第百六十五話
カトラスの憎悪は止まらない。
長い前髪のせいで表情は見えないけど、嗤っているようで、憤怒に満ちている。どうも僕が息をしているだけで許せない感情に満ち溢れるようだ。
一歩踏み出すたびに、心と体が引き裂かれるような痛みに苛んでいるだろうに。
「カトラス。もうやめるんだ」
僕は七星剣セブンスソードを展開しながら説得を試みる。
本音を言えば、カトラスが自主的に感情を抑え込み、魂を解放するのがベストだ。そうすれば僕はすぐにでもみんなの援護に駆け付けられる。特にグラナダくんは今回かなり怒っていて、メイちゃんがついているとはいえ、上級魔族の二匹を相手取ることになっている。
彼にはかなり期待しているけれど、今はまだ辛いはずだ。
それにおそらく、あの上級魔族は密接な双子関係にある。連携もしっかりしてくるだろうし、何かカラクリも持っているはずだし。
僕はカトラスがやってくる分だけ距離を取る。
自動回復のスキルのおかげで、傷は塞がりつつある。流した血は中々回復しないけど、まだ動く分に問題はない。
「あら、逃げるの?」
距離が縮まらないのを見て、カトラスが挑発してくる。
苛立っているのだろうね、両手の指がわなわなと忙しなく動いている。それが悲しい。
昔は、あれだけ笑顔を向けてくれていたのに。
「そうやって、自分の身だけはしっかり守るのね」
刺すように、カトラスが言ってくる。
「ネェ様を……ネェル姉さんを……殺したくせにっ!」
「カトラス! 聞いてくれ、それはっ」
「肉親が奪われた気持ち、あなたに理解できる!? 信じてたのにっ! 未来を変えようとしたネェル姉さんを……!」
僕の言葉を遮り、カトラスは叫ぶ。
カトラスの魂が不自然に揺れるように昂り、カトラスは全身から歪な魔力を解き放ちながら威圧してくる。
グラナダくんの情報の通りだ。あれは、魂が混じっている。ただ復讐心だけを煽られて煽られて、気が狂いそうになるくらい、ごちゃごちゃにされている。
それがどれだけの苦痛なのか。
瞬間だった。
カトラスが僕のすぐ背後にいて、震えて仕方がないだろう指で僕を狙ってくる。回避、間に合うか!?
振り返りながら地面を蹴って距離を取る。
やってきたのは不可視の衝撃の刃で、咄嗟に掲げた腕が切り刻まれていく。
なんとか、無事!
痛みに顔を歪めながらも、僕は牽制に
「無駄よ。全部分かっているもの」
カトラスは上空にいた。
僕は即座に距離を取って息を整える。
「貴方にどう攻撃すればどうなるか。分かっているもの」
「随分な言葉だね」
「私に貴方は傷ひとつ付けられないわ。いえ、そもそもあり得ないもの」
カトラスの周囲に風が集っていく。
あの操作力、まるでグラナダくんを見ているようだ。
「《完全神託》と《身体掌握》の重ね技……かな?」
「ええ、そうよ。風の流れを把握し、掌握で操る。どちらも貴方には出来ないことよ」
くすりと嗤い声をこぼしながら、カトラスは言う。
瞬間、その風が暴れた。僕は魔力を感知しながら回避行動を即座に取って、気付いた。
回避したそこに風が在る。《完全神託》で回避先を読んで風を展開しているのかっ! ダメだ、防御魔法は間に合わない!
「《エアロ・ブルーム》っ!」
僕は即座に風の上級魔法を解き放つ。荒れ狂う風は迫り来る風を弾き散らすはずだった。──……が。
気付くと、僕は全身を風にしたたか殴られていて、地面に背中を激しく叩きつけられていた。
ばかな。どうして?
「かはっ……!」
衝撃が強制的に肺から空気を排出される。吸い込もうとしても、衝撃のせいで肺がうまく機能してくれない。
急激な酸素不足に身体が悲鳴をあげる中、僕は悟った。
これが相手の狙いだ。
おそらく《エアロ・ブルーム》で迎撃することも読まれていて、《エアロ・ブルーム》と相互干渉を引き起こすように風を組み込んでいたんだろう。
とんでもない荒業だ。
これは、予想外にも過ぎるね。自動回復が機能し、強制的に傷が癒えていく。痛みが引いていく中で僕はゆっくりと起き上がった。
剣を構えてどうにか隙はないかと探るが、カトラスはほんの僅かな動きでも逃さずに対処しようと構えてくる。
「無駄よ。言ったでしょ。全て読めるわ」
「まったくだね。こっちはまるで《神託》が機能していないと言うのに……」
ここまで戦闘に特化されると、手も足も出なくなる。何をしても対策が取られてしまうのだから、白旗を上げたくなる。
けど、だからってここで諦めるわけにもいかない。
「カトラス。もう止めるんだ。今ならまだ間に合うかもしれない」
「何が間に合うのよ」
投げやりな声が返ってくる。その空虚さに、僕は思考を一瞬だけ怯まされた。
「ネェル姉さんがいない中、何が間に合うというの?」
「それは……」
「ちっとも間に合ってなんかいないし、もう間に合わない」
ひた、と、カトラスは素足で着地する。
「けど、このままじゃあ、君は世界を滅ぼす災厄になるぞ」
「あら。それはまさか、世界を救う立場という大義名分からの発言かしら」
「……そう捉えてもらっても構わないよ」
もちろん個人として心配もしているけれど、このまま世界に仇なす存在になるのならば、その立場も見せなければならない。
真っ直ぐカトラスを見据えると、カトラスは鼻で嗤った。
「はっ。人を無為に殺しておきながら、どの面下げて世界を救うなんて奇麗事を謳うのよ。そもそも世界を救うって何?」
容赦ない言葉がぶつけられる。
「誰もが望むような美しい世界。貴方はそう答えるわ」
答えを先読みされ、僕は口をつぐんだ。
「誰もが望むような美しい世界? そんなものどこにあるのよ。どこにだってないわ。御伽噺の世界は御伽噺にしかないのよ。転生者だかなんだか知らないけど、私たちにそんな理想像を押し付けないで欲しいわ」
完全な余所者扱いの言葉に、僕は軋んだ。
つい反発心が芽生えてしまう。
「……──僕を召喚したのは、ここの世界の意思だよ。望んでここに来たわけじゃあない」
「それは前提でしょう。私が言っているのは、貴方の理想の世界のことよ。貴方の理想の世界のため、世界を救う。それを言っているの。そして、それで救われない人だっているのよ」
突き刺すような言葉に、僕は顔を歪めた。
分かっていたことだ。けど、それでも、痛い。
思わず唇を噛んでしまう。悪い癖だ。
「どう言い繕ったとしても、ネェル姉さんを殺したことに変わりはないわ。この人殺し」
「カトラス……」
「人殺しが、さも自分はキレイな人だ、何の間違いもしてこなかった聖人ぶってのうのうと生きてるんじゃないわよ! 世界の中心で自分の世界は皆を守る世界だと言わないでよ! 私の世界は奪ったくせに!」
カトラスは首を振りながら髪をかき乱し、憎悪に満ちた目で僕を睨み下ろしてくる。
落ちてきたのは、涙だった。
「返して、返してよっ! 私の世界を返して、ネェル姉さんを返してよぉぉっ!」
子供の駄々のように、カトラスは泣き叫ぶ。
ダメだ。これ以上は、ダメだ。限界を迎えてしまう!
「カトラス! 分かるけど、分かるけど!」
「分かったなら今すぐに死んでよっ! 貴方がいるだけで、どれだけ私の心が悲鳴を上げると思ってるのよ!」
違う。違う。それは、君の本当の訴えじゃない。
心の悲鳴が響いて来る。僕に、違う、違うと。僕は毅然と真っすぐカトラスを見返した。ダメだ。解放してやらないと。
「出来ない。僕は死ねない。というか、仮に僕が死んだとしても、君の世界は返ってこない。いや、むしろ何も残らないんだよ」
「――……!?」
「僕に対する復讐心を捨てろとは言わない。けど、それだけに心を染めたら、何も残らなくなる。それで君は、カトラスはどうするつもりなんだ?」
復讐は何も生まない、は違う。
復讐が終わった後、何も残らないんだ。
「じゃあ、じゃあ!」
「僕は世界を救う。僕は世界からそう求められたんだ。それが僕の生きる命題なのだとしたら、僕は世界を救い続ける。英雄として! それでより多くの人が救われるのなら!」
「そんなのっ……じゃあ、じゃあどうして、その救う世界に、救う人に、ネェル姉さんはいないの! 私はいないのよっ!」
血の滲むような悲鳴。
「……ごめん」
僕は、ただそう謝るしか出来ない。
事実は事実だ。僕はこの手で、ネェルを殺した。
「ああ、あああ、あああああ、あああああああっ! 謝るくらいなら今すぐ死んでよっ! 死ね、死ね、死ね、死ねっ!」
頭をかきむしりながら、カトラスは全身から魔力を解き放つ。
「断る。僕は死ねないんだ。死ぬことは出来ないんだ。世界を救わないといけないから。そして、そのための壁は排除しないといけない。カトラス。君がその壁になるのなら、僕は弾かないといけない」
禍々しい魔力を受けて、僕は覚悟を決める。
カトラスの魂は、もう救えない。だったら、せめて終わらせてあげるしかない。ネェルもそう望んでいるのなら、叶えてやるべきだ。
無垢な少女、カトラス。彼女を解放してやるために。世界を滅ぼす災厄にしないように。
「だったらやって見せなさいよっ! 私は貴方の全てを否定して殺して見せる!」
カトラスの全身から風が吹き荒れる。同時に僕は呪文を詠唱する。
「《聖者の理、聖骸の願い、我を守り給え》」
僕の全身を包む青い球体は、風のことごとくを弾いて見せた。
通用しないんだ。この術を使えば、カトラスの攻撃の全ては。
「そんなものっ!」
カトラスの全身から放たれる黒い波動が波紋のように広がり、僕に伝播してくる。
これは、拒絶の意思! 瘴気! カトラスには魔族の魂も混ざっているのか! それで、ここまで魂が穢されて、恨みだけが強くされて。なんてことを……!
その波紋が触れ、壁を蝕んでいく。
「くっ!」
仕方なく僕は時空間転移を使って飛び、その波紋から逃げる。
一瞬でカトラスの背後へ出現するけど、カトラスはそれを予想していて、振り返りながら手を僕の首めがけて伸ばしてくる。
これを弾くか、受け止めるか。どちらにしても良い感じはしない。
僕は直感でそれを悟りつつ、剣を構えた。だったら、受ける前に斬る!
「そう、そう来るのね。でも……!」
「カトラス。ダメなんだ」
僕は憐憫の感情を籠めてカトラスに言う。
確かに《完全神託》は強力だし、《身体掌握》も一歩間違えれば僕をも殺しにかかってくる。
でも、それだけじゃあ足りない。
だからこそ、カトラスにはアリアスの《超感応》が求められていた。
それこそが、彼女の唯一の弱点を殺すものだから。そしてその弱点を突けるのは、僕だけだ。
「さぁ、《完全神託》で僕の動きを読むと良いよ」
僕は剣を構える。そして想定する。あらゆるパターンからの攻撃を。これまでの経験の全てを活用して、僕は次々と攻撃方法を生み出していく。
当然それはカトラスに読まれていく。けど、それで構わない。
「……っ!」
見る間にカトラスの表情が驚愕に染まっていく。同時に、膨大な魔力が消し飛んでいく。
《完全神託》は予想通り、かなりの魔力を消費する。だから、カトラスは自分の身の周りに関することだけに情報源を絞ってそれをクリアしている。
つまるところ、その情報を過多にしてやれば、あっさりと瓦解するんだ。
「さぁ、後どれくらい読めるかな?」
「……! ハインリッヒっ……」
カトラスの表情が苦悶に染まる。
僕の構えは、無業の構え。七つの剣を回転させ、僕はいつでもそのどれかを掴めるように手を掲げているだけ。ただし、魔力は迸るほど放つ。
こうすることで、僕はどんなパターンからでも攻撃が仕掛けられる。
「くっ、このっ……!」
「さぁ、行こうか」
僕は一歩踏み出した。
刹那。
カトラスが叫びながら炎を生み出して次々と放ってくる。そうやって、僕の軌道の可能性を潰して少しでも読みやすくするためなのだろう。それは予測していた。
「行くよ。僕は、それでも」
その程度の炎の密度なら、僕は幾らでもすり抜けられる。
僕は跳躍する。カトラスが軌道を予測して炎を展開するが、だからこそ道が出来る。もはやカトラスに余裕がない証拠だ。
「カトラス。目を覚ませ! 君は本当にそれでいいのかっ! 僕を憎んで憎んで憎んで、ただそれだけに縋るように生きることがっ、それが本当に、ネェルが望んだ君の人生かっ!」
「そのネェル姉さんを殺したあなたがっ……!」
「だから言うんだ! ネェルは本当の君へ、何と語り掛けている!? 耳を塞ぐな! 感じろ、聞くんだ! 君の傍には、いつだってネェルがいたはずだ!」
明らかにカトラスが動揺する。そこを突いて、僕は魔法を唱える。
「《恵みの光、純然たる世界》《美しき流れ、美しき心》《穢れなき世界でカナリアは歌う》」
両手の先に生まれたのは、虹色に輝く、浄化の光。
「《セイクリッド・スフィア》!」
放たれた閃光は、まるで日光のようにカトラスを照らし、体内に救う魔族と瘴気を打ち払う。
同時に、魂の崩壊が始まった。
「っがっ……ぁああぁぁ……っ!?」
全身をよじらせ、のけぞらせ、カトラスは嗚咽する。そんなカトラスから滲むように出現したのは、ネェルだった。あの日のあの時と変わらない、ネェルだった。
「ね、ねぇさん、いつから、そこに……!?」
ネェルはただ微笑み、両手を広げてゆっくりとカトラスの両頬に添えた。
はらり、と、カトラスの目から涙が落ちた。
「ああ、あああ……そう、そうだったの……私、私っ……」
「さぁ、仕事だよ、
ボロボロと崩れ落ちるカトラス。
けど、それは一時的だ。《セイクリッド・スフィア》の効果が切れれば、また瘴気が生まれ、カトラスは憎しみを煽るだけ煽られて狂わされてしまう。そうなる前に解放してやらなければならない。
他でもない、ネェルを仕留めた僕が。
「はぁぁぁぁぁ――――――――っ!」
僕は猛りながら一瞬で移動し、分身を生み出しながらカトラスに七つの剣を構える。
そして。
――閃光が駆け抜けた。
カトラスが回避出来る術はなかった。
「っかはっ……」
魂がバラバラに分断され、カトラスが七色の痕跡のまま切り離されていく。
「ああ、ハインリッヒ……」
「カトラス」
伸ばされた手を、僕はとった。ぎゅ、と、握り返される。
「ごめんね、ごめんね、こんなこと……させて」
「カトラス……良いんだよ」
これは、僕の贖罪だ。
「ありがとう……さよなら」
「うん。さよなら、カトラス」
手が離れる。カトラスが光に包まれ、ネェルがカトラスの魂だけを連れ去って天に昇っていく。
ネェルが、最後に笑った気がした。