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さっきまで真希ちゃんを必死に(なだ)めていたから何もできなかったけど、今は一時的とはいえ一人だから安心できる。


 別に特にやましい事がある訳ではないが、一人になりたい時くらい誰にでもあるだろう。


――本当だよ。やましい事なんて何一つ無いよ。


 なんて雑念に塗れていたからか、客間に戻ってきた真希ちゃんに例の如く冷めた視線を送られた。


……嘘です。ごめんなさい。許してください。やましい事ならごまんとあります。だからさ、睨まないでよ真希ちゃん。


 美少女中学生に二人っきりの密室で怒られる……。


 字面だけ見るとエロ要素を寄せ集めたように感じるが、真希ちゃんの放つ雰囲気はそういった煩悩にまみれたものではなく、さながら冷えきったシベリアの凍土みたいだった。


 変な事言ったら凍死するんじゃねーかってくらい寒い。かといって何も話さなかったらそれはそれで気まずい。なにこの地獄。


 なぜこんなことになったのかは先程まで遡る。


「なあ、朝日」


 俺としては当然のことだとは思うものの、朝日に一応確認をすることにした。


「……どうした? 先に言っとくけど助け舟は出さないからね」


「や、そうじゃなくて。え……と、いつも通り俺は客間を借りていいのかな? たぶん真希ちゃん達は同じ部屋だろうし」

まあ念には念というやつだ。男子高校生と二人同じ部屋にいても恋バナなど滅多にしない。


 むしろ「田浦さん怖いよなー」とか「深山先生って熊みたいだよな?」くらいしか話さず、ただむさ苦しく虚しいだけだ。


 打って変わって、女子中学生二人が同じ部屋ならば恋バナやクラスメイトの愚痴を言ったりするのに躊躇(ちゅうちょ)せずに済み、幸せな時間を過ごす事ができる。まさにWin-Winな訳だ。


 たしか愚痴を言う事一つとっても男子と女子とでは過激さがかなり異なるとレディコミか何かで見たことがある。


 俺らがいると話せないようなことも女子二人ならば話せるだろうし、その点においてこのアイデアはかなり有用性が高いと言える。


「……何を言っているんですか?」


 が、真希ちゃんは首を傾げると俺の意見に異論を唱えた。我ながらいいと思うんだけどなぁこのアイデア。


 というか朝日の部屋に二人で寝るって何? 新手の拷問か何か?


「まだ、玲さんヘのお説教は終わっていませんよ」


「へ……」


「何より先程の約束をもう忘れたんですか? まさか、ダチョウの脳《40g》よりも容量が少ないなんて言いませんよね?」


 青筋を浮かべながら印籠のようにスマホを見せつけられる。当然、画面には見慣れた姉の名前。


 まずい……何も聞いていなかった事をバレたらおわる。

姉さんと血こそつながっていないとはいえ、ここ数年生活を共にしてきたということはだ。……肉体言語を習得していてもおかしくない。
 

 特に姉さんは真希ちゃんラブだったから、かなり嫌な予感がする。


「い、いやそんなことはない……と思います」


 竜頭蛇尾とはこの事だろう。威勢よく否定しようとしてみたものの、否定できる確定要素が欠落していたため尻すぼみになってしまった。


「……そうですか」


「そうですわよ」


 正面からの圧倒的な圧力(プレッシャー)は遂に俺の思考回路にまで影響を及ぼしてきたようだ。


 自分でも違和感を感じるくらいなのだから真希ちゃんは相当違和感を感じているだろう。


 その証拠にさっきまで俺を咎めていた口も気が抜けたようにぽかんと開いている。だが、真希ちゃんの心配をしている場合ではない。


 何せ今の俺の脳内はベビーカーにメ◯ちゃん人形を乗せた五十路くらいの男性に「あら、お兄さん。今暇かしら?」と話しかけられた時と同等の混沌《カオス》状態にあると言っても過言ではないのだ。
 

 女子中学生に夜のお説教をされるなんて一部の人なら喜びそうだな。……というか響きがエロく感じる。


「玲さん……何か変なこと考えてましたか?」


「そ、そんなことないよ」


 真希ちゃんに汚物を見るような目で見咎められ、ようやく思考回路の修正が完了した。


 こうして、俺は真希ちゃんと《《二人きり》》という精神的にキツイ状況に至ったわけだ。

真希ちゃんによる説教という名の刑の執行が開始されてから四○分後、俺は人をダメにするクッションに埋まっていた。


 まさか、朝日の家に隠していた『年上をデートに誘うテクニック』や『先輩女子にモテる5つのポイント』といった年上をやたらと強調した雑誌が見つけられるとは思いもしなかった。


 冷静になると、こんな雑誌を買って「これで俺にも包容力のある素敵な彼女ができる!」なんて思ってたのが痛々しい。


 参考書を書架に戻した際にそれを見つけた美咲ちゃんの行動は早く、ソファで寛いでいる朝日の眼前にそれを突きつけた。


「ねぇ……お兄ちゃん。これは……何?」


「あー、それか……こないだ玲が読んでた雑誌じゃん。たぶん持ち帰りそびれたんじゃない?」


 澄まし顔で朝日はそう言いスマホをぽちぽちと弄っているが、俺が雑誌を置いたの客間のベッド横のスペースだったような。そして、何より見覚えの無いドッグイヤー。
 

 とはいえ、そんなことを美咲ちゃんが知るわけもなく、くるりと此方を振り向くと頬をぷくりと膨らませ。


「玲さん……こーゆー本はあんまり読んじゃメッですよ」


「あ、はい……」


 別に何ら後ろめたいことはしてないのだが、子供に言い聞かせるような言い方だったからか謎の罪悪感が湧いた。


 まぁ、家に『年上女性とのおすすめデートスポット10選』がある時点でお察しだが。

 真希ちゃんから「これは処分しておきます」と言われたのは別にいい。

 問題は、その挙げ句「お義母さんにも報告しておきますね」と今日見た中――ここ最近見た中で一番の爽やかな笑顔で言われたことだ。

 正直、精神的にかなりキツイ。


 なにせ、あの姉だ……至って健全な包容力と経済力に満ちた年上女性がタイプの俺に、あろうことかシスコンであると認識させようとしてくるあの姉なのだ。


 ――というか俺はシスコンじゃないけどな。


 だから、今回も「もう玲ったら、お姉ちゃんが好きすぎて年上の女性にしか魅力を感じなくなったの? 可哀想に」と一見心配しているように見せかけて、実のところは煽られるという一連の流れになるのだろう。


 ……もっとも今は真希ちゃんを家に置き去りにして外出を勝手にしていたということもあり、その前に肉体言語で小言を言われるのだろうが。

 ……何という負の相乗効果。そんなことを考えていると。


「玲さん。お風呂空いたので次どうぞ」


「あれ? もう出たんだ」


「え……と、さっき玲さん家のお風呂借りたのでシャワーで済ませちゃいました」


「……そ、そうなんだ」


「あ、心配しなくてもちゃんとお湯は抜いてきましたよ!」


 そう言い胸を張る美咲ちゃんには悪いが、そういうことじゃないんだ。


 健全な男子高校生の家で風呂に入った時点で背後に立つシスコン的にはレッドカードだったようで。

奴《朝日》は青筋がくっきり浮かぶほど拳を強く握り「なあ、玲。変態シスコン野郎は滅ぼすべきだと思わないか?」と問うてきた。


 いや、シスコンはお前だろ。

※ ※ ※

 手短にかけ湯を済ませると、目をさながら使われなくなった冬場の屋外プールのごとく澱ませながらシャンプーを手に取った。


 手に出した時点で鼻をいつも使っている安いリンスインシャンプーとは異なる優しいフローラルな香りが突き抜けていく。


「しまった…………どうしよう」


 戻した方が良いのか、それとも使うべきなのか、はたまたシャワーで流してしまうべきなのか。少なくとも戻すのは衛生的に良くないだろう。


 それに、戻したとすると俺は、自分の触れたシャンプーをJCのシャンプー容器に戻すという特殊性癖のある変態になってしまう。


 逆に戻さずに使った場合はもう幾重にも変態のレッテルを貼られてしまうだろう。


 そして、最終的には「あなたは誰ですか? こんな変態は私の身内にはいないのだけれど」と冷めた目で見咎めながら言われるところまでは想像が容易にできる。


 かといって、流した場合……一見問題は無いかのように見えるが、実のところ今手に出したシャンプーで中身を全て使い切ってしまった。


 だから、流したとしても使ったのと同じ扱いを受けることになる。


 あと、人のものを勝手に使ったのに謝らないのも後味が悪い。


  仕方がないからこのシャンプーは使おう。……仕方なくだからね。

室温四○度の密室で体と髪を洗う時間だけでも葛藤をしたり煩悩を退散させたりとしていたために徐々に思考力が低下していくのは仕方のないことだと思う。


 身も心も(けが)れを落とした俺は、湯船に浸かる前に入浴剤を選ぶ。


 ――とは言っても残っているのは森林の香りの発泡入浴剤とシトラスの香りのバスソルトとにがり温泉なのだが。


 朝日の母が敏感肌だと聞いているから、恐らく、にがり温泉は肌の弱い人用だろう。


 それに、なんかよく見る発泡入浴剤の箱に比べて高そうな箱に入っているからパスで。


 シトラスに至ってはアトラスオオカブトを連想してしまったのは男子の悲しい性だろう。実質そうなった以上は森林の香り一択なのだが。


 ちなみにアトラスオオカブトは東南アジアに生息し、ギリシャ神話の巨人アトラスからその名はきているからアトラス山脈に生息しているわけではない。あっこれ豆な。  


 子供向け教育番組で森林の香りは死の香りと言っていたのを思い出し、恐る恐る入浴剤の成分を確認する。


 危険な成分が入っていなかったことに安堵したのは言うまでもないが、確認をしている最中に唯一思い出せた成分の特徴が揮発性(きはつせい)物質であるということだけだったことに落胆せざるを得なかった。


――揮発性じゃ無かったら目に見えるし、そもそも危険なものは出荷できないな。

 なぜかいつも気になった事は問題が解決したタイミングで鮮明に思い出してしまう。


……俺の優秀な海馬が職務放棄をするのはいつも決まったタイミングなのだろうか。


 たしか、死の香りと呼ばれる由来はフィトンチッドっていう殺菌作用のある成分があるかららしく、この成分は人体には癒やしと安らぎを与えてくれてむしろ良いらしい。
 

 すげぇどうでもいい知識だけがまた増えてしまった。


 風呂に説教された時間程度にはゆっくりと浸かり身も心も綺麗(きれい)になった俺は、これから起こるであろうことを想像して身構えていた。


 リビングに居た美咲ちゃんにシャンプーの件を謝ると、頬を僅かに染めつつも「そ、そういうこともありますよね! わ、私詰め替えてきます」とあっさり許された。


 風呂場へ向かう彼女の片手に見慣れた安物のリンスインシャンプーがあったような気がしたが……まあ錯覚だろう。


「……はぁ」


 おぼつかない手つきで客間のドアを開けると、やはりそこには仁王立ちしている真希ちゃんがいた。その姿はさながら金剛夜叉明王のようだ。


 ……まあ、この場合は姉さんが不動明王、俺は認めたくないが、邪鬼となるのだろう。


――ということは、俺は不浄を取り除くために烈火で焼き尽くされて清浄にされるってことか。

それこそ、バーベキューのときのトウモロコシかっていうくらいにはこんがりと焼かれるのだろう。


 できれば今までの不浄を仏の智慧で取り除いてほしいな……なんて。だめかな。


「……さっきの続きです」


 真希ちゃんは俺の考えている事を見透かしたかのように、死にかけの虫を見るような目で回遊魚のごとく絶えず泳ぎまくっている俺の瞳を一睨みすると、静かに床に腰を下ろした。


 二度目のお説教をうとうとしながら返事を求められるたびに、虫喰いだらけの記憶の底からそれっぽい事をひたすら返していたが、今時計の短針と長針が十一のところで重なった。


 流石に時間的にそろそろ部屋に戻って欲しいと思い、先程からやけに静かな真希ちゃんに対して声をかける。


「あのー、真希ちゃん。その……そろそろ部屋に戻ったりとかは?」


 が、返事はなく聞こえてないのかと思い再度声をかけるも結果は変わらなかった。


 ……これはマズい。俺が知らない間に何らかの不快にさせるような事を返してしまい嫌われていたら……。


 まず人に嫌われる、特に身内に嫌われるのは辛い。


 最悪それだけで済めばまだ軽傷だ。万が一姉さんの耳に入ったとすると……。


 真希ちゃん命の姉さんの事だ。俺のことをこってりと絞るだろう。

 いつも説教の最後はローリングソバットで締めくくると統一されている。


 おそらく、両親が生きていた頃からそうだったから昔一度だけ見に行ったプロレスに感銘を受けたのだろう。


 まあ、実の弟を使って練習するのもどうかとは思うが……それはそれ。


 最悪のパターンを想像していると、正面からスヤスヤと規則正しく吐息が聞こえてくる。


 嫌われてしまうという一番最悪なパターンは避けることができたが、一難去ってまた一難とは(まさ)しくこれのことであろう。


 違うと言われても俺はこれ以上に相応しい状況はこの一六年間で一度たりともあっていない。


 流石に床で寝かせるというのもかわいそうだし、そんな扱いをした事が姉にバレたら……想像するだけで怖気が走る。


 とりあえずベッドに移動させるために抱えることにした。


 所謂お姫様抱っこというやつだ。


……これをしている王子や姫を見たことは一度もないが。


 女子は天使の羽と同じくらい軽いとは言うものの、俺の知っている天使の羽は大容量を全面的に売り出した代物かつ、じゃんけんで負けた奴が登下校中に電柱の間を運ぶ罰ゲームのイメージが強いからか、実は結構重たいんじゃないかと邪推してしまう。

というのも、この罰ゲーム自体が教科書とかが諸々入って少なくとも5キロは軽く凌駕する天使の羽(ランドセル)を参加者分一度に運ばなくてはならないという事と、小学二年生くらいまでしかやった記憶が無いから、そういったイメージが根強く残っているのだろうが……。少なくともそれよりは軽いと感じられた。


 鼻腔をくすぐるサボンの香りと柔らかな感触に悩まされながらも、なんとか真希ちゃんをベッドに寝かしつける。


 はて? 一体俺はどこで寝るのかしらと思案するが、朝日はお世辞にも寝相が良いとは言えず、仮にベッドを半分割譲されても蹴り落とされるのが目に見えている。


 かといって美咲ちゃんの部屋に入ったら今度こそ変態の烙印を押されてしまうだろう。
 

 まぁ、要するに俺は部屋を与えられていようがリビングで寝るしかないのである。


 戦隊モノで負けた端役の如くずるずるとリビングへと向かう。


 リビングで寝るといっても、フローリングに直で寝るわけではない。


 そんなことをするのはラッキースケベを画策する奴か、寝心地の悪い床が好きなドMだけだろう。


 もちろん、自称健全などこに行っても恥ずかしく無い好青年である俺はソファで寝るつもりだった。


 訂正。今もって現在進行形で寝るつもりだ……この惨状をどうにかできたらという条件付きではあるが。

ソファの上には朝日の読みかけのバスについての雑誌や美咲ちゃんの趣味とおぼしき少年漫画がレーベルに関係なく乱雑に積まれている。


 極めつけにはソファの縫い目が本の重さに耐えきれずに裂け、中からはケサランパサランのような綿がちょろっと飛び出ていた。


 『あきらめたらそこで試合終了ですよ』って安西先生は仰っているが、まず前提条件としてそもそも試合が《《始まる前から終わっていた》》ということと、挑んですらいないことを加味したらセーフなのではないだろうか?

 床で寝る自分が変態ではない事を証明する屁理屈を考えることにも疲れ、どうにか目の前の現実から逃避しようとやけに秒針の音がカチカチカチと大きく聞こえてくる時計を()めつけるように見ると、既に短針は四を指していた。


 コーヒーの馥郁(ふくいく)たる香りとベーコンの芳ばしい匂いにつられて、がばっと跳ね起きる。


 起き上がった俺を見て朝日がビクッと肩を弾ませたのはきっと気のせいだろう。……全然傷ついてなんかない。


 ぎょっとした顔で俺を三秒見つめ、次に、コーヒーをごくっと一気に飲み干す。


 それからほっと一息つくと、現状を把握したのか取り繕うように。


「あ……おはよ玲。その、もしかしてなんだけど……部屋から追い出されたの?」


 朝日は俺の真希ちゃんからの扱いを想像したのか戦慄の表情を浮かべる。

「そ、そんな訳あるか……自発的に来ただけだ」


 たしかに、若干追い出されたような気がしない事もないが……それとこれとは別だろう。


 ていうか、こいつ俺が早起きした可能性を無自覚で否定しやがった。


「……そうなんだ。てっきり変……妙ちくりんなこと言って追い出されちゃったのかと思ってたんだけど……違うんだ。そっか」


「はっ、何言ってんだか」


 俺は振り向きざまに目を下水のように濁らせ、目を細める。そして、どんよりとした眼差しを朝日に向けた。


「変な事言っても今さら何もされねーよ!」


「理由がダサすぎる……」


 閑話休題(かんわきゅうだい)


「あ、そうだ。今日はリビングでバルサン焚く予定だからどっか行かない? 横浜か横須賀中央のどっちかにしようかと思うんだけど……。どっちがいい?」


 定期区間だから横浜にすれば安く済みそうだが、正直飽きがきている。

 かたや中央はそんなに行く機会もないから全然知らない。


 強いて言うなら、中央のモアーズはアニメイトよりもラノベの品揃えが良いってことくらいしか知らない。……結構知ってるな。


「じゃあ中央で」


 ……別に混雑具合とか真希ちゃんの分の運賃とかが決め手になったわけではない。


「そいや、あの二人はどうすんの?」


「あー、玲が風呂入ってる間に話し合って一緒に行くことになったよ」


 俺のジトリとした視線をさらりと受け流すと、朝日はため息を吐く。

「……誰とは言わないけど先に伝えるとそれに合わせて予定を入れようと企てる人がいるからね。困っちゃうよね……ね? 玲」


「さ、さいですか」


 狼狽えた俺の姿に満足したのか、朝日はにまっと笑みを浮かべる。ほんといい性格してますね。


「一応予定ではバルサンを七時くらいから焚くつもりだから……支度はできれば六時半までにしといて」


「了解」


 そう言われスマホで時刻を確認する。現在の時刻は五時過ぎ……睡眠時間ゲットだぜ。


 気分が上がっていたものの、部屋を未だに占拠されていることを思い出し落胆する。


 一応見に行くだけは行っておいたほうがいいんじゃないかと考え、真希ちゃん統治下の愛しの客間へ戻ることにした。


 真希ちゃんはベッドでぐーすかと腹を出して寝ていた。とりあえず、床に落ちていた布団をかけてやる。


 ついでに昨日の仕返しとばかりに頬をぷにぷにとつついてみたものの、むにゃむにゃと何事かをむにゃり、んっと身じろぎするだけで起きる気配は一切無かった。

※ ※ ※
 
 ぷにぷにと暫くマシュマロのような肌の感触を楽しんでいると、真希ちゃんがむくっと起きた。


 まぁ、あれだけ(つつ)いていたらそりゃ起きるよな。


 朝一で罵声浴びちゃって変な性癖に目覚めちゃったらどうしよう。


……なんてくだらない事を考えつつも、狼の鼻息で吹き飛びそうな覚悟をもって真希ちゃんを見る。

すると、覚悟を決めて許しを()う為に正座している俺《子豚》と対照的に、真希ちゃんはベッドにぺたんと座り、心ここにあらずといった感じでぽけーっとしていた。
 

 そういえば姉さんが「真希ちゃんは低血圧だから朝はいつもと違った感じで可愛いの! まぁ、いつも可愛いんだけど。ほら、この写真みたいにいつもはキリッとしてて凛々しいんだけど朝はゆるゆるしてて……こんなにゆるっとしてて可愛いのに玲には見せちゃいけないなんて残念だわ」とか頬を緩めながら言ってたなと思い出し、そそくさとリビングへと戻る。


 基本的に五分前行動を心がけている優秀な俺は、予定時刻よりかなり早く支度を終える。


 手持ち無沙汰となったため、もう一度様子を見に行くことにした。


 ……別に楽しみにしていたみたいで恥ずかしかったとかではない。


 流石に起きているだろうとたかをくくりドアを開けると、真希ちゃんは先程と全く同じ姿勢でフリーズしていた。


 驚きつつもよく見ると、頭上をひよこでもぐるぐると回ってんじゃないかといった表情をしていることに気づく。


 ……っていうか気絶してね?


 少女漫画やライトノベルであれば、主人公がヒロインをお姫様抱っこや単なる抱っこをして移動するという展開が王道なのだろうが……生憎ここは現実(リアル)なのだ。


 一々そんなことをしたら俺の心臓(いのち)はいくつあっても足りない。

 社会的に男は女に弱いのだ……『男は女の涙に弱い』というのは冤罪にも弱いというニュアンスをきっと含んでいるのだろう。


 親父も言ってたしな、女の涙は壺になるって。なんでも、初めて付き合った彼女が美人局だったらしく、まんまと騙されて買ったとのこと。


 若干の虚しさを胸にリビングへ戻る。

 
 この状況を打開する為には美咲ちゃんの力が必要だ。ティーバッグを湯に浸し、鼻歌交じりにティータイム中の朝日に目配せすると。


「いや……たぶん美咲の方が朝弱いよ」
 

 朝日は優雅な所作とは裏腹に目を澱ませ答えた。


 日頃の疲れが蓄積していたのか、六時半を過ぎても真希ちゃんはおろか美咲ちゃんすら目を覚ますことはなかった。


 とはいえバルサンは優先事項なわけで。端的に言えば朝日は当然の如くバルサンを焚いた。


 もっとも、焚いたのはリビングだけで他の部屋には特に影響はないと考慮したのだろう。


 ただ、二人はいつ起きるのか分からず、ましてや女子それも客観的にも主観的にも可愛い美少女を起こすのは少々後ろめたい。


 なんなら、起きて欲しいけど起こさないというジレンマを一丁前に抱えるレベル。

  とはいえ、いつまでもこうはしていられない。スマホの液晶にふと目を見やると時刻は八時半だった。


「な、なあ……朝日」


「ん……どったの玲? もしかして、なにか良い方法でも思いついたのか?」


「いや、単に思ったんだが……いっそのこと起こさずに移動するってのはどうだ」

※ ※ ※
 
「タクシーを呼ぼう」


 そう提案して一五分後。タクシーが着いたとの連絡を受け、俺と朝日は未だ気持ち良さそうに寝ている二人を所謂お米様抱っこで連れて行った。


――お米様抱っこって正式名称はファイヤーマンズ・キャリーって言うらしい。……これ豆な。


 タクシーで横須賀中央まで移動を開始してニ五分後。君ヶ崎の辺りでようやく美咲ちゃんが目を覚ました。


 いや、覚醒したという方がかっこいいな。二人は覚醒した……いい響き。


「あれ? あ……おはようお兄ちゃん♪……と玲さん」


 あれれ……さらっと俺をスルーしようとしたね。お兄ちゃん大好きフリスキーなのかな?
 

 しかも、俺の事呼ぶとき全然嬉しそうじゃなかったし。もしかして:お邪魔


「あ、そーいえばお兄ちゃん。今日発売の増刊号買ってくれた?」


 ぱぁっと笑いながら発した元気な声が、タクシー内のこもった空気を振動させる。


 なんなら俺の頭にも響き渡った。


「一応今朝コンビニ行って買ったけど……」


 こいつ、自分の朝食作る前に既に妹の為にセブンまで行ってたのか。

朝日の顔には昨日の邪神のような恐ろしさは微塵もなく、まさしく兄の……シスコンの鏡だった。


 千葉の兄妹が凄いとはよく聞くが、神奈川の兄妹も中々ヤバいのではないだろうか。主にヨスガな意味で。


「けど……?」


 美咲ちゃんは可愛らしくこてんと首をかしげる。


「いや……いつも美咲言ってたじゃん。『玲さん達にはジャンプ読んでること言わないでね。絶対の絶対に内緒だからね』って」
 

 へ? 初耳なんですけど……取り敢えず初耳学に認定してもいいですかね。


 美咲ちゃんは頬を林檎のように紅潮(こうちょう)させ、朝日に向かいぽしょぽしょと何事かを呟く。


 なんでこんなに一つ一つの動作が可愛いんだろうこの娘は。


 美咲ちゃんは三秒程むっとむくれた後、目をうるうると潤ませこちらを向いてきた。


「れ、玲さん。そ、その……い、今の聞こえてましたか?」


「ん……いや? ちょっと意識飛びかけてたから聞いてなかった」


 美咲ちゃんの愛くるしさに呼吸するのを忘れブラックアウト寸前だった。


「……そ、そうですか」


 他の女子がすれば、あざといの一言で文字通り一蹴出来るそれすらも、美咲ちゃんがすると演技ではないように感じられてしまう。


――訂正。演技でないと感じるのは錯覚では無さそうだ。


 そこら辺の養殖女子共、この天然ゆるふわガールを見習いなさい!


 そう思いながら再び微睡(まどろ)みの中へと吸い込まれるように戻っていった。

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