7.帰路
コッパーへの帰路。
地下迷宮、その最深部からの帰還は容易な物ではく、皆の顔に疲弊の色が浮かぶ。
やっとの思いで地上に戻れたベルグ達は、しばらくの船の旅を満喫しようとしていた。
モンスターも出なかったのに、どうして皆が疲れ切った表情をしていたのか?
それは、数時間前に遡る――。
◇ ◇ ◇
皆が危惧していた事が起きた。木製の朽ちた
そうなった主な原因が――
「痩せろデブ」
やっとの思いで梯子を登りきったシェイラに、カートが冷たく言い放った。
「ふ、太ってなんかないもんっ! ね、スリーライン!」
「……“裁断者”は、“断罪者”に嘘をつけと申しておられる。何と罪深い……」
「ちょっとっ!?」
ここ最近のシェイラは、訓練量が増えたのと同時に、食事の量も大きく増えた。
それに加え、デザートにと甘い物も食べるため、以前より体重が増えてしまっている。
梯子階段は朽ちていたと言えど、最重量のベルグの体重に耐えていたため、シェイラの体重が
……にも関わらず、シェイラがステップに足をかける度、何故かバキリッと、音を立てて折れたのだった。
◇ ◇ ◇
そのようなことがあり、迷宮の外――荒廃都市エンジェル・ロストに戻った時には、出発時と同じく、遠くで空が白み始めていた頃である。
あまり休憩もしていなかったベルグらは、迎えの船に乗り込むと同時に泥のように眠りこけ、目が覚めた頃には満天の星空が広がっている時間だった。
藍色の空に散らばる幾多もの星が、真っ白な川の流れを形成し――藍色から紫、そして白色へのグラデーションは、思わず息を呑んでしまうほど幻想的なものであった。
デッキに立っているシェイラとベルグは、それをじっと眺め続けていた。
「――しばらく、夜型の生活になっちゃいそうだね」
“均衡”が崩れているとは到達思えぬような、美しく幻想的な星空に、シェイラは嘆息を漏らした。
波も穏やかであり、行きのような揺れもないようだ。
「船酔いの方は大丈夫なのか?」
「うーん……今の所は大丈夫かな? 波が穏やかなのもあるかも」
「そうか。今回の船旅も長いので、無理しないようにするんだぞ」
「う、うん……」
シェイラは時々、どちらが年上かと分からなくなる時がある。
“弟”のどこか上からな言葉に、少しムッ――とするが、行きのようにならないためにも、ここは素直に従うしかない。
チラりとベルグに目をやると、夜の海風に合わせるように、狼の耳がピクピクと揺れ、口をモゴモゴとさせているのに気づいた。
(ホントは、甘えたくてしょうがないんだね……)
耳と口がそのように動く時は、甘えたいサインなのだ。
幼い頃から知る“姉”の目には、“弟”がそれを我慢している、と一目で分かった。
言い出したいが、言い出せない――そんな姿が愛らしく、今すぐにでも頭を抱いて耳の裏などを掻いてやりたいのだが、
(私が色々ダメになりそう、だし……)
シェイラ自身も“姉”モードに入り、猫ならぬ犬可愛がりしてしまいかねない。
それ自体は別に構わないものの、ここが船の上であることが問題だった。
「でも、船ってこんな揺れる物なんて知らなかったな……。
デッキチェアの上で横になって、フルーツが刺さったカラフルなお酒飲んで――って、優雅に過ごすイメージあったんだけど……」
「……いつも思うのだが、それらの偏った知識は、一体どこから得てくるのだ……?」
「え、い、いや……その本とか、小説とか?」
外をあまり出歩けなかった当時、そこしか外界の情報を得る術が無かった。
それも、誰かが捨てて行った物ばかりなので、どこか情報も古く――
「ああ、だからそんなムッツリに」
「か、関係ないでしょっ!? 確かにその……そんなのは二、三冊ぐらいあったけど……」
あったとは言えど、恋愛小説の一部にそのようなシーンがあっただけである。
“男と女”については知っているものの、情事や睦み合いに関しては未知の世界であったため、初めて見た時はあまりの衝撃に、二日ほど寝込んだ過去を持つ。
同時に、いつかこんな恋を――小説の中のような恋物語をしたいとの想いが、出口が見えぬ毎日を生き抜くための小さな希望へと変わっていた。
しかし、その想いがいざ現実になってみると、それはイメージとは全く違う世界であった。
「事実は小説より奇なり、とは良く言ったものだよね。
まさか、本当にスリーラインの“お嫁さん”になるなんて思いもしなかったよ……」
「屋敷に住む野獣や、王子様とお姫様のそれとは違った、か?」
「……ううん逆。それよりももっと凄い物語――。
でも、最初は驚いたし、戸惑いがあったのは確かだけどね」
「もし時間が戻れば、どこまで戻してもらうか……と考えた時はある」
「戻して貰えるのなら――【ネラル・ドレイク】の、あの夜がいいかな」
それは、初めて結ばれた日の事である。
凄く大変だったけど……と、頬を朱に染め恥ずかしそうに微笑むシェイラに、ベルグはどこか複雑な表情を浮かべている。
「しかし……」
「“役目”とか“恩”とか無くても、私はこれで良かったと思うよ?
勝手知ったる仲なんだし、これまでも、これからもずっと一緒にいられるんだしさ。
――逆に、スリーラインと再会していない時のことの方が、ずっと怖いよ……。
今が幸せなだけ、余計に、ね……」
「シェイラ――」
そこにいるのは“姉弟”であり、“夫婦”でもある。
満天の星空の下、真っ暗な海の上で交わした口づけは、どんな小説にも勝るロマンチックな物であった。
顔を真っ赤にしたシェイラは、船の揺れだけではない揺れを覚えている。
空を再び見上げると、この星空は頑張った自分へのご褒美のようにも映った。
「……こんな時、人になれない事を悔やむ」
「んー、人になれないスリーライン、のが私はいいよ。
でも、もしなれたらどんなのだろうね――オジさん……いや、たまに女々しいからオバさん似かな?」
「むぅ……ああでも、母に近いかもしれんな。
……あー、でもあれだ、やっぱり獣人のままでいいや」
「何で?」
「てっぺんがハゲると目立つ」
「もうっ! いい加減に――」
目に力を込め、語気を強めたシェイラをよそに、ベルグはどこか虚を見つめまま、ボソりと呟いた。
「本気で……最近、抜け毛が半端ない……」
「そんなになの……?」
シェイラの声のトーンが落ちた。
その最大の原因が、目の前にいる彼女であると言っても過言ではない。
思わずそれを確認するが、真っ暗な中では、薄いかどうか判断がつかないようだ。
夏毛への生え代わりじゃ? と尋ねるが、膝を曲げたままのベルグは『そうであって欲しい』と頭を垂れ、キューン……と寂し気に喉を鳴らすだけであった。
◆ ◆ ◆
形は違えど、結局ベルグの頭を撫でることになったシェイラ――。
そんな夫婦のやりとりを、隠れて覗いていた者が居た事に、二人は全く気づいていなかった。
その傍観者の顔は、苦虫と言う苦虫を噛み潰したようである。
複雑な心境のまま、黙って自室に引き返したその者は、はぁ……と深いため息を一つ吐いてしまう。
二人の妻が、互いに良好な関係を築くには、“余裕”と“譲り合いの精神”が必要である。どちらかが欲を出せば歪み、どちらかが自分を押し殺さなければならない。
その事は、彼女自身が最もよく理解していることだ――。
「……別に、今に始まった事でもないじゃん」
姉のそんな姿に、妹は呆れていた。
覗き見ていたのは、もう一人の妻――レオノーラであった。
普段は傍若無人にグイグイ割り込んで行くのに、ベルグの事になると途端に気後れし、受け身に回ってしまうのである。
船室に、ギィギィと軋む音だけが、静かに鳴り響き続けていた。
ローズからすれば、もう見慣れた姉の姿ではあるものの、横でハァハァと息を吐き続けられても、ただ鬱陶しいだけである。
「だ、だが……」
「あの人は、“誰か”と違い、どちらにもちゃんと配慮してくれてるし、大丈夫だと思うよ」
「ローズ――」
“誰か”とは、ローズとレオノーラの共通する父の事である。
ローズの母親は、立場的には妾――父のちょっとした気の迷いから、ローズが
その父親は己の体裁と、レオノーラの母の顔色を窺うがあまり。ただ相応の地位と住む場所を与えた以外、これと言った何のフォローもしないでいた。
そのため、母親は己を殺して生活する事を余儀なくされ、結果、母子共に肩身の狭い思いをする事となったのだ。
「――お姉ちゃんが居なかったら、今頃はどこかのボンボンの家へ厄介払いされてたかもね」
「……そのように、自分を卑下するものではない。
例え母が違えど、お前は私の大事な妹に変わりないのだからな」
「うん……ありがと……。
でも、お姉ちゃんは将来的にどうするつもりなの?」
「どうするって……それはその、ベルグ殿と、とと、共にだな!」
「……訓練場は?」
「あ゛っ……!?」
レオノーラはここで初めて、己が“教官”である事を理解した。
シェイラが“生徒”から“冒険者”になっても、レオノーラは“教官”であり続ける――。
すぐに次の“生徒”を迎えるため、彼女はコッパーの訓練場に残り続けなければならない。
つまり、“教官”にとっての生徒の卒業はゴールではない。
己の意志で役目に区切りをつけぬ限り、それはずっと続くのだ。
「そ、そうだった……」
「やっぱり、今その時しか考えてなかったんだ……。
まぁでも、一緒に行ってもいいんじゃない?」
「だが、訓練場はどうするのだ?」
「私がいるじゃない?
剣術指導は流石に呼ばなきゃならないけど、暇なのはウチにいくらでもいるでしょ?」
「んんっ? お前は訓練場を去るのではないのか?」
「何で?」
「……カートと一緒に行くのでは?」
予想もしていなかった方向からの、トンチンカンな発言に、ローズは思わず椅子からズリ落ちてしまった。
「いい、いきなり何ワケの分からない事言うのッ!? アホなの!?」
「あ、姉に向かってアホとはなんだ、アホとはっ!!」
「だってアタシが、あっあんなのとなんてあるワケないじゃない!」
「そうなのか? 私はてっきり、お前は――」
「ワーッ!ワーッ!? もうやめやめっ、また寝たいから、お姉ちゃんは旦那サマとイチャイチャでもしてきて!」
姉に関してはアレコレ口を出すものの、自分の事になると口を噤んでしまう。
ベルグは “姉”の頭皮マッサージに身を委ねてリラックスモードに入っており、ローズに追い出されてしまったレオノーラは『それが出来ないから……』と、扉の前で唇を尖らせるしかなかった。
◆ ◆ ◆
ベルグたちが、優雅な船の旅を満喫していた一方で――。
かつて、シェイラ家族が治めていた【ルガリーの村】では、大量の死体が転がっていた。
「ふん。烏合の衆とは言うが、
死体の山に片足をかけた黒毛の獣人――《ワーウルフ》がそう呟いた。
身体中を鮮やかな赤色で染め上げたその身体は、肩で風を切りながら獲物を探す。その目は鋭く、辺りに満ちる血の中から獲物を探す様は、まさに獣だった。
しかし、剣と剣が打ち合う音が減り、残るのは地に附せながら、うめき声をあげる者ばかり。いたとしても、もはや命乞いをする者しか残っていない。
獣人の手は、慈悲ではなく“罰”を与える。
「この程度で手を焼くとは――やはり、アイツの“断罪”は手ぬるい」
小さく短いうめき声をあげ、こと切れた“ワルツ”の残党を見下ろしながらそう呟いたのは、元・“断罪者”――《ワーウルフ》の長、ベルグの父親であった。
恐怖を抑止力に、獣の性分だと言わんばかりの殺し方をする事が多い。ベルグには、父親のそのような古臭いやり方が気に食わず、その方向性の相違から、父子は会うたびに
四散した“ワルツ”の残党は、最後の砦となるこの村に、肩を寄せ合って暮らしていた。
悪党の最後の
かつて、シェイラが味わったような、夜道すらも出歩けぬ暮らしに耐えかねたのだ。
獣人の長は、死体を積み重ねた即席の玉座に腰かけ、村にあった安物のエール酒をあおった。
物言わぬ残党たちは、静かに肩を寄せ合っている。