8.対抗馬
ベルグ達の約二週間の船旅は、順風満帆……とまではいかないものの、特に大きな問題も起らないまま港町・【エスト・ポート】へと戻って来ていた。
ここは、コッパーの町から西端に位置する町で、約二週間の船旅の次は、約一週間の陸路の旅が待っている。
土砂崩れによって封鎖されていた道も、ある程度は復旧しているようだ。しかし、間に合わせの突貫工事であるため、相当な悪路は覚悟せねばならないだろう。
それに、陸の旅に出るまで、まだしばらくの時間が必要になりそうだった。
「う、うぇ……ぷ……」
シェイラは、行きと同じく桟橋でへたり込んでいた。
出発した直後は問題なかったものの、やはり三日目ぐらいになると、船酔いが彼女を襲い始め、それからはずっと船室に籠りっきり……なので、新鮮な空気を取り込めるのは嬉しかった。
久しぶりに陸地にあがった身体は、まだユラユラと浮遊感を覚えている。
漂う潮の香りは船の上と変わらないものの、強い揺れが無いだけまだマシなようだ。
こみ上げてくるそれを、ぐっと飲み込むように喉の奥に力を込め、肩をゆっくりと上下させながら、細く長い呼吸を行っていた。
その背後で、レオノーラもベルグに脇を抱きかかえられながら、桟橋に降りて来た。
彼女も珍しく、
「う、うぅ……き、気持ち悪い……う……」
「何というか……その、スマン……」
原因の九割はベルグにある――。
シェイラがダウンするまで、彼はレオノーラの部屋と半々で行き来していた。
前回の反省から、しばらくは自制していたものの、迷宮の中にて命がけの戦いもした余波が……オスとしての欲求が高まったベルグは、つい我慢できずレオノーラを求めたのだ。
その時の揺れと、強い雌雄の臭いが相まって、彼女の酔いを引き起こしてしまう――。
顔色が悪く、ぐったりとしているものの、ベルグに介抱まで受けたレオノーラの顔には、どこか“幸”が浮かんでいる。
それを見たシェイラは、眉尻をピクッと浮かばせた。
よくよく考えれば、甘えには来ても、“女”として求められた事が殆どないのである。
思い返しても、指を二本曲げるだけ――今回は仕方がなかったとは言え、これでは“女”の沽券にかかわる事だ。
沸々と湧き上がるそれに、今のシェイラの顔には、“辛”が浮かんでいる。
(べべ、別にそのスリーラインと……い、とかじゃないけど……。
レオノーラさんばっかりは……ずるい……)
事実、一緒にベッドに入り、頭を撫でてあげるだけでも満足だった。
無論のこと、毎回『求められたら……』と、心の準備はしているものの、毎回空振りに終わり、安堵か落胆か分からない息を吐いてしまう。
これは、ベルグが自制しているためでもあるのだが、当のシェイラは気づいていないようだ。
「とりあえず、二、三日ここに滞在する事にしよう――」
ベルグは、申し訳なさそうな顔のまま、皆にそう告げた。
レオノーラとシェイラの状態がアレであるため、真っ先に港町の宿屋へと足を向ける。
幸いにも、この町はバルディア家との繋がりが深い町であるため、
しかし、どちらかと言うと【ルクリークの町】にて世話になった、マッシャー婆さんの影響の方が大きい。かつて、この町を拠点にしていた“キャプテン”への忠義は未だ根強いもので、表向きは、バルディアに従っているだけに過ぎない。
どこからか通達があったのか、全員にスウィートルームを用意してくれた上に、町の中での飲食代から何もかもタダとの高待遇まで受けられたのだ。
ベルグたちも、もちろんこれを遠慮しようとしたのだが、
「――レオノーラ様と、その婚約者までいらっしゃるのですよ!
これぐらいさせて頂かねば、クラーケンの餌にされてしまいます!
本当に……ッ!」
と、懇願されてしまうと、それを受けぬわけにもいかない。
表向きはバルディアの名を出しているが、裏のそれもあるのだろう。
正直な所、路銀が尽きかけていたので、コッパーの町までの宿は馬小屋と、食事は携行食糧と現地調達……を覚悟するしかなかったベルグ達にとって、この施しはありがたいものでもある。
おかげで、船上では魚か保存食しか食えなかったベルグも、人ならぬ獣並みの食事が摂れた事を喜んでいた。
シェイラとレオノーラは、ベルグの豪快な食べっぷりを見ているだけで、再び胃からこみ上げて来そうになってしまい、魚のうま味を引き出したスープを、一さじ……二さじ……と、震えながら口に運ぶのがやっとの状態であった。
・
・
・
その一方で――。
カートと食事はそこそこに、ローズの案内と共に、マッサージ店へと足を向けていた。
船の中で“タブレット”を弄っていたせいで、首と肩に酷い
「このままだと、俺も《デュラハン》になっちまうな」
「――アンタ、ずっと船室で何やってたのよ?
お姉ちゃんは半ストーカーになるし……その、暇で仕方なかったんだから」
「ん? ああ……“タブレット”がな。
あれが執着するのも分かるほど、すげェ面白いシロモノだったんだよ」
女の手が、うつ伏せになったカートの固まった筋肉を緩急つけてほぐしてゆく。
満足気な声をあげるカートに、ローズは面白く無さげに唇を尖らせていた。
「……で、その“オモチャ”には、何の効果があったワケ?」
「これは経歴を見るだけのシロモノじゃねェな。
ターゲットの経歴の書き換えから、現在の居場所だって分かる――」
「は、ハァ!?」
カートはこれを、『
ローズもカートも、情報の重要さを十分に熟知している。相手が遠くに居ながらでも、手元の石盤一つで情報を得られ、操作できる――それがどれほどの物か、すぐに理解できるであろう。
しかし、それだけではない……カートには『どうして前・“審理者”が、“断罪”の力が出せたのか』との疑問が解消されていた。
厳密に言えば、あれは“断罪”ではない。彼の力の“暴走”を止めるための“抑止力”――言わば、“粛清の力”なのである。
「――前任者は、百パーセント使いこなせいなかったようだな。
まさに俺専用の、悪を知る者しか扱えないシロモノ、ってワケだ」
これを知ったと同時に、彼の中にあったある懸念も解消されていた。
“断罪者”が悪に手を染めた時、一体誰が彼を止めるのか――罪であれば、裁かれねばならぬのだが、強大な力を持つ“断罪者”を裁くのは至難の業だ。
“
「――前々から気になってたんだけど、アンタだけが何で “悪の法”とかに従ってんの?」
「あ? あー……あれどこだっけな、セランの美術館か?
ガキん時に、親父が突然『家族サービスだ』つって、そこに連れて行ってくれたんだよ」
「へぇ、アンタ達みたいなのでも美術品に……って、別の興味じゃないわよね!?
いつだったか、美術品が何点か盗まれたって事件が――」
「へへっ、それは神様だけが知るってモンよ――。
まぁ、そこにあった“経典”みたいなの読んだんだが、あれには痺れたねェ。
後にも先にも、何かを見て、あれほど電流が走ったものはねェな」
「“経典”……ってそんなのあったかしら?」
カートの父親には『ただの彫刻だぞ』と言われたのだが、確かに幼いカートの目には、ハッキリと覚えたばかりの文字が見えていた。
幼い頃に見たそれなので、書いてある事は殆ど理解できない物ばかりであったが、
「悪の
「恋人を蘇生させるために頼った……って“聖典”ならあるだろうけど、そんな物見た事も聞いた事もないわよ」
「誰も知らねェんだよな。ああいや、とっつぁんも知ってたか」
「“とっつぁん”って確か――」
命がけで火急の報せを持ってきた、カートの育ての親と言っても過言でない者であった。
幼い頃にそれを見たと話すと、その者も『見た』と当時は理解できなかった内容の一部を話してくれたようだ。
「正しき声を聞け。仲間や友を裏切る罪は、何よりも重い――。
道を踏み外すのをただ見ている事は、なお重い――。
だったか、とっつぁんらしい友情の話ばっかだったが、女神の言葉に大そう惚れ込んでいたな」
「……何で、女神って分かるのよ?」
「さぁ?
どんな女の身体でも、とっつぁんは“女神”つってたし――ああ、女神と言えば、姉ェちゃんウチで働かねェか?」
「え? わ、私ですか? ですが……」
「なに引抜こうとしてんのよバカッ!」
カートがマッサージを行っている女の腕を買い、純粋なマッサージ師として、ビュート湖の自分の店に置こうと思いついた。
訓練場を卒業した後は、ビュート湖の本拠地になる――“タブレット”を使い続けてこうなった事を考えると、その手のリラクゼーションが必要になってくる、と。
「あ、あの……」
「ああ、いいのいいの無視して」
「何でだよ。“商売女”の方じゃなくて、真っ当なヘッドハンティングだぜ?
本人がその気になりゃ別だが――俺自身も、腕の良い専属が一人欲しィんだよ」
「ア、アタシが……そうっ、アロマテラピーやったげるわよ!」
「ニオイで肩こり治んのか?」
「お金くれたら肩もみもしたげるわよッ。ほ、ほらッ――」
ローズはそう言うと、マッサージ師の女を押しのけ、カートの両肩をぐっと掴んだ。
「いでッ、痛ッてぇよ馬鹿ッ――!? 逆にこっちに金よこせっ!」
「何でよ! お姉ちゃんは、これぐらいしなきゃ満足しないのよ!」
「ありゃ別格だろうがッ!」
力任せに肩を握られ、カートは思わず肩をすくめてしまった。
肩の筋肉を握りつぶさんとばかりの力の中に、若干の怒りと焦りが込められている事に、カートはおろか、ローズ本人すら気づいていない。
これでも満足しない“姉”は、やはりどこか狂っていると再認識しただけであった。
そんな和気藹々と、仲の良い二人を見たマッサージ師の女は、『このタイミングなら……』と目祖伏せ、言いにくそうにしながら口を開いた。
「あ、あの、ローズ様……。こんな時に申し訳ないのですが、レオノーラ様のご婚約者って“断罪者”様、なのですよね……?」
「ん? そうだけど、何で知ってんの?」
「その、以前、オートン様がいらした時に話しておられて……」
「あの、お喋りオヤジッ――」
あまり
大っぴらにすれば、レオノーラ自身に迷惑がかかるどころか、逆にそちらが狙われる事だってありうる。
事実、それが原因で《ウェアウルフ》が、コッパーの訓練場を襲撃してきたのだ。
レオノーラなら別に問題ないのもあるが、彼女本人からも強く言われていたそれを忘れ、父親はべらべらと、ついその軽い口を開き回っていたようだ。
「こんな事をお願いするのもなのですが……もう、“断罪者”様にお願いするしかなくて……」
「はぁ……私の一任で決められないし、とりあえず何があったかだけ教えて。
それを受けるかどうか、聞いておいてあげるわ……」
「あ、ありがとうございますっ」
女は深く頭を下げ、上着を着たカートとローズを前に、事の起こりを語り始めた――。