違いない。だがそれでどうするつもりだ? 言っておくが、すぐにまた蘇るぞ」
ビキビキと音を立て、ベリアルの足元から氷がまた伸びてくる。
ってことは、あの玉座そのものもまた、氷の魔族と思っていいな。
だったら、斬るか。まとめて。
「おっと。今の攻撃で無理やり玉座からはがされたらたまらんな」
パチン、とベリアルが指を鳴らす。
刹那、氷の結晶が無数出現し、周囲に漂ってベリアルを隠す。
これはっ――!
「君のその技は、発動条件として私の姿が見えている必要があるのだろう? 気配も同じだ。故に、隠れさせてもらうよ?」
当然のように先手を打たれ、俺は舌打ちを入れた。くそ。やりやがった。
無数に漂う氷の結晶からはしっかりと魔力を感じる。さすがに低級魔族くらいの力だが――それでも、数はとんでもない。
ポチが吼え、その氷の結晶の大群に落雷を叩き込む。
光と破壊が飛び散る中、氷の結晶もまた砕けていく。だが、その場からすぐに新しい結晶が生まれた。
『なるほど、厄介な分裂能力だな』
「ふむ、これはさすがに手が足りんの……」
「全力攻撃を叩き込んだところで、どうなるかってとこだな」
ライゴウと担任も唸る。
くそ、鉄壁だな。
どうする、と焦れていると、気配が背後から生まれた。
「手が足りないようですねぇ」
「俺たちが補ってやるぜ?」
振り返ると、そこにはみんながいた。
メイ、フィリオ、アリアス、セリナ、アマンダ、エッジ!
「みんなっ……!」
「あの氷の結晶をぶち抜けばいいんだろ? だったら俺たちも手伝うさ」
アマンダが長剣を構えながら頼もしく笑う。応じて、アリアスとフィリオも剣を構えた。
いける。これだけの戦力があれば――行ける!
「悪い、頼む。狙いは中心を出来るだけ広い範囲でぶち抜いて欲しい。一瞬でいいから」
俺の言葉に、全員が頷いた。
そう。一瞬だけでいい。一瞬だけベリアルの姿を捉えられれば、どうにかなる。
「《クリエイション・ブレード》」
全員が構えたタイミングで、俺は剣を生み出す。
一本だけでいい。ただ、出来るだけ質の良いものだ。武器の性能はそのまま《神撃》の威力に繋がる。
「――よし、いくぞっ!」
掛け声と同時に、魔力が迸った。