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たかが荷物部屋、されど荷物部屋。
海賊たちの当面の食糧や必須品、時には
たとえ内部が、虫食ったようなボロだとしても。壁だけは分厚く、強く作られている。
その壁が、ミシリ。歪んだ。
アネッサは目を見開く。
ミシ、ミシ。壁はさらに外側から強い力で圧迫されているかのように、その形を歪め、さらに内部にいる自分たちをも圧し潰そうとしている。
ビシッ。
壁にヒビが入る。
その隙間から漏れ出るのは、水滴。
アネッサの視界を、何かが塞ぐ。
それはあの子どもが、自身の頭を抱える映像。
「息、吸って!」
何が起こっているのか。何が起こるのか。
何もわからず、パニックに陥りそうになる。
ただ、その声に従うしかない。そんな状況。
「止める! 息!」
息を止める。瞬間。
(水?!)
荷物部屋に流れ込む大量の水。
荷物部屋の壁は壊れている。
一体何が。
アネッサが思うよりも先に、下側から突き上げられるような圧迫感。
水が彼女たちの頭上に登っていく。
ぐるぐる、ぐるぐる。
水の流れに体が弄ばれ、上へ下へと回転しながら、上昇していく。
「……っばっ!」
水面から顔を出す。
転がり出るように、固い地面に投げ出される。
木の質感。
そこは甲板だった。
幾ばくか飲んでしまった水を吐き出そうと、咽る。
久しぶりにも感じる外は、随分と眩しい。
青空と照りつける太陽。
いつも見ているはずのそれは、だだ広い水平線と共にあることで、どこか非日常を感じさせる。
(水平線も、いつも見ているはずなのに)
ぼーっとした心地で、甲板に座り込んでいると、この状況に不似合いな明るい声が聞こえてくる。
「テオ!」
ハッと振り向くと、勢いよく駆け寄った子どもを受け止める旅人さんが。
目元が見えない仮面は相変わらず。
右手側には受け止めた子ども。左手側には……。
(なんでデッキブラシ?)
掃除でもしてたのだろうか。この状況で?
なんて、あり得ない妄想をしてしまうくらい、それを持っている理由がアネッサにはわからなかった。
「ウミ、無事だったか」
「うん! ……テオ、杖は?」
「あ? ……あー」
「テオ、わすれもの?」
じっとりとした視線を向ける子どもに、気まずそうな旅人さん。
結局彼は、宿に置き忘れてきたことを白状し、子どもに舌足らずの説教をされる羽目になるのだった。
「ぐっ……クソっ!!」
聞き慣れた声が悪態をつく。
アネッサが視線を向けると、透明な縄に縛られているオリバーが。
その向こうには、気を失っているのか、白目を剥いて倒れ伏している、スキンヘッドの巨漢がいる。
(旅人さんって、魔法使いだったのね)
髪も服もびしょ濡れ。
少し前までは宿屋の娘とその取引相手だったオリバーが縛られて伏せていても、なんとも思わなかった。
ただ、その縄が水でできている。
なんとなく、旅人さんは魔法使いなんだと察する。
魔法使いなんて、絵本の中でしか知らない。
然るべき国に行けば、エリートとして扱われるその人が、何故旅人として旅をしているのかは分からない。
それでもアネッサは、憧れにも似たなにかが胸に灯るのを、確かに感じていた。
それはきっと、恋心というもの。
アネッサは、それが無謀であると気付きながらも、熱に浮かされた視線を向けることを止められない。
(旅人さんは、テオというのね)
彼が泊まって数日した頃に、ようやく知れた情報を頭の中で反芻しながら、何となしに声をかけたのは、きっと手持ち無沙汰だったから。
「ねえ、オリバー」
「……ちっ、なんだよ」
芋虫のように蠢きながらも、敵愾心は衰えていないようで、憎々しげな目線を旅人、テオに遣っていたオリバーが、舌打ちしながら視線だけ向ける。
あなた、そんな目もできたのね、なんて。場違いな感想を抱いたアネッサ。
彼女はただ、雑談でもするかのように彼に問いかける。
「あなた、いつから海賊になったの」
「はぁ? いつからって」
「言い方を変えるわ。あなた、あたしが働き始めた頃からずっと使いっ走りしてたじゃない。あの頃から?」
ああ。理解した風な言葉が彼の口から漏れる。
「まさか。彼らの仲間になったのはここ一年くらいの話だ。彼は、僕を助けてくれたんだよ」
強い信頼を感じる目。
その視線が行く先には、白目を剥いて倒れるスキンヘッドの巨漢がいた。
「犯罪者が、何を助けるっていうのよ」
「僕の未来を」
食い気味に言い切られたその言葉に、アネッサは首を傾げる。
「僕は、商会の息子だったことは君も知ってるよね?」
「ええ。だって、そのお使いでよく来ていたじゃない」
「……僕の母親は、父親の妾だった」
ポツリと呟かれた彼の境遇。
初めて聞く話に、アネッサは興味を持つ。
「愛妾の息子の立場は低かったよ。家も継げず、本妻にもその子どもたちにもいびられる日々。このままじゃ、大人になっても使いっ走りのままだった」
そんなのは、絶対に嫌だった。
「だから、船長がスカウトしてきたときは、後先考えずに飛びついたよ。……少なくとも、使いっ走りとして使い潰されるより、ずっと未来があると思えたんだ」
オリバーの告白に、それで未来が潰れてるじゃない。なんて、アネッサは思う。
けれど、アネッサは妾の子供ではない。
家族に甘やかされて育ってきたから、冷遇される気持ちなんて分からない。
だから、脳裏に浮かんだ一言を、彼に告げる。
「愚かね」
「……知ってる」
「本当に愚か。……あたしたち」
ウミと呼ばれた子どもにわずかな嫉妬と羨望を。
縛られたオリバーを、自分と重ね合わせて憐れむ。
届かない物に憧れてしまった、自分と彼は、きっと似た者同士なのだろう。