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 軽い音を響かせて閉まる扉。
それだけで、この部屋はまた、薄ら暗い空間へと逆戻る。

「ぜぇ……はぁ……っ」

 灼ける喉。不快感を伴う味と感覚が、喉から口の中に残り、最悪な気分だとアネッサは思う。

「あんた、さぁ……」

 灼けすぎてダミ声になってしまう声にかかわらず、大人しく、身を縮こませながらも、尚何かを信じているかのように凛とする子どもに声を掛ける。

「あんまり喋らない。吐くの、本当に大変。水、無いから、回復、待つ」
「いい、え……。喋ってないと、気が、紛れない、の……。お願い、喋らせ、て。でないと」

 惨めさに、押し潰されそうだから。
アネッサの思いは声に乗ることなく、キツく噛み締めた唇の奥で、すり潰された。

「あんた、どうして、こんなところに、来たの」
「好奇心、狩猟された……」

 照れたようにはにかみ、ところどころ可笑しいカタコト言葉を話すこの子どもは、状況を理解しているのだろうか。

「港、見たことない。おっきい船、いっぱい。カッコいい。ハシゴあった。乗った」

 言葉を覚えたての幼児のように、単語だけを繋げて会話を試みている子ども。
このくらいの年ならば、もう少し流暢に喋れてもいいものなのに。
アネッサは不審がる。
まさか、あの旅人。
まともに子育てもできていないのでないか? と。

「ねぇ、あん、た、その、カタコト、は、どうしたの?」
「わたし、違うところ、来た。言葉、話すの、難しい。あんまり」

 ああ、つまり。
この子どもは、異国にこの年まで暮らしていて、この地に来たのはきっと、つい最近なのだろう。と、アネッサは推察した。
 それと同時に、彼女は無実の人を疑ったことをひどく恥じた。

「……ん? 待って、あんた、乗った……?」
「船、乗った」
「……まさか、よ? まさか、だけど、ね? ……あんた、自分で乗り込んだの? 海賊船に?」

 子どもの表情はパアァッと輝く。
それは会話が成り立ったことへの驚愕か。それとも言葉が伝わったことに対する喜びか。

「うん!」
「うん! じゃ、ない、のよーっ!」

 アネッサは叫んだ。力の限り叫んだ。
たとえその喉が灼け、耐え難い苦痛に襲われても、叫ばずにいられなかった。

「危ないところ、に、子ども、と、女、だけで! 行かない! のは、常識、でしょう!」
「知らない景色、ワクワク。行く、ない、もったいない!」
「もったいなくて、いいの! そうい、うのは、王都、とかで、やりなさい! それか、大人、の、男と、一緒に、行きなさい!」
「え? でも、お姉さん、男の子、いっしょいた。捕まった。なんで?」

 きょとん、と、疑問を抱く純粋な目に、アネッサは怯む。

「…… はあぁー……」

 子どもは苦手だわ。
大きなため息をついたあと、彼女は独り言ちる。

「わたし、お姉さん、好きにょ?」
「……あんたって、本当、変」

 再びのため息を吐き切ると、疲労感をにじませ、アネッサは床に横になる。
吐瀉物から距離は離したが、臭いまでは防ぎ切ることができず、最悪な気分の旅路になりそう、とどこか諦観を滲ませて。

 彼女は低い天井を見つめる。
ここは元々、人を乗せるような場所ではなく、荷物を詰め込む物置なのだと、察せられるほどの狭さ。

 あたしは、もう人ですらないと、そういうことなのだろうか。
アネッサは怒りを通り越して、最早薄らんだ笑みしか浮かべられない。

「あたしたち、どうなっちゃう、の、かしら、ね……」
「海賊船、奴隷商。奴隷、なるかな」

 考えたくもなかった最悪な事態を、軽い調子であっさりと言われるものだから、絶望に、加えて、再び生まれた怒りで目の前が暗くなる。

 その怒りは、オリバーに対するものではなく、まして海賊に向けられたものでもない。
空気を読まず、あっけらかんと楽観的に見えるこの子どもと、自分との差が浮き彫りになったことへの、遣る瀬無い怒り。

「どうしてそん、なに! 呑気で、いられるの! 奴隷って、ことはあれなのよ? あたしたち、もう、ここに戻って、来られない、し! きっと、気持ち悪い、奴らに、乙女の純潔を、傷つけられたり、するんだわ!」

 わっ! と両手で顔を覆い悲嘆に暮れるアネッサの傍ら。
それでも尚、この子どもは冷静だった。

「なんで、そんなに。諦めたの?」
「諦めてない」

 一言、アネッサに告げる子どもの目は、一切の曇りもなく、心の底から言っているのだと思わせる。

「信じてる」
「何を」

 子どもの視線は、天井へ。
否、もっと上の方。外の世界を見つめている。
外の音が聞こえないほどに、ある意味で護られたこの部屋に、騒がしい騒音が届き始める。

 子どもはまっすぐに、強い瞳でそれを告げる。

「テオを」

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