第肆章「最弱の異能【斥候】」ノ弐
(あぁ、クソ。言いたくない。言いたくねぇなぁ)カッツェの瞳が涙で滲む。(言いたくねぇ。俺様の異能の正体が、エレクトラユニーク異能【巻き戻し】だって)
◆ ◇ ◆ ◇
【Side カッツェ:数年前】
「許せ」
カッツェに【魂の誓約】を掛けた時、リリンは苦しそうにそう言った。許してほしいのはこちらのほうだ、とカッツェは思った。この優しすぎる主は、カッツェがカッツェ自身を恨まずに済むようにと、わざわざそんなことを言ってくれたのだ。
カッツェの真の異能は、エクストラユニーク異能【巻き戻し】。数十秒以内の出来事なら、死者すら蘇生(なかったことに)することができるという、誰もが喉から手が出るほど欲しがる究極の異能だ。ミズガル帝国内で奪い合いが起こるのみならず、近隣諸国との戦争にまで発展しかねないほどの、有用性のかたまりのような異能だ。
だからリリンは、カッツェの異能のことを徹底的に隠匿することに決めた。カッツェの異能の正体を知る者は、カッツェ自身とリリン、そしてバルムンクしかいない。カッツェの同僚はもちろん、彼女の母親や兄弟、バルムンク以外の親族すら知らない。
初の潜入任務でゴブリン軍の陣地奥深くまで潜った時、カッツェは運悪く敵に見つかってしまった。逃げて逃げて逃げて、追いつかれ、ゴブリンたちの不潔な手で組み敷かれ、いよいよ犯され死ぬまでオモチャにされるか、自死するしか道はないかとすら思ったその時、カッツェは思い切って自身の異能の正体を大声で告げた。
途端、カッツェの体が光り輝きはじめ、数百倍の力を手に入れたカッツェは、単身でゴブリン軍の一部隊を壊滅させ、同僚とともに生きて返ってくることができたのである。
カッツェは同僚――同年代の男性斥候兵に口止めをした。
「なぁカッツェ、お前のその力、ちょっとだけ俺に貸してくれよ」
その日の晩、親友でもあったその同僚が、カッツェを賭博場に誘ってきた。カッツェの【巻き戻し】のことを知った同僚が、賭博場で荒稼ぎをしようと考えたのだ。カッツェの【巻き戻し】は通常、数十秒以内の過去へ戻ることができる。カードやルーレットの結果を知ってから【巻き戻し】すれば、同僚の目論見どおり賭博に勝ち続けることも可能だろう。
だが、カッツェは断った。良心の呵責というのももちろんあったが、それ以上に、うかつな真似をして【巻き戻し】のことが賭博場全体や街、ミドガルズ領軍全体に広まってしまった日には、自分が世紀の殺人鬼になるか、または自死する以外の道がなくなってしまうからである。
その晩、カッツェは眠れなかった。今日はいろんなことがあったから、気がたかぶっているのだろう……そう思って何時間も粘ったが、眠れなかった。ざわり、と心が不安にざわめいた。
【魂の誓約】の発動条件は、『絶対の信頼を置ける相手以外に機密が漏洩した場合』というものだ。もしや自分は、大切な親友のことを『信頼できない』と思っているのではないだろうな? 確かに彼は、私を賭博に誘った。だが、きっとあれは彼の気の迷いだ。明日になれば、彼も改心し、謝ってくれるに違いない。だから、私は彼を信じることができる。ちゃんと眠ることができるはずだ。
……だが、カッツェはその日、一睡もできなかった。カッツェはショックだった。明け方、ひどい精神状態のまま庭に出て、石を拾い上げて握ってみると、石はたやすく砕けた。やはり未だ、【魂の誓約】は発動中ということだ。
その日も、その翌日も、親友はカッツェを賭博に誘ってきた。そんな彼を笑顔であしらいながら、カッツェは内心、泣き叫びたいほどの恐慌状態にあった。
お願い。私にアナタを信じさせて――という切なる願いは、ついに親友に届くことはなかった。彼はカッツェを賭博に誘い続けた。それほどまでに、【巻き戻し】の力が魅力的だったのだ。『数十秒もの時間、巻き戻ることができる』というのは、悪用しようと思えばいくらでも悪用できる。巨万の富を生み出し得る、すさまじい異能なのである。
カッツェは眠れないまま一週間を過ごし、心身ともに限界に達して、父とリリンに相談した。父とリリンの同意の元、カッツェは次の潜入任務先で親友を殺した。
カッツェは眠れるようになった。
その日から、カッツェの地獄が始まった。カッツェは何度も窮地に陥り、そのたびに同僚を殺して生き延びた。同僚に【巻き戻し】の力について教えた時、その誰もが【巻き戻し】を悪用しようとしてきたからだ。
いつしかカッツェは一人称が『俺様』になり、過度に尖った物言いで自身を守るようになっていった。
◆ ◇ ◆ ◇
【Side カッツェ:現在】
「なぁクソジジイ、俺様はお前を騙しているんだ」
不意に、そんな言葉が口を突いて出てきた。そんなこと、言うつもりはなかったのに。
「そうかそうか。生きておれば、秘め事の十や百はあろうさ」
「っ」背中から聞こえてきた伊能の優しい言葉に、カッツェは胸が締め付けられる。
こんなことを話している場合ではない。刺客は依然として【インビジブル・ブレード】でこちらに攻撃を仕掛けてきており、一瞬でも気を抜けば、自分たちはサイコロステーキだ。
【巻き戻し】の異能は、例えば伊能が細切れになって死んだとしても、数十秒以内であれば【巻き戻し】てなかったことにできる。が、それはあくまでカッツェ自身が生きている場合の話だ。カッツェの脳みそが細切れにされてしまったらもう、いかに【巻き戻し】と言えどもどうにもならない。
だから、今は、敵の見えない攻撃を避けることだけに専念すべきだ。そのはずなのに。
「俺様は今、お前を殺そうか悩んでいるんだぜ」語り出したら、止まらない。走りながら、カッツェは伊能へ言葉を投げかけ続ける。「そんなヤツに背中を預けて、平気なのかよ?」
「お主とバルムンク殿には何度も命を救ってもらったからのぅ。そんなお主がかように声を震わせて言うのじゃから、事情があるのじゃろう」
「俺様は、俺様の秘密を守るために七人も殺してきたんだ」
「つらかったのぅ」伊能の優しい声が、カッツェの脳に沁み込んでくる。「ワシもリリン閣下から【魂の誓約】を掛けられておるから、おおよそ事情は分かるよ」
「俺様は誰も信じることができないんだ!」いつしかカッツェは泣き叫んでいた。「そんな俺様を、お前は信じられるってのか!? ああっ!?」
「信じるとも。お主の過去に何があったかは知らぬし聞かぬが、この一ヵ月は本物の日々じゃった」
……もしかして。
そんな言葉が、カッツェの胸の奥底で生まれる。
……もしかして、この人なら。
「た、例えばの話だ。例えば……」次の言葉を吐き出すまでに、カッツェは実に数十秒もの時間を要した。「例えばもし、俺様が時間を巻き戻せる異能を持っているとしたら、どうする?」
「…………」
伊能が、即答しない。即答してくれない。
(あぁ、頼む爺さん。お願いだから――)
永遠にも思われる数秒ののち、
「それは便利じゃのぅ!」伊能が言った。「そんな力があったら、ぜひ、ワシにも貸してもらいたいものじゃ」
なぁカッツェ、お前のその力、ちょっとだけ俺に貸してくれよ――かつてこの手で殺した親友の言葉が、カッツェの胸に浮かび上がってきた。
カッツェの心は、絶望に沈んだ。
(……ああ。コイツもやっぱり、アイツらと一緒だ。俺様の異能を悪事のために使おうとするんだ)
カッツェの心がどす黒い絶望の沼に沈み込もうとした、その時。
「そんな力があったら、地図を描き損じたときに、羊皮紙を無駄にせんで済むではないか!」
「…………………………………………はぁ?」
カッツェは吹き出してしまった。途端、彼女の胸の中に広がりつつあったどす黒いモヤモヤが、さぁっと洗い流されてしまった。
「っぷ、くくく、爺さん、今なんて? 地図ぅ? もっと他にねぇのかよ。賭博でボロ儲けしたいとか、亡くした人を蘇らせたいとかよぉ」
「笑い事ではないぞ? 羊皮紙というのはたいそう高価なのじゃ。それも、地図に使えるような大きな羊皮紙は、それはもうバカみたいに高い。描き損じで羊皮紙を無駄にして、ワシが何度リリン閣下に怒られたことか! それに、ワシは測量と地図化が生き甲斐じゃからのぅ」
「そうだったな。お前はそういうヤツだった。欲がねぇんじゃなくて、欲まみれなうえで測量狂なんだ」カッツェは笑う。こんなにも晴れやかな気分で笑ったのは何年振りだろうか。「そんなアンタのことだから、信じられる」
カッツェに足りなかったのは、信じるための勇気だったのだ。だが、図らずも伊能に背中を押されたことで、その勇気が満たされた。
「ロン、アッシュ、アマーリエ、リューリケ、エンゾ、デニス、エミール。信じられなくて、ごめん。弱くて、ごめん。でも『私』はもう、大丈夫だ。許してくれとは言わない。――【巻き戻し】!」