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第30話 白雪さんの二つの涙

 足取りが、軽い。どうしてもスキップをしてしまう。しかも鼻歌を歌いながら。傍から見たら『何この危ない人』などと思うだろうけれど、今の僕はそんな些細で些末なことは気にしない。

「早く白雪さんに知らせてあげたいなー」

 僕は駅を降りてアパートに向かう。もう学校も終わって、僕の家に来てくれている時間だ。たぶん今頃、晩ご飯を作ってくれているか、原稿を描いているか、どちらかだろう。そんな彼女に、早く面接の結果知らせてあげたかった。

 喜びを、共有したかった。

「またお互い抱き合っちゃったりして。それで二人で恥ずかしがっちゃったりして。んふふー。あー、白雪さんの喜ぶ顔が早く見たい!」

 家路につく途中、僕はコンビニでビールを一缶だけ買った。お酒を飲むのだなんて何年振りだろう。でも実は元々、僕はアルコール、特にビールが大好きなのだ。単に酔っている間は思考力が落ちるので避けているだけ。だけれど、今日は別だ。やっぱり祝い事にアルコールは欠かせない。

 ちなみに、白雪さんにはオレンジジュースを買ってきた。ちょっとお高い生ジュース。これで彼女と一緒に祝杯を上げるんだ。乾杯するんだ。そして漫画業界に復帰できたことを喜び合うんだ。

「喜んでくれるだろうな、白雪さん」

 そしてアパートに到着。玄関の前でふと、白雪さんに何かサプライズ的な発表はできないかと考えたけど、やめた。そんな洒落たことをしようとしても、僕は絶対に失敗する。というか滑る。ダダ滑る。スキーで崖まで一直線くらいの勢いで滑り倒すだろう。やはり普通に伝えるのが一番だ。

 そんなことを考えながら、僕はカチャリと玄関のドアを開けた。ニヤニヤしながら。ウキウキが加速するまま。

 でも、僕の視界に入ってきた光景は――

「ただいまー、白雪さん! 僕さ、面接受かった! ……よ」

「ひっ……ひっ……う……ううぅ……」

 僕の目に飛び込んできたのは、嗚咽を漏らしながら原稿に向かっている
 白雪さんの姿だった。彼女は涙をボロボロこぼしながら、右手にペンを握っている。その光景を見て、僕の時間は一瞬止まった。玄関に立ち尽くした。

「白雪さん、なんで泣いて……」

「あ! ひ、響さん!」

 帰ってきたことに気が付いて、白雪さんは慌てて涙をぐじぐじと拭った。そして泣き腫らした目のままで、いつも通りとたとたとコチラにやって来る。

「お、お帰りなさい、響さん。思ったより帰り早かったんですね」

「白雪さん、どうして今……」

「えへへ。今ですね、私と響さんが初めてデートした時のシーンを描いてたんです。そしたら、そのときのことを色々思い出しちゃいまして。感情が昂って、涙が止まらくなっちゃって」

「そう、なのか……」

 僕は疑問を抱いた。

 あの時の取材という名目のデート。あまりに不自然だ。どうして泣く必要がある。僕と白雪さんの二人にとって、あの時はとても幸せな時間だったじゃないか。

 それに他にも気になることが。僕はそのシーンのラフを見ていない。恐らく、白雪さんが悩んでいるからまだ見せられないと言っていた、ラスト四ページ。つまりはラストシーンに違いなかった。

 彼女の言葉が完全に嘘であるとは言わない。漫画家は時に、自分の描いている作品のキャラクターに感情移入し過ぎてしまうことがあるからだ。白雪さんも同じように、キャラクターの気持ちに入り込んでしまった可能性はある。

 でも、それって……。

「そ、それよりも響さん。面接どうでした? 手応えありましたか?」

 あまりに普通に接してくる白雪さんに、僕はより違和感を覚えた。だけれど、それは言わないでおく。まだ事情は分からないが、それでも白雪さんは頭の中を切り替えたんだ。だったら僕も、気持ちと頭を切り替える。

 それが漫画家と編集者の関係というものだと僕は思っている。。

 僕達は、繋がっているんだ。心も、気持ちも、感情も。

「そ、それがさ、受かったんだよ」

「……え?」

 いきなりの報告に、白雪さんは完全にポーカンとしてしまった。僕の言葉の意味を理解できずに困惑しているようだった。僕自身、まだ現実感が薄いのだから、彼女にしたら余計にそう感じるだろう。

「う、受かったって、今日の面接のことですよね? それって採用ってことですか? え? 面接の結果って、そんなすぐに出るものなんですか? 普通、数日経ってから連絡が来るものじゃ……」

「それがさ、即決採用。社長さんが僕が編集してた漫画のファンだったんだよ。それで僕の能力を高く買ってくれて。その場で採用が決まったんだ」

 白雪さんは、僕の言葉の一語一句を咀嚼し、ゆっくりと頭の中で整理する。そして少しずつ理解に向かった。僕の言葉の意味を。

「うそ……」

「本当だよ、これは現実なんだ」

 そう、これは『現実』だ。

 僕と白雪さんが共有した夢。それが現実になるかもしれないのだ。

「漫画編集の仕事に戻れるんだよ、僕」

 きっと白雪さんは飛び跳ねて喜んでくれると思っていた。そんなリアクションが返ってくると思っていた。だって、彼女はいつもストレートに感情に出す子だから。

 だけど、違った。

 白雪さんは大きな目に涙を溜めた。そしてそれは、あっという間に崩壊する。ポロポロと涙を流し、頬を濡らした。

 でもその涙は、先程見た涙とは全く違っていた。嬉し涙だ。白雪さんは涙を拭うこともせずに、このままずっと泣き続けてしまうのではないかと思う程、僕のためにいっぱい、いっぱい泣いてくれた。

「本当に? 本当に漫画編集に戻れるの? 夢じゃない? ねえ、響さん?」

 涙声で、そう確認する。

「ああ、本当だよ。戻れるんだ。夢なんかじゃない、これは現実なんだ」

 やっと見ることができたよ、白雪さんの笑顔を。嬉し涙を流しながら、『嬉しい』がいっぱいに詰まった、最高の笑顔。それを僕にプレゼントしてくれた。泣きながら笑うだなんて、白雪さんは本当に器用な子だな。

 そんな君の笑顔が、僕は大好きだ。

 そして一言。本当に一言。
 白雪さんのありったけの気持ちを詰め込んだ言葉を。祝福の言葉を。

 彼女は僕に、リボンをつけて贈ってくれた。

「おめでとうございます、響さん」


 『第30話 白雪さんの二つの涙』
 終わり

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