第伍章「伊能の本懐」ノ参
「あら、いけない」女性――ミチが空を見上げた。「すっかり話し込んでしまいました。床の準備をいたしませんと」
「そ、そうじゃな」伊能は動揺が収まらない。「どこぞの家を間借りさせてもろうて、夜を明かすとしようか」
「こちらです」
「えっ」
ミチに手を引かれ、伊能は歩く。夕焼けに照らされた街並みが、眩しい。目を細めながら歩いていると、フワフワ、フワフワとした不思議な気持ちになっていく。
ふと、子どもの笑い声が聞こえたような気がして、伊能は慌てて路地裏を覗いた。
「何をなさっておいででしょうか」
「今、声が」
「こちらですよ、さぁ」
「う、うむ」
抗えず、伊能はミチに手を引かれる。
今や至る所で子どもたちの声がしており、いや、通りは老若男女様々な声で満ち溢れていた。依然として、人々の姿は見えない。だが、ここはとうの昔に無人の遺跡などではなくなっていて、活気に満ち溢れた現役の街となっていた。
(これだけの人々が。いったいぜんたい、今までどこに隠れていなさった?)
次の角を曲がった時、数人の子供たちが伊能の前を横切った。
ミチに手を引かれるがまま、伊能は歩いていく。やがて、街には見知った顔が溢れていく。
「伊能の旦那、商いの方は順調で?」
「名主様、今年は米の実りがたいそう良うございます。農作業に安心して打ち込めるのは、名主様が立派な土手で水害から村を守ってくださるお陰です」
道行く人々が、伊能に声を掛けていく。今や街は完全に、佐原村の姿を取っていた。
(懐かしい。ワシが人生を捧げて守り育ててきた場所じゃ)
「さぁ旦那様、こちらです」手を引く『ミチ』は、今や寸分違わず、あの懐かしい、青春時代を共にした美しき妻・ミチの姿となっていた。「さぁ」
案内されたのは、涙が出るほど懐かしい、伊能が十七歳から五十歳までを過ごした、伊能邸であった。息子・忠孝を亡くした忌まわしき川に面した店舗から家に入ると、
「おかえりなさい、父上!」
中から、小さな子供が出てきた。その子供の姿を見た瞬間、伊能は泣き崩れた。
「忠孝、嗚呼、忠孝!」
生きていたのだ、忠孝は。忠孝を水難事故で亡くしたというのは、悪い夢だったのだ。
「嗚呼、嗚呼、良かった。本当に良かった」
「変な父上」伊能に抱きしめられて、忠孝がはにかみ笑いをする。
「怖い夢を見ておったのじゃ。怖く、寂しく、寒い……凍えるような悪夢を」
「もう大丈夫だよ」
いつしか、伊能は生前の姿に戻っている。それも、伊能家に婿入りしてすぐの頃――十代の頃の姿になっている。十代の自分、若く美しく健康な妻・ミチ、元気に走り回る愛おしい子・忠孝。ここには温かな家庭と順風満帆な人生があった。
懐かしい家族と思う存分語り合い、忠孝を風呂に入れて、あとは寝るだけとなった。
◆ ◇ ◆ ◇
「アナタ」
床の間で三つ指をついたミチが、濡れた瞳でこちらを見上げている。伊能は衣服を脱ぎ、ミチに覆いかぶさった。
「嗚呼、ミチ」
ミチを抱きながら、伊能は泣いていた。赤子のように泣いていた。ひどく悲しいことが、たくさんあったような気がしたのだ。
だが、今や不幸はすべて消え去り、ミチは腕の中におり、忠孝も生きている。たくさんの人を――本当にたくさんの人を亡くしたような気がしたが、すべては悪い夢だったのだ。
「ミチはここにおりますよ。どこへも行きません」
「嗚呼、嗚呼、ミチ」
ミチを愛しているうちに、伊能は徐々に違和感を大きくしていった。言動、仕草、笑い方、声。記憶の中のミチと、腕の中にいるミチとが、どうにも一致しないのだ。ミチを愛せば愛するほど、その違和感は大きくなっていく。
一度感じてしまえばもう、その違和感から目を背けることなどできなかった。
「ミチ……?」
「はい、アナタ」
どうにも頭がフワフワしている。伊能は、記憶が曖昧だ。いつからだ? 昨日、暗殺ギルドの屍天王と死闘を演じた時は、頭は極めて冴えていた。そのあと遺跡に至り、夜を明かした時のことも、しっかりと覚えている。翌朝、遺跡を探検しはじめた時の記憶も健在だ。だが、
(その後、何が……?)
誰かに会った。そう、東洋顔の娘と会ったのだ。薄汚れたメイド服を着た、虐げられていそうな雰囲気をまとった娘と。
(あの娘はどこに行ったのじゃ?)
不思議な娘だったが、伊能は確か娘に対して、何か決定的な違和感を覚えたはずだったのだ。
(思い出せ。ワシはあの娘と何を話した?)
『わたくしは探検隊のメシ炊き女として連れて来られたのです』
『みな、いなくなってしまって』
違う。もう少しあとだ。
『星がお好きなのですか?』
『星の大きさを測るだなんて、どんなに立派な馬を持っていても、どんなに大きな船でもってしても、一生を費やしても不可能でしょう』
違う。だがその前後だ。その前後で、自分は何か重大な見落としをした。
『それ、星を観るための道具ですよね。名前は確か、象限儀』
そう、ここだ! ここで自分は、重大な違和感を覚えた。だが、なぜだ?
『ところでイノーや、そのデカブツは何じゃ?』
ふと。記憶が第一次測量探検の出発前まで飛んだ。象限儀をリリンに初めて披露した時のことを連想したのだ。
『あぁ、
『クワドラント、じゃ。ショーゲンギとかいうのは、そなたの世界か、そなたの国での呼び名じゃろう。まぁそなたの星、そなたの国にも測量や航海の歴史があるのじゃろうが、この世界、この国にも歴史があるのじゃ』
(クワドラント――ッ!!)伊能は、ついに、我に返った。(この世界には、象限儀という言葉はない! あの娘が、クワドラントのことを象限儀と呼ぶはずがないのじゃ! ワシの記憶を読み取りでもしない限り!)
その気付きが呼び水となり、数々の違和感が露わになっていく。
(なぜ、あの娘は象限儀という名を知っていた? いや、もはやそのようなことはどうでも良い。それより、今じゃ。今、この状況は何じゃ? いったいぜんたい、何がどうなっておる?)
我に返った伊能の、普段の脳の冴え渡りが戻ってきた。
(ここは地球ではない。ここは日本ではない。ここは、ワシが愛した佐原村ではない! 昼間歩いた街並みは南蛮風じゃった。この部屋のような、畳敷きの部屋などなかったはずじゃ。――あっ)
そのことに気付いた瞬間、周囲の情景がボロボロと崩れ去っていった。あとから現れたのは、薄ら寒い、西洋風の部屋だ。自分が横になっている寝床も、畳の上に敷かれた布団などではなく、ベッドであった。
自分の手足も、成人男性のものではなく、『てーえす』を経た後の、少女のものとなっている。
そうして――、
「お前は、誰じゃ!?」
腕の中の『ミチ』。いや、ミチを騙った女の顔が、みるみるうちに日中出会ったメイドのものになった。そして、ああ、なんということだろう。女が、伊能に向かってナイフを振り上げている!