2
午前6時30分、典正の部屋で目覚まし時計が鳴る。
なかなか目を覚まさぬ兄に焦れて妹の茉耶華が部屋に乱入し、典正がヌクヌクとくるまる布団を引き剥がす……ところまでが敷島家の朝の風景なのだ。
もちろん今日も、茉耶華は兄の目覚ましの音とともに部屋へなだれ込んだ。
「お兄ちゃん、朝だよ、おっきろ~!」
いつものように兄の布団にかけた細い手が、布団の中から伸ばされた兄の手に掴まれた。
初めてのパターンだ。
茉耶華は驚いて身を引く。
「お、お兄ちゃん、起きてたの?」
「ああ、起きていたさ」
掴まれた手をグイと引かれて、茉耶華は大きくよろけた。
そのまま掛け布団の中へと倒れこむ。
「や、やだなあ、お兄ちゃん、そりゃ私はカワイイし?欲情する気持ちもわかるけどさあ、兄妹なんだよ?」
「そういう茶番はいらない」
典正は顔を近づけて目の前にいる少女の顔をじいっと覗き込み、低く落とした声で囁いた。
「お前は、誰だ?」
「や、やだなあ、カワイイ妹の茉耶華ちゃんですよ~」
「うそつけ、俺には妹などいない」
少女が大きく身を翻し、典正の腕をすり抜けて部屋の隅へと飛び退く。
今までにこやかだった表情は固く引き締まり、いつでもどちらへでも体を飛ばせるように片膝を立てた姿は戦士のそれだ。
「なぜだ……なぜ気づいた?」
「記憶の不一致というやつだ。俺は両親が海外へ行ったことにより、この家で『独り暮らし』のはずだ。なのに、いつからなのか、『妹がいる』という記憶がある」
「ふ、随分と落ち着いているな」
「あたりまえだ、俺はいずれこの世界の原理すら通じぬ異世界へと行く身、これしきのことで驚いていてはなしにならないだろう」
「なるほど、中二病もここまで極まれば見事なものよ」
「さて、どうするんだ、妹サンよ?」
「ふふふふ、知れたこと……再びクチを封じさせてもらうまでよ」
少女は軽く片手を上げ、二言三言の呪文を口の中で食む。
「出でよ、アマンド・ドラゴン!」
突然窓の外に鳴り響く雷鳴、そして部屋を満たすように湧き上がる煙、壁に映るツノを突き上げた翼竜の影……
「てか、締め切った部屋で煙とか、ちょ、タンマ」
典正は慌てて窓際へ走り、ガラス窓を大きく開いた。
部屋を満たしていた煙が吹き込む風にかき消されて、部屋の空気はあっという間に元どおり透き通る。
爽やかな風に吹かれた明るい部屋の真ん中には、子犬ほどの大きさの愛くるしいドラゴンが浮かんでいた。
それが大きな口をパクッと開いて声を上げる。
「へい、毎度! 今回は何の用や?」
少女がへにゃ~と泣き顔になった。
「ねえ、アンタの記憶操作術、解けちゃったんだけどどういうこと?」
「え、まさか~、ワイの完全完璧無欠な術式が、そんな簡単に解けるわけあらへん」
「そんなこと言ったって、こいつ、私が妹じゃないって気づいたよ? おかげでおかしな中二病的茶番に付き合っちゃったじゃないの!」
「それは御愁傷様。んでも、おかしいなぁ~」
ドラゴンは小さな羽をパタパタと動かして無遠慮にも典正のすぐ鼻先に止まった。
「まあ、ごく稀に魔力耐性の高い人間いうんはおるからなぁ」
ぼやきながら典正の顔を覗き込む。
「しかしこの兄ちゃんは……どう見ても普通の人間に見えるんやけどなあ、なんでやろ?」
「なんでもいいから、なんとかしてよ!」
典正はむすっとした顔でドラゴンを捕まえた。
「なあ、俺に失礼だとか思わないわけ?」
「な、なんでや! なんでわいをつかむことができるんや!」
「はあ? 普通につかめるだろ、こんなもん」
「いやいやいや、わいは今、絶対防壁の術をかけてるはずなんやけど……姫さん、ちょっとわいのこと触ってみてんか?」
声をかけられた少女は素直に手を伸ばしたが、ドラゴンの羽のあたりに触れようとした瞬間、バチッと散った火花に弾かれて手を引っ込めた。
「無理です!」
「せやろ、それが普通や。おっかしいな~」
典正はわざとドラゴンの体をベタベタと触りながら鼻先で笑う。
「何もおかしくはない。俺は異世界に喚ばれるべく選ばれた人間、このくらいの結界など効くわけがない」
「いや、そんな大仰なもんやなくて、魔力耐性いうんは風邪をひきにくいとか、虫歯になりにくいくらいのちょっとした体質やからな」
「ともかく、これで俺の能力はわかっただろう、今度はそちらのことを話してもらおうか」
「せやな」
ドラゴンがふうっとため息をついた。
「このお兄ちゃんには記憶操作の術が効かん。せやったら、きちんと事情を説明した方がええんちゃうんか、姫さん?」
その言葉に、少女が自分の体を抱くようにして大きく身震いをした。
「絶対にイヤ!」