第伍章「伊能の本懐」ノ弐
「はぐっ、もぐもぐっ、はふはふっ」
いや、首を傾げるまでもなく、至極当然の話であった。遭難しているのなら腹も空いているだろうし、腹が空いているのなら腹の虫も鳴こうというもの。
(いや、それにしても)
「もぐもぐもぐもぐっ、はぐはぐっ」
(よぅ食うおなごじゃのぅ!)
伊能たちは道中で頻繁に動物を狩るので、肉には事欠かない。そして今日はバルムンクが絶不調なため、肉は伊能・カッツェ・カスパールで分担して運んでいた。つまり今日の伊能は、たくさんの肉を背負っている。それも、昨晩起こした火で作り置きしておいた肉を。だが、その肉が尽きてしまいそうなほどに、女性の食欲はすさまじかった。
「それで、いくつか聞かせていただいてもよろしいですかのぅ?」
「んぐっ!?」
「あぁ、あぁ」伊能は女性に水を差し出しながら、「食べながらで結構ですので」
「んっ。は、はい」女性が、おどおど、びくびくとした様子で頷く。
女性は目の下の隈がすごい。伊能はその隈を『遭難していたからだろう』と解釈していたが、実は違うのかも知れない。よく見ると、女性の顔や手の至る所に付いている傷は、草木で擦ったり、転んだりして付いたというよりも……。
(邪推はいかん。まずはこのおなごの話を聞くことじゃ)伊能は咳払いを一つ。女性がビクリとしたので、「相済みませぬ。それで、アナタ様はどこから来なさった?」
「えっ、ええと……」女性の目が泳ぐ。やがて観念したのか、「さ、さるお家の方から」
(やはりいずこかの貴族家――例の『五伯』とかいう家のうち、ミドガルズ家を除く四家のいずれかのようじゃな。これ以上、無理に聞き出して関係が拗れるのは悪手かのう)伊能は新たな肉を差し出し、「さぁ、どんどんお食べ」
「わぁっ」女性が目を輝かせる。「ありがとうございます! んぐっはぐっ」
「ここへはお一人でお出でなさったので?」
「はぐっ。まさか。わたくしは探検隊のメシ炊き女として連れて来られたのです」
「他の方々は?」
「その、みな、いなくなってしまって……」
(いなくなった、か。『さるお家』といい『いなくなった』といい、ずいぶんと含みのある言葉じゃ。嘘は吐きたくないが、正直に話すわけにもいかない、といったところか。さて、どうしたものか)
どうすべきか。これが非常に悩ましい。この娘は他の四貴族家の者――つまりライバルである可能性が非常に高い。今回の『測量戦争』における、いわば敵に当たるのだ。
ミドガルズ家従士の立場を最優先とした場合、この娘はここで見捨てるべきである。そうすれば、この娘がこの遺跡を測量し、地図化させ、生きて自領に戻り、遺跡の領有権を主張する、という可能性は潰える。娘の雇い主の家と、領有権を争うという危険性を端からつぶすことができるのだ。娘に測量・地図化の能力がない場合でも、娘が帰還し、測量できる人材をここまで案内してくる、という恐れを排除できる。
が、伊能三郎右衛門忠敬という個人の信念を勘定に入れた場合、娘を見捨てるという選択肢は無しになる。他人の死を何よりも恐れ、盗賊や暗殺者ですら死なせずに済ませようとするお人好しの権化・伊能忠敬にとって、善良な民間人であるこの娘を見捨てるのは、己の死にすら匹敵するほどの痛みを伴う。だから、そんなことは死んでも御免である。
(ならばどうする? ミドガルズ城まで連れ帰って、ワシらが第三次測量で遺跡と園周辺を完全に測量・地図化し終わるまで城におってもらうというのはどうじゃ? いやいや、それでは拉致監禁。犯罪行為じゃ)
だからといって、娘を『白い蛇』の外で解放すれば、娘は自分の雇い主である貴族の家に戻り、遺跡の存在を雇い主に伝えるだろう。そうなれば、遺跡を奪い合うライバルが増えてしまう。
(ここで助けてやる代わりに、雇い主へは遺跡のことを言わぬようにと口止めを? いやいや、脅迫しておる時点で犯罪じゃ。ならば今ここで本腰を入れて遺跡を測量し、旅の間に地図化までしきってしまう? いやいや、地図にするための羊皮紙がない。ワシは『うぃんどう』で地図を表示させることができるが、アレはワシにしか見えぬ。地図を描くには、最低でも一週間は掛かるじゃろう)
いくら考えても、答えは出ない。
(うーん、うーん、どうするのが正解なんじゃ? バルムンク殿と合流して助言を乞うか? じゃがあの御仁はミドガルズ家の利益・繁栄のこととなると、他のことを平然と切り捨てられるようなところがあるからのぅ)
伊能の思考が限界を迎えようとした、その時。
「星がお好きなのですか?」いきなり、女性が話し掛けてきた。
「え?」
「それ、星を観るための道具ですよね。名前は確か――」女性が指し示すのは、伊能のバックパックに入っている小型の、「――
「…………?」
伊能は一瞬、ほんの一瞬だけ、違和感を覚えた。が、その違和感も、東洋顔のメイド服女性に測量道具を言い当てられたという喜びで掻き消えた。
「おおおっ、象限儀をご存じなのですかな?」伊能は象限儀を取り出し、撫でる。「これは星の傾きを見るために使うのですじゃ」
「星の傾きとはいったい? それに、そんなものを見てどうなさるので?」
「星の大きさを調べるのですじゃ」
「星の、大きさ?」女性が食いついた。前のめりになりつつ、それでも肉は手放さないところが、実にこの女性らしい。「星とは、この星のことですか?」
言って、女性がしゃがんで石畳の地面を撫でた。そんな素朴な動作に、伊能は得も言われぬ好感を抱いてしまう。この女性は、今回の測量戦争における、いわば敵。過度な感情移入は危ういと頭では分かっているのだが、どうにも女性の一挙手一投足を目で追ってしまい、亡き妻・ミチの面影を探してしまうのだ。
「どうやって? どうやって調べるのですか? 星の大きさを測るだなんて、どんなに立派な馬を持っていても、どんなに大きな船でもってしても、一生を費やしても不可能でしょう」
「それが、可能なのですじゃ。まず、とある地点で北辰――北の極みにいなさる不動の星の角度を調べるのですじゃ」
伊能は象限儀を天に掲げ、北極星を見る真似をする。実際には、昼下がりの空に星は出ていないが。ちなみに、偶然か必然か、この世界にも北極星と同じ役割を果たす不動の星は存在している。
「それから、別の地点で再び北辰を見る。すると、わずかに角度が変わるのですじゃ」
「そんな不思議なことが? なぜ角度が変わるのですか?」
「ほら」伊能は遺跡の中央、ひと際高い尖塔の頂点を指差す。「あの塔の頂を星と見立ててみましょう。ここから見たときと、あの塔の真下に行って見上げたときとでは、見える大きさも、見上げる角度もまるで変わります」
「それは、はい。そうなりましょう」
「星はあまりにも遠くにいなさるため、大きさまでは変わりませぬ。それでも、角度はわずかに変わるのですじゃ」
伊能は象限儀に九〇個刻まれた目盛りを指し示す。
「これが、一度。もし、最初に星を見上げた地点と、次に星を見上げた地点とで角度に一度の差があったとしたら、何が分かると思いますかな?」
「ええと……分かりません」
「最初の地点と次の地点。この距離を三六〇倍することで、星の円周が分かるのです! 星の円周が分かれば星の直径も分かる。即ち、象限儀と測量で星の大きさを求められるというわけですじゃ」
「なんと、そんなことが!」女性が目を輝かせる。が、一転して困り顔になり、「ですが、星の角度が一度ほども変わる場所を見つけるとなると、相当の距離を歩かなければいけないのでは? そう都合良く直径を測れる場所が見つかるとも限りませんし、高度も同じ場所ともなれば、なおさらです」
「そう、そのとおりなのですじゃ!」女性の呑み込みの早さに、伊能はすっかり嬉しくなる。「ワシはこの国に来る前は、遠い遠い国におったのですが。最初の旅では江戸から蝦夷まで一六〇〇キロメートルも歩きました」
「そんなに!? さぞ大変な旅路だったのでは?」
「そうですなぁ。船に乗れば嵐に襲われて沈みかけ、蝦夷の大地を歩けばアイヌたちに弓や槍で追い掛け回され――」
伊能は女性との会話にのめり込んだ。こんなに夢中になったのは、何年振りかも分からないほどだった。それこそ、測量のことをすら忘れるほどに。
空が赤く染まりはじめたころ、伊能はようやく、あることに気付いた。
「いかんいかん。ワシとしたことが、ちゃんと名乗ってすらおらなんだ」
いつしか敬語は消え、砕けた口調になっていた。
「ワシは伊能三郎右衛門忠敬じゃ。お主は?」
女性が、しっとりと微笑んだ。そうして、名乗った。
「ミチと申します」
ミチ。亡き妻と同じ名前だ。その名を聞いた瞬間、伊能は魔法に掛かった。