バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

第伍章「伊能の本懐」ノ陸

【Side 暗殺ギルドの首領】

 伊能の滑落から数十分後。【探査】の異能で伊能の気配を探っていた首領は、ついに森の中をさまよい歩く少女の反応を見つけた。【飛翔】の異能で夜空を舞い、伊能の目の前に降り立つ。

「やっと見つけたわ」

「ひっ」伊能が恐怖に顔を引きつらせ、森の奥へと走り出す。

「ずいぶんと流されたみたいね」

 悠然と追いかけながら、伊能を観察する。少女は生きているのが不思議なくらいの有り様で、全身ボロボロ、月明かりでも分かるほど服は血で滲んでおり、手指なども血まみれだ。

「水底に沈んでなくて、本当に良かった。異能を使えば見つけられないこともないのだけれど、水死体は不味いのよ」

 特に右ふくらはぎには深刻な裂傷を負っているため、右足を引きずるようにして走っている。

「諦めなさい。逃げ切れるわけがないでしょうに。【インビジブル・ブレード】!」

 伊能に向かって、首領は十本の見えない刃を放つ。だが、いったいぜんたいどういう原理なのか、刃は伊能に当たらない。ここしかない、という絶妙なタイミングで、伊能が避けるのだ。

(本当、不思議な子ねぇ)もう一度、「【インビジブル・ブレード】!」

 やはり当たらない。【俊足】や【見切り】のような回避系の異能を持っているわけでもない。歳の割には健脚のようだが、常人に比べて優れた身体能力を有しているわけでもない。しかも、満身創痍。なのに、伊能は見えない刃を避けるのだ。

(【鑑定】――ううん、やっぱりあの子、【測量】しか持っていないわね。もっともっといたぶって、アナタの異能の底を明らかにしてあげる。私をもっと楽しませてちょうだい)

 そう、首領は今、伊能との戦いを――『狩り』を楽しんでいる。
 首領が他人に正体を明かす機会は少ない。こうやって、思う存分力を振るう機会に恵まれない。しかも、普段は無能な子供たち――暗殺ギルド員たちに足蹴にされているため、ストレスを溜めがちなのだ。【無痛】や【治癒】、【外傷偽装】の異能があるため、痛みはない。が、不満は否応なく溜まるものだ。

(本当、底の見えない子――いえ、老人ね。あんななりして、七十過ぎの老人の記憶を持っていた。飼って調べてみたいけど、やっぱりここで殺さないと。屠殺しないと、お肉にはできないもの。ま、今は戦いに集中しましょう。せっかくの機会。存分に楽しまないと)

 楽しむために、首領は手加減している。

「【インビジブル・ブレード】!」

 わざわざ口に出して詠唱するのも、刃を十本までしか出さないのも、すべては伊能をうっかり殺してしまわないように気を付けているからだ。
 とはいえ。首領の手加減を差し置いても、伊能の回避能力と生存力は異常と言うほかない。上級貴族家の精鋭騎士を一瞬でサイコロステーキに変えてしまうほどの【インビジブル・ブレード】を、冗談のようにひょいひょいと避け続ける。【地獄級魔術】の直撃を受けても死なない。果ては、空高く放り投げられても生き延びるなどとは。

(欲しい。ますます欲しい! 早くその肉を食べさせてちょうだい!)

 追い立てられる子羊のように、伊能が森の奥へ奥へと走っていく。

「もう、怖い思いも痛い思いもしなくていいのよ。早く肉になって頂戴。あんまり長時間ストレスにさらされると、肉が不味くなっちゃう」

 鬱蒼とした森の果て。
 左右を深い森に囲まれ、正面を高くそそり立つ岩壁で塞がれてしまった天然の袋小路で、伊能が立ち止まった。奇妙なほど落ち着いた表情で、伊能が振り向く。

「ようやく、お肉になる気になったのかしら?」

 伊能が、何事かをぶつぶつと呟いている。

「可哀想に、恐怖のあまりおかしくなってしまったのね。終わりにしてあげる。【インビジブル――」

 その時。
 その時、伊能が小石を蹴り飛ばした。深い森の中へ向かって。

(…………?)首領は警戒する。(たまたま、つま先が当たったというふうではない。あの子は今、意図的に小石を蹴り飛ばした。何だ? 何をしようとしている?)

 相手は、今まで数々の奇跡を起こしてきた男だ。警戒した首領の、攻撃の手が止まる。目を凝らし、耳を澄ますこと、数秒。
 やがて、
 ――ブヲォォオオオオオッ!
 森の中から体高三メートルのイノシシ――ビッグボアが現れた! 首領を目がけて一直線に突進してくる!

(なっ――)

 予想外の事態に戸惑いつつも、首領は冷静に対処する。【インビジブル・ブレード】によって、ビッグボアは瞬く間にサイコロステーキになった。
 ビッグボアだった肉片が地面に広がりつつある中で、伊能が再び小石を蹴った。すると今度は、
 ――ブモォォオオ!
 ――ブヒッ、ブヒヒィィィッ!
 森の中からオークの集団が現れた。彼らは一様に、殺気だった様子だ。

(これも、伊能がやったというの!? 【使役】!)

 それら二足歩行の魔物たちに向かって、首領の手から光り輝く鎖が放たれる。鎖が首に絡まった個体は大人しくなり、首領に対してひざまずいた。
【魔物使い】の本来の所持者であった屍天王モンストルと違い、首領は一度に二本までしか鎖を出すことができない。加えて、何か一つの異能を発動させている間は、別の異能を使うことができない。
 オークは十数体ほど。首領はそのすべてを支配下に収めるのに、少し戸惑う。とはいえ、そこは歴戦の首領。異能の力を借りずとも、素の身体能力でオークたちの攻撃を避け、オークたちの首に次々と鎖を付けていく。

(伊能は? 伊能はどこで何をやっている!?)

 見れば、オークたちから逃れるように距離を取っていた伊能が、再び小石を蹴り飛ばすところだった。

(今度は何? 何をするつもりなの!?)ようやくすべてのオークを【使役】の影響下に置いた首領は、神経を左右の森に集中させる。(……? 何も出てこないじゃない。はったり? ビッグボアとオークはただの偶然?)

 首領の警戒が緩んだ、次の瞬間。
 ――ギャギャギャギャギャッ!
 空から、ワイバーンが降ってきた! 首領に襲い掛かってくる!

(何なの、いったい何なのよ!? コイツも伊能が呼び寄せたの!? おかしいおかしいおかしい! 伊能には【魔物使い】の異能はないはず!)

 首領はワイバーンにも【使役】の鎖を掛けようとするが、相手がすばしっこく空を駆け回るため、上手くいかない。ようやく鎖を首に掛けることができたかと思ったら、相手がシャウトした瞬間に鎖を切られてしまう。
 モンストルならば、たやすく【使役】することができたのだろうが、あいにくと首領は【魔物使い】にまだまだ不慣れだ。何しろ、モンストルの屍肉を喰らってから未だ一日も経っていない。異能を消化しきれていないのだ。
 首領がワイバーンを相手に悪戦苦闘していると、異能が、今度はかなり大きめの石を蹴り飛ばした。

(今度は何!?)

 数秒後、
 ――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴオオオオオッ!!
 頭上から、音。
 見上げると、そびえ立つ崖の上から、巨大な岩石が落下しつつあるのが見えた。それも、一つや二つではない。視界を覆い尽くすほどの量の岩石が、首領を目がけて落下してくる!

「何ぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!?」


   ◆   ◇   ◆   ◇


(【ばたふらい・えふぇくと】!)

 暗殺ギルドの首領がワイバーンを相手に悪戦苦闘しているその隙に、伊能は【暦】から派生した異能【バタフライ・エフェクト】を発動させる。
 伊能はすでに、この森のあらゆる有機物・無機物の暦(巻物)を脳内に収納済みだ。屍天王【魔物使い】の呪縛から解かれて森に戻りつつある多数の魔物や野生動物、何百何千本の木々、無数の草花、大地に敷き詰められた土の一粒ひとつぶにいたるまで、あらゆる対象の【暦】が、伊能の脳内でシミュレートされている。
 伊能は、足元の小石を蹴り飛ばした場合の未来を想像する。すると伊能の脳内に収納された無数の対象の【暦】が『小石が蹴り飛ばされた場合の未来』の形で『改暦』され、『伊能が小石を蹴った場合の未来』を見せてくれる。
 ただ、対象を見て想像しただけで、その先の未来が見える――それが、それこそが【バタフライ・エフェクト】の能力。【空間支配】による未来予測を超えた、仮説に基づく無数の未来をも支配下に置ける絶対的空間支配能力。

 異能が小石を蹴り飛ばす。
 森に入った石が一本の木にぶつかり、枝に止まっていたリスを脅かす。
 飛び降りたリスに蛇が襲いかかる。
 蛇に気付いたサンダーバードが上空から急降下して蛇を捕食する。
 再び上空へ舞い上がったサンダーバードだが、蛇を加えているため動きが鈍くなり、地上から狙っていたオーガの矢に射抜かれる。
 サンダーバードの落下地点が森の外だった。サンダーバードを拾うために森を出てきたオーガが、暗殺ギルドの首領と鉢合わせする――。
 そういう未来だ。最初は小石。だが、小さな小石はじょじょに大きな変化を巻き起こしていく。これが、【バタフライ・エフェクト】だ。小石の蹴り方を変えることで、あるいは別の石を選択することで、得られる結果は変わる。森のあらゆるすべての【暦】を掌握した伊能は、求める結果を得るまで無数のシミュレートを試みることができるのだ。
 だが、この小石を蹴り飛ばした場合の未来では、伊能が望むほどの未来は得られなかった。

(一体、ニ体の魔物を呼び寄せる程度の攻撃では話にならぬ。ならばこの、こぶし大の石ならば?)

 そう考えた瞬間、そうした場合の未来像が次々と伊能の脳内に浮かんでいく。
 伊能が大きめの石を蹴り飛ばす。
 石は暗殺ギルドの首領が従えるオークの集団の只中へ放り込まれる。
 石を踏んだオークの一体が、よろめく。
 そのオークが携えていた手斧が、隣にいたオークの腕を傷付ける。
 逆上した隣のオークが、シャウト。
 シャウトに含まれる高音域の耳障りな音を嫌ったワイバーンが今以上に興奮し、ワイバーンの固有異能である【ワイバーン・トルネード】を行使。
 多数のオークが巻き上げられるが、首領は難なく避ける。
 が、

(これじゃ。これが良い)

 狙いは【ワイバーン・トルネード】自体ではない。【ワイバーン・トルネード】によって崖の上の地盤が刺激され、かねてより緩くなっていた地盤に亀裂が入り、極大の落石が発生する。首領は下敷きに。
 そこまで読み切った伊能は、駆け出す。伊能の【バタフライ・エフェクト】が見せたのは、コンマ数秒にも満たない圧縮情報。伊能が石を蹴るべきタイミングはもはや数秒後に迫っている。他にもより良い未来があるかも知れないが、計三十一通りの未来を試みた中でこれが最良の結果だったのだ。

(今じゃ!)

 伊能は石を蹴る。【空間支配】に完璧な力量・入射角を計算してもらった伊能は、【空間支配】の指示どおりに蹴る。果たして、
 ――プギャッ!?
 石につまずくオーク。
 ――ブプ!? ブモォオオオオオオオオオオオオオオオオッ!
 つまずいたオークの剣で腕を傷付けられた隣のオークが、逆上してシャウト。そして、
 ――ギャギャギャギャギャッ!
 その音を嫌ったワイバーンが空高く舞い上がり、【ワイバーン・トルネード】を放った!
 すべて、予定どおり。【バタフライ・エフェクト】が見せたものと全く同じ光景が再現され、数秒後には、
 ――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴオオオオオッ!!
 極大の落石が首領目がけて降り注ぐ!
 首領が瞠目する中、伊能はさっさと距離を取る。果たして、首領が何百個もの極大落石の下敷きになった。
 伊能の【暦】と【バタフライ・エフェクト】は、未来を読み切る。未来を読むということは、呼んだ対象の行動を完璧に予知し、コントロール可能ということだ。非戦闘異能だとか戦闘向き異能だとか、そういう低い次元の話ではない。未来を完全に支配する究極の異能である。

(倒せたかのぅ!? 【測量】!)

 伊能は山のように積み上げられた落石の中を異能で調べ、首領の位置を特定。さらに、

「【暦】!」

 唱えると、首領の暦が記された巻物が出てきた。脳内で巻物を紐解くと、首領が数秒後に動き出し、【怪力】で岩をどかそうとしはじめる未来が視えた。未来が視えたということは、つまり生きているということだ。
 そう。伊能はついに覚悟を決め、明確に、殺すつもりで岩を落としたのだ。だというのに。あれほどの落石でも死なないとは、これも六六六この異能の力なのだろうか。

「む、いかん!」

 強烈な未来を視た伊能は、今や生物・無生物のすべての情報を掌握し、完全無欠のホームグラウンドとなった森の中へと駆け込む。
 その直後――


   ◆   ◇   ◆   ◇


【Side 暗殺ギルドの首領】

「【第二地獄暴風(ミーノース)】!」

 詠唱とともに発動した極大の風が、無数の岩を四方八方へと吹き飛ばした。

「ふーっ、ふーっ」怒りで青筋を立てながら、首領は岩の中から這い出す。「どこ!? どこへ行きやがったの!? 【探査】!」

 異能で周囲の反応を洗うと、伊能が森の中に潜んでいることが分かった。

「どんな手品を使ったのか知らないけど、全部吹き飛ばしてしまえばいいのよ!」【地獄級魔術】の詠唱を口早に唱えた首領は、「【第七地獄火炎(プレゲトン)】!」

 目の前のすべてに向けて、地獄の業火を解き放った。
 炎。あまりにも巨大な、火炎。それも、赤い炎ではない。青。あまりにも美しい、一万度を超えた青の炎だ。岩山も、一緒に下敷きになっていたオークたちも、中空を旋回していたワイバーンも、伊能が潜んでいる森の木々も、森の中に潜む多数の魔物や動物たちも、すべてがすべて、蒸発した。

(あーあ、やっちゃった。あの子の【測量】、欲しかったのに。……おや?)

 更地と化した元・森の中から、何人かの人型の姿が現れた。みな一様に、光の壁――【結界】の異能を発動させている。ゴブリン・メイジやオーク・メイジ、オーガ・メイジなど、知能を持つ魔物の中には【結界】持ちの個体も多いのだ。
【プレゲトン】の爆炎を生き延びた魔物たちだったが、【結界】を解いた途端、胸を掻きむしって死んでいく。極大の爆炎が大量の空気を消費し尽くして、一時的に真空状態にあるからだ。肺を破裂させた魔物たちが、倒れ伏していく。
 運良く【結界】を維持していた者たちがいた。三人組のオーク・メイジ。だが、【結界】 の維持に限界が訪れた途端、溺れるような仕草とともに倒れた。あれは事実、溺れている。あまりにも巨大な燃焼によって、周囲一体の酸素が消費され尽くしたからだ。
 オーク・メイジたちの陰から、伊能が現れた。辛うじて立っている。が、呼吸ができずに苦しんでいるようだ。

(ツイてるわね。これで、伊能の肉にありつける)首領は腕を振り上げる。【インビジブル・ブレード】の予備動作だ。「死ね!」


   ◆   ◇   ◆   ◇


【バタフライ・エフェクト】でオーク・メイジを誘導したところまでは良かった。オーク・メイジたちに【結界】を使わせることで、伊能は蒸発せずに済んだ。が、そこまでだった。

「死ね!」首領が腕を振り上げた。

(【空間支配】!)

 数秒後の未来――視えない刃が斬った、その結果が視える。細切れになる自分の姿が。
 と同時に、その未来を回避するための最適なルート、理想的な体の動かし方を【空間支配】が教えてくれる。が、

(ダメじゃ、体が動かぬ)

 無理に無理を重ねて足腰が限界を迎えた、ということもある。が、もっともっと単純な理由として、

(息ができぬ!)

 酸素がないのだ。酸素がなければ呼吸ができない。呼吸できなければ力が出ない。力を出せなければ体が動かせない。
 自分が細切れになる未来は、刻一刻と近付いてきつつある。

(動け動け動けワシ!)

 ダメだ、指一本動きそうになり。
 霞む視界の向こうで、首領が腕を振り下ろそうとしている。見えない刃を放とうとしている!

(まだ死ねぬ! こんなところで、こんなところで――!)

しおり