第八十三話 ひとりぼっちのハイエナ
そろそろ午後の仕事が始まる。お手洗いに行っているヒューノバーとは別行動で班室から移動している最中、後ろから声をかけられ足を止めた。振り返ればリディアがひとり立っていた。シグルドの姿は見えなかった。珍しいと感じた。
「ミツミ」
「リディアさん、どうかしましたか?」
「マイクロフトの資料、調べましたか?」
リディアの問いに、以前食堂でした会話のことだと理解する。気にかけてくれていたのだろう。あまりいい返事はできないが、報告として話をすることにした。
隣に並び立って歩みを進めながら、リディアに話しかけた。
「資料室にありました。マイクロフトの資料、ですが……」
「何も実になるようなことは記されてはいなかったでしょう?」
「え? ええ、誰かの手で、情報を隠されているようで、黒塗りだったり、破かれていたり……」
何故リディアがそのことを知っているのだろうか。疑問に思いつつも、やった人物に心当たりはないかと聞く。
「私にも分かりかねます」
「ですよねえ」
「……私がマイクロフトの資料を探した際も、そうでした。碌な情報は無かった」
「調べたんですか? リディアさんが?」
「マイクロフトは私の父です」
思わず足を止めた。サダオミたちから聞いた情報では、マイクロフトの伴侶はハイエナの獣人だとは聞いていた。リディアに関わりはないのではとも。しかし、リディアの口ぶりから、マイクロフトが父親だと言うのは事実なのではと感じた。リディア自身、あまり冗談を言うタチではないと言うのもあるが。
「リディアさんは、生き残った、マイクロフトの娘なんですか?」
「ええ、十八の時です。事件があったのは」
当時、心理潜航捜査班に所属していたマイクロフトの自宅をマフィアグループの一派に襲撃されたと言う事件。リディアの母は亡くなり、リディアは当時十八という若さながら身重で、出産のために実家に帰っていたのだそうだ。襲撃後、重体に陥り、腹の中の子供も危なく、帝王切開で出産。生きていられたのが不思議なくらいだったそうだ。
当時既に夫となっていたシグルドはリディアが回復するまで双子をひとりで育て、リディアの見舞いにも行き、大変だっただろうに泣き言ひとつ言わずにこなしてくれ感謝している。と呟いた。
歩みを再開したリディアについて行く。
「体が回復してから、私とシグルドは総督府に拾い上げられました。心理潜航の素質があったからもありますが、それだけではありません。マイクロフトが喚びビトだったから。私は総督府に来て初めて、父が喚びビトだったのだと知ったのです」
心理潜航の素質は確かにあったのだろう。しかし、総督府の重役も責任を感じていたのだろうとのことだ。拾い上げられて初めて、マイクロフトが特殊な事情を持つ人間だと知った。
「二人の妹は、未だ行方知れずです。潜航班に所属してから、マイクロフトの作ってきた人脈を使い調べましたが、結局、生きているのかも、死んでいるのかさえも、分からず仕舞いです」
総督府が己を救ってくれたのならば、妹たちもどこかに居るのではと考えた。しかし、足取りは何ひとつとして掴むことは叶わず、今に至るそうだ。
「私が今、心理潜航捜査官を務めているのは、マフィアグループに関与している潜航対象者から情報を得られぬか。その考えのみです。班長になったのも、その為でした」
「……マイクロフトは、あなたたちを置いて、消えてしまったのですか?」
「はい。私が暴行され、意識を取り戻した時には、既に父の姿は無かった。ミツミ、あなたがマイクロフトに出会ったと聞いた時、やっと手がかりを掴めたのだと、私の心は湧き立った。人間の純血派に所属しているのも、きっと何か考えあってのことだと考えました。父は聡明なヒトでしたから」
監視室の前にたどり着き、リディアは扉の前で足を止めた。リディアは震えたような息をして、私は言葉を待った。
「ミツミ」
「は、はい」
「もし、もし次に父と出会うことがあったのならば、聞いてはいただけませんか? 娘を、覚えているかと……」
リディアの声は今にも消え入りそうに震えていた。リディアはマイクロフトを、信じたいと願っているのだろう。マイクロフトはリディアや娘たちを捨てたとも取れる行動をしたのだ。心理潜航捜査班を辞し、生き残っていた重体の娘を放ってどこかに雲隠れした。足取りも掴めない。
やっと尻尾を掴めるかと思われた私とマイクロフトの邂逅。しかし、マイクロフトは獣人と対立している人間の純血派に属していた。獣人である自分の存在を、否定されるようなものでもあるだろう。獣人であった妻を、母親を否定しているようなあり方でさえある。
リディアは怖いのだろう。事実がどうであれ、答えを知ることが。
「……次、もしもマイクロフトに出会った時には、聞いてみます」
「…………お願い、します」
いつも毅然とした態度のリディアの背は、今だけは、強い女性のものではない。父を恋しく思う娘の寂しげな背に思えた。
その日の心理潜航は補助に回ったが、リディアのことばかり考え、あまり記憶には残らなかった。