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第伍章「伊能の本懐」ノ伍

 星を見上げるのが好きな子供だった。貧しい漁師の家の出だ。望遠鏡など、買えようはずもない。ただ、三郎右衛門は暇さえあれば屋根に上がり、星を眺めていた。
 十八歳で伊能家に婿入りし、若くして家を任され、村を任され、忙殺される日々の中でも、星に対する憧れだけは忘れられなかった。五十歳を過ぎ、ようやくお上から隠居を許された伊能は、その足で天文方の高橋至時に弟子入りした。夢にまで見た天文学を学ぶ傍ら、伊能は長年考え続けてきたテーマに思いを馳せた。
 それは、それこそが、

『地球の大きさを測ること』

 だった。
 そもそも、伊能の専門は『測量』ではなく、『天文学』と『暦学』である。伊能は、当時の公認暦である『宝暦暦(一七五四年作成)』が日食・月食の予測を度々外していることに、たいそう不満を感じていた。
 星の動きは、暦の働き。星の、より正確な動きを知ることで、より精密な暦をくみ上げることができる。だが、星の動きとは、星同士の動きである。『同士』というからには、自分が今、立っている、この星――地球について、もっとよく知らねばならない。そのもっともたるものが、『地球の大きさ』だった。
 地球の大きさが定かにならなければ、日本各地の緯度経度を知ることができない。己が住む星の、土地の緯度経度も分からずして、どうして正確な星同士の働きが導き出せようか。
 伊能は、『地球の大きさ』を測ることに血道を上げていた。その手法は、伊能がメイド服の女に語ったとおりである。つまり、北辰――北極星の見える角度が一度変わる地点を見つけ出す。そして、その二地点間の距離を測る。そして、その距離を三六〇倍する。さすれば、地球の円周が求められるというわけだ。

 だが、『言うは易し』とはまさにこのことであった。当時の日本では、勝手な旅行は幕府によって禁じられていた。ましてや測量など、万死に値する大罪である。では、どうするのか。目の前に転がる夢を、大望を、指を咥えて見ていることしかできないのか。
 伊能とて、できることはすべてやった。まず、定年退職をお上から勝ち取ったその足で、天文方に弟子入りすべく突撃した。応対したのは、二十歳近くも年下の天文方お役人・高橋至時。歳の差など、年齢など、関係なかった。伊能は平身低頭、誠心誠意願い出た。
 当の高橋至時は伊能の熱意と、人柄と、何より当時の暦学の権威であるお役所・天文方をすら揺るがすほどの伊能の知識量に惚れ込んだ。高橋至時は身分差を超えて、伊能を弟子としつつ、兄とすら慕うようになった。
 次に、隠居先である深川の自宅に天文方をも瞠目させるほどの巨大な測量施設を建て、毎日星を観た。だが、深川の自宅と佐原村では距離が近すぎて、ろくなサンプルを取ることができなかった。もっと、もっと遠くまで足を伸ばして、距離と北辰の角度の違いを観たい。

 その願いは、実に意外なことがきっかけで叶うことになった。それが、帝政ロシアの南下政策である。不凍港を持たず、大航海時代に出遅れたロシアは、永らく凍らない港を欲し続けてきた歴史を持つ。
 一七〇〇年・大北方戦争、
 一八五三年・クリミア戦争、
 一八七七年・露土戦争、
 一七八七年・第二次露土戦争、
 一九〇四年・日露戦争。
 すべて、ロシアの南下政策が原因・遠因となって起こった出来事だ。
 東欧方面での戦争の中にぽつりと『日露戦争』が紛れ込んでいるとおり、ロシアは東アジアにおいても凍らない港を探し求めていた。遼東半島、朝鮮半島、そして北海道。当時は『蝦夷』と呼ばれるその地をロシアがしきりに測量し、領有権を主張しはじめたのが、伊能が生きる江戸時代後期のことだった。
 ロシアに対抗し、蝦夷を測量・地図化・実効支配するために、幕府が蝦夷地の測量をやれる人材を探していた。伊能は飛びついた。
『幕府のお墨付き』という最強のカードを手に入れた伊能は、一八〇〇年、第一次測量の旅に出た。以来十六年間。死の前年に至るまで、伊能は文字どおり生涯を測量に捧げた。

(そうじゃった。儂にとって測量とは、地球の大きさを測るための『手段』じゃった)

 伊能の意識は、濁流の中をさまよっている。さまよいながら、伊能は己の後半生を走馬灯のように思い出していた。

(それが、十数年もの旅が楽しくて、つらくて、それでもやはり楽しくて、手段と目的が入れ替わってしまっておった)

 走馬灯の最後。死に際のミチが、愛おし気に伊能を見つめ、そして言った。

「アナタはもう十分に頑張ったのだから。アナタは生きて、アナタの成したいことを成してください」


   ◆   ◇   ◆   ◇


 気が付くと、伊能は崖の下の河辺に倒れていた。水を吐き、立ち上がる。震えている。今や全身傷だらけで、生きているのが不思議なほどの有り様だった。

(『うぃんどう・おーぷん』)ウィンドウの片隅に表示されている数字を睨みながら、震える脚で、一歩、二歩、三歩と歩きはじめる。(もう少し……もう少しのはずなのじゃ)
 さらにもう一歩を踏みしめた、その時。




 ――ポロロン♪




 場違いに軽快な音とともに、ウィンドウに『実績解除』という文字が表示された。

『一、六〇〇キロメートル歩く:達成』
『エレクトラユニーク異能【測量】が進化』
『神階正四位、タダタカ・イノーのレジェンドユニーク異能【暦】を解放』

「暦、か。はは、あはは」

 これが、これこそが、伊能が走り続けた理由。暗殺ギルドの首領から逃げながら、距離を稼ぎ続けた理由。伊能が運命を託した『一縷の望み』、『起死回生の策』だ。
 この世界に降り立った日、伊能は『十歩歩く』『十回【測量】する』などといった数々の『実績』を解放して、【測量】の性能を劇的に伸ばしていった。それらの末席に居座り、ずっとずっと今日に至るまで解除できずにいた『実績』こそが、

『一六〇〇キロメートル歩く:?????』

 だったのだ。

「暦……こよみ……実にワシらしい」

 伊能がこの世界に降り立ったその日から、ずっとずっとずーーーーっとウィンドウの片隅に表示され続けてきた【踏破距離】という数字が、ついに今、『一、六〇〇』という数字になっている。

(一六〇〇キロメートル。四〇七里余り、か。思い出した。第一回測量における北端――蝦夷のニシベツに至った時の踏破距離じゃった)

 深川・佐原村間では距離が短すぎる。もっともっと長い距離を測り、距離ごとに北辰の傾きを測り、サンプルを集める必要がある。できれば、江戸から日の本の北端である蝦夷地までの距離を調べ、蝦夷で北辰を観たい――そのために、伊能は幕府に測量士として自らを売り込んだ。
 すべては、『地球の大きさを測りたい』という悲願を達成するため。測量はあくまで『手段』だったのだ。だが、十数年にも及ぶ測量人生を通じて、いつしか『手段』が『目的』に成り代わっていた。
 もっと言えば、『地球の大きさを知る』のは『より正確な暦を作る』ための手段にすぎなかった。女神オルディナは伊能の中に永らく眠っていた願いを正確に拾い上げ、この進化系異能【暦】を授けてくれたのだろう。

(さて。肝心の【暦】の性能はどうじゃろうか? あの女はワシの異能を喰らうことに固執しておる様子じゃった。遠からず、ここまで追ってくるじゃろう。あの女に対抗し得る能力じゃと良いのじゃが)

 伊能は精神を集中させ、唱えた。

「【暦】」

 途端、周囲一体――河辺や背後の林が輝きはじめた。河、石、木々、虫。あらゆるモノの中から大小さまざまな巻物が飛び出してきて、伊能の頭に吸い込まれていく。

「これは」

 途端、伊能の脳内に巻物の持ち主たちの『暦』が展開される。この河が前回氾濫した日付、今現在の水量、数分先・数時間先の水量。とある虫の生年月日、移動予測方向、予測寿命。膨大な過去情報と、単距離完全把握測量【空間支配】を極めて高度化させた未来予知。

「これはすごい! すごいが……相変わらず、いくさ向きとはとても言えぬ性能じゃのぅ。暗殺ギルドの首領相手に勝てるのか、ワシ?」

 満を持して解放されたわりには、ずいぶんと地味な異能だ。バルムンクやカスパールや、屍天王たちのような攻撃力のある異能でもない。今、この、助けてくれる味方はおらず、六六六個の異能を持つ圧倒的強者を相手に生き延びられるような起死回生の力を持っているとはとても思えない、弱々しい異能だ。

「じゃが、実に儂らしい異能じゃ」

 自分は観測者である、と伊能は自覚している。天体観測士であり、測量士だ。この世に二つとないエクストラスキル【暦】は、伊能が数十年かけて歩んできた観測者としての人生の集大成とも言える異能。

(なぁに、異能は工夫次第じゃて)

【暦】は万物の未来を教えてくれる。例えば、目の前にある腐りかけの巨木がいつ限界を迎え、倒壊するのかを教えてくれる。目の前の河が次にいつ氾濫するのかを教えてくれる。これらの情報を使い、敵にワナを張ることが可能だろう。

(じゃが、それだけでは勝てそうもないのぅ。他に何かないか、何か――)

 伊能が何気なく河原の小石を蹴った、その時。

 ――ポロロン♪

『実績解除』
『【暦】発動中に物を動かす:達成』
『レジェンドユニーク異能【暦】の派生異能【バタフライ・エフェクト】が発現』

 次の瞬間、伊能の脳内で複数の巻物の中身が『改暦』した。

「これは!?」我知らず、伊能の口角が上がる。「勝てるやも知れん」

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