第28話 白雪さんの寝言
少しずつ、僕の心の中が変化していくのを如実に感じる。まさか、また出版業界に戻ることしただなんて。自分でもちょっとビックリしているくらいだ。そして、この変化は白雪さんがいてくれたかたからこそ。
いつの間にか、白雪さんの存在は僕にとって、とても大きくなっている。
「は、早く新しい職場が決まってくれないと、体が持たない……」
いつもの肉体労働の仕事が終わって、アパートに帰る途中の僕である。ゾンビ化しながら。死んだ魚の目をしながら。これはもう、お決まりのようなものだ。
転職活動と並行しての労働は、思っていた以上に疲れる。面接がひとつ決まったとはいえ、まだどうなるかは分からない。ある意味、未知数。なので、どんどん履歴書なりを作って送らねばならない。
疲れてはいる。けれど、でも充実感はあった。それもこれも、全ては白雪さんのおかげだ。彼女は今頃、僕のアパートで必死に原稿を描いていることだろう。コタツで寝ていなければね。でも、そっちの方が頑張りすぎていた頃よりもずっと良い。
「ふう……ただいまー」
「あ、響さん! お帰りなさーい!」
アパートに着いて玄関を開けると、とたとたと、ニコニコ笑顔でコチラまで出迎えてくれた。いつもよりも、テンション高く。
「どうしたの白雪さん? なんか良いことでもあった?」
「んふふー、分かります? 今日はなんか原稿の調子がすごく良いんです。なんでだか分からないけど、なんか漫画の神様が私に舞い降りてきたって感じです」
「おお、それは良かった。そっかあ、神様が降りてきたか」
「はい! それはもうたくさん!」
この現象、漫画家なら誰でも一度は経験したことがあるはずだ。不思議なこともあるもので、急に筆の進み具合が速くなることがある。
でもね白雪さん、漫画の神様ってそんなにたくさん降りてくるものじゃないと思うよ? 一人だと思うよ? まあ神様の世界も分業制が進んでいたり、シフト制だったりするかもしれないから、それなりに人材は確保してるのかもしれないけど。
うん、考えるのはやめよう。なんだかご利益がなくなりそうだ。
ちなみに。原稿を描き始めた当初、白雪さんは鬼気迫る感じで筆を走らせていたわけだけれど、その理由について。それは漫画のラストシーンにあったのだ。
どうやら白雪さん、ラストはクリスマスを舞台にしてネームを切っていたらしい。それで勝手に、クリスマスまでに原稿を完成させるのだと、自分で自分の締め切りを設けていたのだとか。白雪さん、本当に真面目な子。
それに、ここにきて、白雪さんは描くスピードが一気にアップしていた。Gペンの使い方のコツを掴んできたらしい。最初はあまりにも悩み込んでいたから、僕は代替案として他のペンを勧めたのだけれど、一蹴された。『漫画を描くといったらGペンじゃないですか!』と。彼女なりのこだわりだったみたいだ。
でも、白雪さんは進化した。努力の賜物意外の何ものでもない。
だけど、少し気になることが。白雪さんはラスト4ページのネームを頑なに僕に見せようとしないのだ。まだ悩んでいるからと言っていたけれど、本当だろうか。結構な日数が経っているので、もう描き終えているはずなんだけれど。
それが、僕はちょっと引っかかっていた。
* * *
「「いただきまーす」」
今日の晩ご飯は、白雪さん特製のシチューだ。大きなジャガイモがごろごろしていて、とても家庭的な味がする。あー、なんて美味しいんだ。
「やっぱり寒い日はシチューに限るね」
「ほんとですね。コタツでぬくぬくしながら食べるシチューは格別です。あ、おかわりたくさんあるのでいっぱい食べてくださいね」
そう言って白雪さんは美味しそうに、口いっぱいにシチューを頬張った。白雪さんが食べるところを見てるだけで、僕は幸福感でお腹いっぱいだ。
「白雪さんにはいくら感謝しても足りないくらいだよ。こんなに美味しい晩ご飯を毎日作ってくれて、本当にありがとうね」
「と、とんでもないです。こちらこそ、い、いつもありがとうございます」
僕の言葉に照れてしまったみたいで、頬っぺたが真っ赤っか。本当に照れ屋さんだな、白雪さんって。でも、それがいい。そこがまた白雪さんの可愛いところであり、魅力である。まさに救いの女神様。
「そ、そういえば響さん。もう少しで面接ですね」
照れ隠しなのか、白雪さんは話題をすり替えた。しかし、そうなのだ。僕の人生が一変するかもしれない面接が、もう目の前まで来ていた。
「そうだね、なんとかして受かりたいよ。難しいかもしれないけどね」
「きっと大丈夫ですよ、信じましょう。響さんがまた漫画の編集に携われることを、私は願ってます。面接、頑張ってください。心の中で応援してます」
「受かったらお祝いしてね」
「もちろんです! 盛大にお祝いしましょう! パーティーしましょう! 響さん採用おめでとうパーティーです。私が腕を振るってご馳走をたくさん作りますから」
白雪さんは腕まくりをして、真っ白で細い腕にぐっと力を込めた。白雪さんのご馳走か、食べたいなあ。こりゃ是が非でも受からなきゃいけない。
「じゃあさ、白雪さん。そのときはたくさんウインナー焼いてね」
「あははっ、響さんってほんとウインナー大好きですよね。お子ちゃまだなあ」
「それは僕のセリフだ、お子ちゃまの十七才め」
「ぶー、響さんの意地悪。十七才はもう大人です。来年はもう成人なんですからね。そしたら結婚だってできちゃうんですから」
ぷくりと頬を膨らませてる白雪さんだけれど、でもそうか。白雪さんは来年成人するんだ。そしたらお子ちゃま扱いもできなくなるな。
しかし結婚、か。
白雪さんは将来、どんな人と結婚するんだろうな。チクショウ、まだ見ぬそのお相手に嫉妬してしまう。こんなに可愛い天使と結婚できるだなんて、羨ましすぎる。こちとら二十七才になっても童貞だというのに。一体、僕は前世でどれだけ業が深かったんだよ。……違うか。ただ僕がヘタレな上に、イケメンじゃないからか。
それにしても。白雪さんのウエディングドレス姿、とっても綺麗だろうな。
* * *
「白雪さん? 白雪さーん?」
食事を終え、片付けを済ませたところで、白雪さんは再度原稿に取り掛かった。
だけれど、数分もしない内に白雪さんは原稿に向かいながらゆらゆら船を漕ぎだした。そしてぱたんとコタツに突っ伏して、そのまま寝てしまったのである。まるで電池が切れてしまったように。
「よっぽど疲れてるんだな。頑張り過ぎだよ、白雪さん」
「すーすー」と気持ちよさそうな寝息を聞きながら、僕は寝室に行って毛布を持ってくる。それを彼女に掛けてあげた。少しだけ、眠らせてあげよう。一時間もすれば目を覚ますだろうし、それなら帰りもさほど遅くならないで済む。
それにしても、白雪さんの寝顔って可愛いな。ずっと見ていても飽きない。それどころか、動画を撮ってしまいたくなる。いや、さすがにそれはデリカシーがなすぎるからちゃんと自重するけれど。
熟睡中の白雪さんに、僕は顔を近付ける。そして間近でまじまじと見た。あどけなさが残る顔立ちの中に、どこか大人の色っぽさを感じる。今の白雪さんは、大人の階段を上っている最中なのだろう。
僕は彼女を起こさないように気を付けながら、その寝顔を見守った。自然と顔がニヤけてくる。やっぱり動画撮ってしまおうかな。
「え!? し、白雪さん!?」
白雪さんは寝ぼけているらしく、すぐ隣にいた僕にガバッと抱きついてきた。そして口を「むにゃむにゃ」とさせる。こ、コラ、白雪さん! 僕は抱きまくらじゃありません! 急に抱きついてきたらビックリするじゃないか。
「うーん、どうしようかな……」
身動きが取れない。というか、ちょっとドキドキしている僕がいる。当たり前だ。こんなに可愛い女子高生に抱きつかれて平然としていられる男なんていないだろう。
抱きついてくる彼女の体温。それが優しく、体いっぱいに伝わってきた。
「……むにゃ」
小さく、何か寝言を言っている。聞いてはいけないと思いつつも、僕は彼女の声に耳を傾けた。白雪さんは今、どんな夢を見ているのだろう。幸せな夢だといいな。
しかし、違った。
彼女が見ていたのは、幸せな夢ではない。
「ごめんなさい」
ハッキリとした、白雪さんの寝言。
寝ぼけたまま、彼女はギュッと僕の体を抱きしめる。
「離れたくない……」
彼女の寝言は、とても悲しい色をしていた。
「白雪、さん」
「嫌だよぅ。ずっと一緒にいたいよぅ……」
一筋の涙が、彼女の頬をつたった。
その涙の意味に。寝言の意味に。
この時の僕は気付いてあげられなかった。
『第28話 白雪さんの寝言』
終わり