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第31話 手紙

 その日の夜は、まさに夢のような時間だった。

 採用のお祝いとして、白雪さんが料理の腕を振るいに振るってくれた。その数々がテーブルの上に並んだ。唐揚げ、特製パスタ、サンドイッチ、ミートボール、サラダ。まるで子供の頃、学校の友達を集めてお誕生日会を開いた時に、母親が作ってくれたパーティー料理のようなラインナップだった。

 極めつけは、ウインナー。白雪さんは僕の大好物のウインナーをたくさん焼いてくれた。まさに山盛り。白雪さんは「ちょっと作りすぎちゃった」と言ったが、そのあまりの量の多さに「ちょっとどこじゃないよね」と、二人でくすくす笑い合った。

 僕は缶ビール。白雪さんはオレンジジュース。それぞれを手に持ち、元気に声を張り上げて乾杯した。僕の漫画業界復帰を祝って。そして、白雪さんがプロになり、僕が彼女を担当するという、二人の夢がまた一歩近付いたことを祝って。

 白雪さんの手料理は全部美味しかった。ここまで美味しい料理を作れる白雪さんは将来いいお嫁さんになるよと言ったら、彼女は顔を真っ赤にして照れに照れまくっていた。僕はそれを見てからかい、白雪さんはむーっとして頬を膨らませた。

 その夜の白雪さんは、本当によく笑った。

 僕のつまらない冗談にも、お腹を抱えていっぱい笑ってくれた。あまりに笑いすぎて、笑い涙まで出る程に。そして僕の肩を何度も叩きながら、「私を笑い死にさせるつもりですか」と言って、また笑う。こういう幸せな涙なら、いくらでも彼女を泣かせてあげたいなと、僕は思った。

 あの日、ファミリーレストランで僕達が出会わなかったら、今のこの幸せな時間はなかった。白雪さんが勇気を振り絞って僕に話しかけてくれたから、今がある。

 もしも時間が戻るなら、僕はあの時の彼女にお礼を言いたい。

 ありがとう、と。

 *   *   *

「――あれ、白雪さん?」

 ぼんやりとした視界が次第にハッキリとしてくる。いつの間にか、僕は壁に寄りかかったまま寝てしまっていたようだった。

「マジか。缶ビール一本で酔って寝ちゃうなんて、我ながら情けないな」

 時計を見ると、時刻はもう深夜二時を回っていた。白雪さんの姿はない。

「僕に気を遣って、起こさないでそのまま帰っちゃったのかな。まあ、終電もあるし。それにしても、本当に楽しかったな。いやいや、よく笑ったよ」

 コタツの上を見ると、食べ終わった料理のお皿などは全て片付けられていた。白雪さんは本当に気の利くしっかりした子だ。僕なんて、翌日片付ければいいやと食べたらそのまま放置しておくというのに。

「白雪さん、すごく喜んでくれてたな」

 そう。彼女は本当に喜び、本当に嬉しがってくれた。まるで、自分の夢が叶ったかのように。人の幸せを素直に喜べるというのは、やはり素敵だ。

「今度会った時に、ちゃんと今日のお礼を言わないとな。とりあえず、水を飲もう。アルコールのせいで喉が乾いた」

 そしてコップを取りにキッチンに向かい、パチンと電気のスイッチを押す。すると、ダイニングテーブルの上に見慣れないものが目に入った。

「なんだ、これ? 手紙みたいだけど」

 ピンク色の、一枚の便箋。
 それがテーブルの上にそっと置かれていた。

 まるで、一人ぼっちで誰かを待っているような、そんな寂しさで。

「白雪さんが書いてくれたのかな。僕が寝てるから置き手紙をしていってくれたのか。あの子、本当に優しいよ。僕のお嫁さんになってほしいくらいだ」

 僕はウキウキしながらその手紙を手に取った。出だしは『響さんへ』から始まっていた。白雪さんの字はとても綺麗で、とても美しかった。

 幸せがいっぱいに詰まった、白雪さんからの手紙。

 そう思っていた。当たり前の思考だ。それ以外あり得ない。だって、さっきまであんなに楽しそうに笑っていた彼女が書いたものなんだから。

 だけど、それは違った。

「……合鍵?」

 手紙の裏に、セロハンテープで合鍵が張り付けられているのに気が付いた。白雪さんがいつでもこの家に出入りできるように手渡した、あの合鍵だ。

「どういうことだ」

 感じる、嫌な予感。正直に言うと、読みたくなかった。読んでしまったら、僕と白雪さんの『物語』が終わってしまう。そんな気がしてならなかった。

 だけれど、読み始める。彼女の書いた手紙だ。怖がってどうする。これから僕達は明るい未来を願いながら、共に歩き続けながら、一緒に進んでいくのだから。

 そして、僕は読み終える。

 心の中にある蝋燭の火が消えていくのを感じた。

「……なんでだよ」

 地の底に突き落とされた。目の前が真っ暗になる。
 絶望。後悔。自棄。様々な感情が、僕を支配する。

 気付いてあげることができなかった。
 白雪さんが抱いていた苦悩に。そして、彼女の気持ちに。

 手が、震える。足の力が抜けていく。
 そして、涙が込み上げてくる。

 僕は、本当にクソッタレだ。

「――こんなラスト、僕は絶対に認めない」

 力いっぱい、読み終えた手紙を握りつぶす。そして怒りに打ち震えた。

 その怒りは、彼女に対してではない。僕自身に対してのもの。自分の鈍感さに対してのも。そして、僕の浅はかで単純な思考に対してのもの。

 自分で、自分に失望した。

「こんなラスト、絶対に認めない!! 認めないぞ!! 誰がこんなラストを望む!! 僕はハッピーエンドの方が良いと言ったじゃないか!! こんな物語、僕は絶対に認めない。ボツだ!! 全ボツだ!!! 担当として絶対に認めない!! 今すぐに描き直せ!! 描き直すんだ白雪さん!! 僕も手伝うから!!」

 足の力が完全に抜け、床に崩れ落ちる。

「頼む、お願いだから、お願いだから描き直してくれよ……。ねえ、白雪さん。僕の一生に一度のお願いを聞いてくれよ。お願いします、描き直してください……」

 誰もいない、一人きりのキッチン。床が冷たく感じる。

 僕は叫び、嗚咽を漏らした。白雪さんに届くはずのない声が、深夜の冷たい空気の中で、虚しく響き渡った。

 彼女が書いた手紙。その所々、涙で滲んでいた。

 *   *   *

『響さんへ

 何をどう書けばいいのか気持ちの整理がつかないまま、筆を取ります。
 読みづらいと思いますが、許してください。

 私は自分の気持ちを抑えることが、もうできません。本当に未熟ですよ。響さんの言う通り、やっぱり私はまだお子ちゃまです。

 私が描いてる漫画のラスト。まだネームをお見せしていませんでしたよね。幸せな結末か、悲しい結末か、どちらを選ぶべきかずっと悩んでいました。だけど、響さんが漫画業界への復帰が決まったことで、私の中で決心がつきました。

 私は、悲しい結末を選びます。

 これから前に進んでいく響さんに、私は迷惑をかけたくありません。困らせたくありません。私のような子供が、いつまでも響さんの側にいるべきではないです。もっともっと、想いが深まってしまうから。絶対に気持ちを伝えてしまうから。

 だから私は、響さんから離れます。

 辛いですけどね。すっごく悲しいですけどね。耐えられないですけどね。また響さんに会いたくて会いたくて、我慢できなくて泣いちゃうでしょうけどね。

 でも、仕方がないんです。私はまだ女子高生です。最初は年の差なんて関係ないと思っていました。だけど、それは私だけで、響さんは違うかもしれない。

 あーあ、私がもっと早く生まれてればなあ。そしたら響さんと、ずっと一緒にいられたかもしれないのに。運命って残酷ですよね。

 響さんと過ごした時間は、本当に、本当に楽しいものでした。私の宝物です。一緒に過ごした時間、共有した景色、一緒に買い物に行った思い出。それと、今日のお祝いパーティー。一生、絶対に忘れません。

 だから響さんも忘れないでくださいね。
 わがまま姫からのお願いです。

 そんなわがまま姫からの、最後のお願いです。もし私がプロの漫画家になれたら、その時は絶対に、私と一緒にお仕事してください。私の担当になってください。

 その夢だけでも、見させてください。
 残させてください。

 じゃないと私、
 これからどう生きていけばいいのか分からなくなっちゃうから。

 短い間でしたが、私は幸せでした。
 響さん。今まで本当に、本当に、ありがとうございました。

 さようなら、響さん。

 響政宗に恋をしてしまった、白雪麗より』


 『第31話 手紙』
 第三章 章末

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