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第29話 まさかのまさか

「――あれ、私、寝ちゃって……」

「おはよう、白雪さん」

 あれから一時間程で、白雪さんは目を覚ました。まだ頭がハッキリしていないようで、両手でこしょこしょと目を擦ってから周りをキョロキョロしている。まるで子猫のような仕草だ。

「す、すみません、私いつの間にか寝ちゃってたんですね。あ、毛布」

「うん、熟睡してたよ。疲れてたんだね、白雪さん」

「い、いびきかいてませんでした?」

 やっぱり女子はいびきを気にするんだな。でも白雪さんのいびきだったら、僕はヒーリングミュージックの如く癒やされる自信がある。

「ううん、いびきはかいてなかったよ。すーすー気持ち良さそうに寝息を立ててた。白雪さんの寝顔、可愛いかったよ」

「ね、寝顔まで見られちゃったんですね。恥ずかしい……」

 余程恥ずかしかったのか、赤面した頬に両手を当てた。僕は寝起きの白雪さんを眺める。そして思い出す。さっきの寝言について。

「夢、見てたでしょ? お母さんの夢」

「え? お母さんの夢ですか? な、なんでですか?」

 子犬のように、そして不思議そうにして小首を傾げた。

「寝言でそう言ってたから」

「ね、寝言!? わ、私、寝言言ってたんですか!? ど、どんな!?」

「離れたくないとか、ずっと一緒にいたいとか。きっと、お母さんと離れ離れになったときの夢を見てたんだなって思って」

「あ……」

 白雪さんは表情を強張らせ、僕から視線を逸らす。だけれど、それは一瞬だけ。すぐにいつもの白雪さんスマイルに戻った。

「そ、そうなんですよ。私たまに見ちゃうんですよね、お母さんの夢。寝言聞かれちゃったなんて恥ずかしなぁ、あはは」

 言って、彼女は笑いながら頭を掻いた。

 そりゃそうだ。白雪さんはもう一年以上もお母さんと離れ離れなんだ。寂しいに決まっている。『離れたくない』というあの寝言は、お母さんが急にいなくなってしまった時の、悲痛な胸の内だったのだろう。

 もし白雪さんがプロになれたとしよう。果たしてお母さんは、ちゃんとその漫画を描いたのが自分の娘だと気付いてくれるのだろうか。だから僕は念の為、白雪さんのペンネームに『うらら』という名前を残したんだ。

 いくら蒸発したからとは言え、娘の名前を忘れることなんてないだろう、と。

「ひ、響さん。今日は私、もう帰りますね」

 言うが早いか、白雪さんはやたらせかせかとリュックの中に私物を詰め込んで帰り支度を始めた。時間はまだ夜十時。普段ならもっと遅い時間までウチにいるのに。

「いつもより帰るのがやたら早いね。それにまだ寝起きでボーッとしてるだろうから、もう少しゆっくりしていけばいいのに」

「い、いいんです。たまには早く帰らないと。それに、響さんもお仕事でお疲れでしょうから。今日は一人きりでゆっくり休んでください」

 僕のことを常に気遣ってくれるのはありがたいのだけれど、僕はもっと白雪さんと一緒にお喋りをしたかったけれど。彼女と一緒にいると、本当に楽しいんだ。

「そ、それじゃ響さん、また明日!」

「ちょ、ちょっと待って白雪さん!」

「え? な、なんでしょうか」

 僕は慌てて呼び止めた。原稿がコタツの上に置きっぱなしになっていたから。

「あ、あわわわ! す、すみません!」

 白雪さんは慌てて原稿を集め、それを焦りながらハードケースファイルにしまい込んだ。一体どうしたんだ? いつも肌身離さない、命よりも大切な原稿を忘れて行くなんて。何か、違和感を覚える

「お、お邪魔しました!!」

 そして、白雪さんは一礼した後、ピューッと帰っていってしまった。

 やっぱりおかしい。寝言の話をしてから、いつもの白雪さんの様子とだいぶ違う。やたら焦っているというか、今すぐにこの場から逃げ出したがっているというか、そんな感じを受けてしまった。

 何かが引っかかる。白雪さんが見ていた夢。そして寝言。あれはお母さんに対してのものではなかったのだろうか。本当は全く違う夢を見ていたのでは……。

 僕の杞憂であってくれればいいのだけれど。

 *   *   *

 次の日。

 仕事を終えてアパートに帰ると、白雪さんは僕の家にいてくれた。そして、いつものように「お帰りなさい」と言って、笑顔で僕を出迎えてくれた。良かった、いつも通りの白雪さんだ。僕の心に引っかかっていたものがようやく解けた。やっぱり、ただの杞憂だったんだなと、自分で自分を納得させる。

 夕食を済ませた後、僕達は色んなことで笑い合い、冗談を飛ばし合い、ちょっとケンカみたいに言い合ったり、そして真面目に漫画談義などをして過ごした。

 いつもと変わらない、幸せな日常。

 いつまでもこの時間が続けばいいのに。

 できることなら、ずっと一緒にいたい。
 ずっと、ずっと。永遠に。

 *   *   *

 そして、あれから数日が経った。やって来た、面接日が。

 僕は着慣れないスーツを纏い、東京まで出た。やっぱり、かなり緊張するな。当たり前か。僕の人生にとって、これが分岐点になるかもしれないのだ。緊張するなという方が難しい。まあ、落ちる覚悟もしておこう。

 が、しかし。
 この面接は、僕の想像とは全く違う結果となるのであった。

 *   *   *

「え? さ、採用ですか?」

 通された、会社の応接室。

 テーブルを挟んだ向こう側には、年齢は五十才を超えているであろう初老の男性がいた。髪を茶色に染めたりとかなり若作りはしているけど、目尻の皺やほうれい線の深さから大体の年齢は分かる。

 その男性――三木(みき)社長は言ったのだ。
 僕にぜひ、我社で働いてほしいのだと。

「そうそう、採用。履歴書と職務経歴書を見た時点で、私は響くんのことを採用しようと決めていたんだ。でも一応、こうして面接という形を取らせてもらった次第でね。会ってみなきゃ分からないこともあるからさ」

 かなり気さくで、かなりフランクな印象を受ける三木社長は、大きなお腹をさすりながらそう言って笑った。即日の採用だって? さすがに我が耳を疑った。もしかしたら、聞き間違いではないのかと。

「で、でも、どうして僕をそんなに高く買ってくださったんですか? 自分で言うのもなんですが、大した経歴でもないと思うんですけど……」

「職務経歴書を拝見したんだけど、響くんってあの漫画、『アルティメット煩悩』を担当してたんだよね? 私はあの作品の大ファンなんだよね」

「そ、そうなんですか!?」

 まさかのまさかだ。退職時に作家さんは全て引き継いでしまったせいで、僕は手持ちの作家が一人もいなかった。だからかなり不利な面接になるだろうと覚悟をしていたのだけれど、まさか社長が僕の編集した漫画のファンだったなんて。

「あれだけの漫画を編集してきた経験があるんだ。能力は非常に高いと思っている。私は響くんを即戦力として見ているよ。ちなみに、いつから来られる? ちょうどこの前、漫画の編集担当が辞めてしまってね。だから今すぐにでもウチで働いてほしいんだけど、どうかな?」

「あ、えーっと、私はまだ在職中でして今すぐは……。でも、来年からなら!」

「そうか、それじゃ仕方がないな。それに、ちょうど今は年末進行の真っ最中だからさ。入社していきなり修羅場っていうのも酷な話だしね。なら入社日は改めて、これからお互いで調整していこう」

「あ、あの、もう一度確認させてください。私の採用は決定でいいんです、よね?」

「うん、そうだよ? 採用決定。ぜひ、ウチの一員として働いてもらいたい」

 本当かよ!! 夢じゃないのか!? いくら編プロとはいえ、即決とは。

「それともあれかな。響くんはあんまり乗り気じゃないとか?」

「そ、そんなこと! 滅相もございません! この響政宗、身を粉にして貴社の利益に貢献できるよう、精進してまいります!」

「はっはっは! 期待してるよ、響くん」

 僕は席を立ち、深く一礼した。
 そして最後に大きな声で伝える。
 感謝の気持ちと、僕のヤル気の全てを込めて。

「ありがとうございます!!!!」

 *   *   *

「失礼しました!」

 パタンと応接室のドアを閉める。そしてエレベーターで一階まで降り、外に出た。冬の日差しが眩しい。

 そして僕は駅に向かって歩く。冷静に、冷静に。そう自分の気持ちを落ち着けながら、歩く。でも、無理だった。途中で僕は足を止め、そして腕を突き上げてガッツポーズをしながら空に向かって叫んだ。

 周囲の目なんか、今は気にしない。
 僕は湧き上がる全ての感情を、一気に解放したのだった。

「白雪さーーん!!! やったよ、即採用だよーー!!!! ついに僕、漫画編集者に復帰が決まったんだ!! 今すぐ帰るから待っててね!! ヒャッホーーウ!!」


 『第29話 まさかのまさか』
 終わり

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