幕間 ~スーラの過去と気持ち~
魔界と呼ばれる世界があった。
真っ暗な空に浮かぶ真っ白な月に、紫がかった雲がかかった、薄暗い世界だ。
大陸は黒い海でおおわれていて、見るからに陰鬱だ。
地球はかつて、二酸化炭素と硫化水素の星だった。
住んでいる生き物も、硫化水素を酸素のように吸い込んで呼吸している微生物ばかりであった。
そこに植物が現れて、酸素を増やした。
硫化水素を吸っていた微生物は駆逐され、酸素で呼吸をできていた生き物が繁栄した。
魔界の生態系もそれに近い。
魔素の多い魔界では、魔素をうまく吸収できないものは生きていけない。
いくらか魔素の薄い地域で、あえぎながら暮らすしかない。
いくつかの国にわかれて、それぞれに暮らしていた。
スーラのいたところは、『そこそこ』の国だった。
完璧な秩序があるわけではないが、食べ物はそれなりにある。
だから戦争は起こらない。
権力争いもあるにはあったが、希望者同士が戦って終わりだ。
魔王や魔姫といった称号は、国一番の喧嘩自慢とほぼイコールで繋がっていた。
そんなスーラの国での一番の娯楽は、人間界での戦いだった。
大きな魔水晶や、極々一部の泉など、魔界の中にはどういう原理か、人間界の景色を見れるようにする宝石やスポットがあった。
薄暗いの魔界の中では、色がついている世界――というだけでも新鮮であった。
中でも人気だったのが、召喚魔装士の戦いである。
何百年か前にやってきた、『始まりの契約者』と呼ばれる人と魔族のハーフによって作られた術式は、広く広く広まった。
大量かつ無差別に召喚されてしまうのを防ぐため、『ひとりにつき一体』という制約をもうけ、当時の魔王と契約を結んだ。
人界の学園で召喚の儀がおこなわれる季節になると、魔装のバトルを『見る』のではなく『する』側に立ちたいと思う者たちが集まった。
その学園と空間の近いところにやってきて、召喚される確率をすこしでも高めるのである。
召喚されたモンスターが従順なのは、そのほとんどが最初からそのつもりだからだ。
ただし例外はある。
規模が小さくて実用化できないゲートや、未発見だったゲートが存在していることもある。
スーラは、そういうゲートを利用していた。
利用と言っても、レイクの世界に行くつもりはなかった。
ただじっと、見ているだけで満足だった。
スライムの地位は、魔界の中でも低かった。
特に迫害されていたわけではない。
自給自足が基本となる実力の世界で、擬態能力程度の取り柄しかなければそうなる――というだけのお話であった。
住んでいた村は魔獣に追われ、家族とは散り散りになった。
しかし幸いだったのは、逃げた先に泉を見つけ、そこには外敵がいなかったことだ。
命の危険はなくなった。
同時になにもなくなった。
生きるために必要な、夢や希望や楽しみが。
なにもかも――なくなった。
木のうろの中に隠れて、よどんだ瞳で白い月を見上げるだけの毎日だ。
意識してなにかを食べる気力もなかったが、スーラはスライムである。
じっとしている状態ならば、大気中の水蒸気だけで生きていくことができた。
生きてしまう状態になっていた。
そんなとある日、地震が起きた。
規模としてはさほどでもなかったが、魔界の中では珍しかった。
そしてゆれが納まると、泉が光り輝いていた。
近寄ってみると、中にゲートができていた。
ゲートが映しだしているのは、七歳のころのレイクであった。
自分よりも大きな男に何度も何度も立ち向かい、投げ飛ばされてもがんばっていた。
瞳はとても眩しくて、スーラは一目で魅了されてしまった。
空に輝く太陽よりも、少年の瞳は輝いているようにみえた。
それからも、スーラは毎日彼を見ていた。
学園に入り、理不尽な天才と呼ばれるようにもなっていたが、スーラはそうは思わなかった。
なにしろスーラは、ずっと見ていた。
レイクはずっと努力していた。
幼いころから毎朝五時に起きてランニングをして、苦い薬草でもがんばって食べて、家庭教師の先生が帰ったあともひとり魔法の練習をやっていた。
努力の人にしか見えなかった。
見続けた中で、彼が召喚魔装士に憧れていることも知った。
自分以外の誰かがパートナーになることを想像し、さみしい夜を過ごしたりもした。
しかし実際、レイクが召喚を始めると――。
自分がでてきた。
大好きだった憧れの人が、ご主人さまになってしまった。
わけがわからなかった。
うれしいというより、戸惑った。
レイクに仕える夢は何回も見ている。今回も夢ではないのかと思ったりした。
けれども、違った。
しかし夢でないことは、むしろ残酷なことであった。
世界で一番大切な人を、自分の弱さで傷つけてしまったのだから。
それでも世界で一番大切な人は、訓練してくれると言った。
自分を見捨てないでくれると言った。
それなら自分はがんばりたい。
一生懸命がんばりたい。
笑われようと。
見下されようと。
酷使で全身が痛もうと。
ただただひたすらに、がんばるのである。
すべては、大好きなご主人さまのために。
雨が降ってきた。
他の生徒が、声をあげて去っていく。
それでもスーラは、体当たりをやめなかった。
レイクは自分に言ってくれた。
その気があるなら体力をつけろと。
一〇〇〇回体当たりをしてみろと。
それなら自分は、やらないわけにはいかない。
よろけて転んで泥にまみれてしまっても、勝手にやめるわけにはいかない。
(きゅうひゃく、ごじゅう、いち………!)
どんっ。
(きゅうひゃく、ごじゅう、に………!)
どんっ。
(きゅうひゃく、ごじゅう、さんっ………!)
どんっ。
(きゅうひゃく、ごじゅう、よんっ………!)
そんなスーラを、レイクはずっと見つめていた。
訓練をすると去って行ったが、それはウソだ。
かつての師匠がそうであったように、『がんばる』は信じない。
『がんばった』なら信じる。
今日がんばったなら、明日は今日のがんばりに答える。
明日がんばったなら、明後日も答える。
そして一年、がんばったなら――。
一年ずっと、いっしょにがんばる。
レイクは、そんな気持ちでスーラを見つめる。
自身も雨に打たれていたが、そんなことは関係ない。
パートナーががんばっているのに、自分はぬくぬくとしているなんて論外だ。
(がんばる………です。)
(ご主人さまのおために、がんばる………です。)
(スーラは、なんでもする………です。)
呪文のようにつぶやいて、体当たりを続けている。
レイクは思った。
(なにが召喚魔装士だ)
パートナーの気持ちひとつも理解しない、しようとしない分際で。
(なにが召喚魔装士だ!)
パートナーのことを、名前ひとつ知らなかった分際で!
確かに、自分のパートナーはスライムだ。
強さという観点から見れば、ハズレと思うのは仕方ない。
けれども、自分は天才だ。
努力はしたが、それ以上に才能もあった。
父母には大切に育てられたし、有能な家庭教師もつけてもらった。
幸運だった。
今までの暮らしは、幸運だった。
幸運を当然のものとして享受していたのに、不運を受け入れることは嫌だと嘆く。
そんな勝手は許されない。
幸運が天分ならば、不運も天分。
幸運をありがたく使って享受したなら、不運もありがたく享受――否。違う。不運ではない。
あんなに健気な少女との出会いを、『不運』などにしてはいけない。
ずるっ。
スーラが足をすべらせた。
レイクはタンと地を蹴り駆けた。
スーラの体を、スライディングで抱きとめる。
「がんばるぞ」
(………?)
「オレもがんばるから、オレのパートナーであるオマエも、全力でがんばれ」
(………!)
スーラの瞳が大きく開かれ、輝きを増した。
パートナー。
パートナー。
パートナー。
なんという響きだろう。
心の中でくり返してみたが、ぷるぷる震えてしまうほどうれしい。
うれしすぎて溶けそうだ。
というかちょっぴり溶けてしまった。
スーラは慌てて元に戻ると、五〇センチ後ずさった。
三つ指をついて、うやうやしく頭をさげる。
(ふつつかですが、よろしくおねがいします………です。)