第肆章「最弱の異能【斥候】」ノ参
ちょうど、敵の【インビジブル・ブレード】がカッツェと伊能に襲い掛かった直後だった。二人の肌という肌に生じた裂傷が、なかったことになる。カッツェが数秒間の【巻き戻し】を行ったのだ。
「俺様の――」カッツェは覚悟を決めて、息を吸う。「俺様の異能は、【巻き戻し】! 数十秒以内の時間を巻き戻して、自分だけ過去に戻れる能力だ!」
告げた。伊能と、暗殺者ハシシに対して。途端、カッツェの体がまばゆい輝きを放ち出す。体が羽のように軽くなり、あれほど疲れ果てていたはずの疲労感も消え果てた。【魂の誓約】が発動したのである。
「き、貴様ぁッ!」暗殺者の狼狽した声。「その力は……!? うおおおお!」
次の瞬間、カッツェの視界が『跳ねた』。全力を出したアサシンの斬撃で、首を切断されたのだ。だが、カッツェは即座に【巻き戻し】を発動させる。カッツェの異能に詠唱は、肺は要らない。
時間が逆転し、カッツェの首が繋がり、カッツェの体が勝手に後ろ方向へと走り出す。数秒戻って【巻き戻し】を終了させ、再び前に走りながら身を屈めることで、カッツェは首を切断するはずの斬撃を避けた。
今度は、見えない刃がカッツェを袈裟斬りにした。カッツェの心臓が破裂する。だが、結果は同じだ。頭部を破壊されない限り、カッツェは何度でも【巻き戻し】て蘇る。
さらに何度か同じような応酬を繰り返したのちに、
「後ろへ跳べ!」悲鳴にも近い伊能の声。
と同時、カッツェの鼻頭が裂けた。伊能の言葉で咄嗟に後方に飛んでいなければ、脳を輪切りにされているところだった。
(まずいな。早々に学習しはじめてやがる)【巻き戻し】で鼻の傷を癒やしたカッツェは、「わりぃ、爺さん!」
伊能をその場に投げ捨てて、ナイフを抜いてハシシに突撃した。短期決戦に賭けることにしたのだ。肉薄する。が、ハシシにナイフが届く距離に迫った瞬間、カッツェはハシシの姿を見失った。
(どういうことだ、【隠密】か!?)
目の前にいるはずなのに、姿が見えない。だからカッツェは、闇雲にナイフを突き出した。当然ながら、手応えはない。
(ははっ、おもしれぇ。【巻き戻し】!)
カッツェは数秒戻り、今度は別の場所へ向けてナイフを突き出す。やはり空振り。
再び数秒【巻き戻し】て、刺突。空振り。
戻して、刺突。空振り。戻して、刺突。空振り。戻して、刺突。空振り。戻して、刺突。空振り。戻して、刺突。空振り。戻して、刺突。空振り。戻して、刺突。空振り。戻して、刺突。空振り。
少しずつナイフを突き出す場所をずらしながら、カッツェは地道に検証を重ねる。姿は見えずとも、ハシシはカッツェのナイフが届く場所に潜んでいるはずなのだ。
何十回も、そうした試行錯誤を繰り返したところ、
「ぎゃっ!」
ハシシの悲鳴とともに、彼の手からぱっと鮮血が舞った。途端、ハシシがその姿を現す。攻撃を受けたことで、【隠密】の効果が切れたのだろう。
「姿が見えりゃこっちのもんだ!」
カッツェはさらなる追撃に入る。
外部時間にしてみれば、数秒にも満たない応酬。だが、カッツェの中では数分が経過している。そしてカッツェ以外の人は誰も、その事実を知らない。気付けない。
こういう細かいやり直しこそが、カッツェの真骨頂。【斥候】を騙っているカッツェは、当然ながら【気配察知】も【隠密】も【悪路踏破】も【木登り】も持っていない。持っていないにもかかわらず、数年来、誰からも疑問に思われることなくやってきた。なぜなら、カッツェは【気配察知】を持っていてもおかしくないほど気配に敏感で、【隠密】を持っていてもおかしくないほど身を隠すのに長けていて、どんな悪路にもけして足を取られることはなく、どんなに難しい木でもスルスル登ることができるからだ。
それらを実現してきたのが、今のような地道な試行錯誤だ。敵に発見されれば、数十秒前に戻って身を隠す。ぬかるみに足を取られたなら、数秒前に戻って歩き直す。木から落ちそうになったら、落ちる前に巻き戻る。こうした地味で地道な繰り返しによって、カッツェは最適解をなぞり続けてきたのだ。
暗殺者ハシシが、再び姿をくらます。が、カッツェは同じ要領で試行錯誤を重ね、ハシシの腕に裂傷を負わせることに成功した。
「クソっ」暗殺者が、ひどく狼狽した様子で叫んだ。「クソクソクソォッ!」
◆ ◇ ◆ ◇
【Side 暗殺者ハシシ】
「クソっ、クソクソクソォッ!」
などとわざとらしく叫んでみせながら、ハシシは勝利を確信していた。
ハシシは数日前からずっとカッツェを注視しており、彼女の異能が【巻き戻し】である可能性について思慮を重ねてきていた。十数年前、【巻き戻し】の異能を持つ赤子が生まれたという記録が教会の極秘ファイルにあったからだ。
そしてハシシは、カッツェの【巻き戻し】の可能範囲が一分以内であることも見抜いていた。だから、
(【インビジブル・ブレード】には、あらかじめ猛毒を仕込んである)狼狽した振りを見せながら、ハシシは内心、ほくそ笑む。(数十秒で効果の出る即効性の毒を。そして)
毒が効きはじめ、毒に気が付いた途端、カッツェは数秒前まで巻き戻すだろう。
(十分後に効果が出る、遅効性の猛毒を!)
そして、それで満足するはずだ。よもや彼女の【巻き戻し】限界を上回る十分前に仕込まれた毒があるなど――即効性の毒が、遅効性の毒の隠れ蓑であるなどとは、気が付くはずがあるまい。
遅効性の毒の存在に気付いた時には、もう遅い。なぜなら、その時にはもう、毒が仕込まれてから十分が経過しているのだから。カッツェの【巻き戻し】の限界時間は数十秒。もし仮にハシシの読みが外れていたり、死に際にさらなる力に目覚めるなどして遡及限界時間が延びたとしても、せいぜい数分。それを見越しての十分だ。
しかも、念には念をということで、さらなる策も仕込んである。
(この勝負、勝った。確実に!)
◆ ◇ ◆ ◇
【Side カッツェ】
カッツェは暗殺者ハシシの見えない斬撃を避け続けつつ、攻撃を繰り出す。数秒が経過し、数分が経過し、十分が経過し、十数分が経過したころ、ハシシが明確に狼狽しはじめた。
「どうした、暗殺者野郎? 十数分くらいなら【巻き戻し】の範囲内だぜ」
「バカな……バカなバカなバカな!」もはや攻撃を繰り出す余裕もないほどに慌て果てたハシシが、頭を掻きむしる。
「 六 時 間 前 !」
ハシシの絶叫。
「六時間前に打ち込んだ毒が、さすがに効きはじめているはずだ!」
そう。ハシシはカッツェが単独行動を取っているその時に、カッツェの背後に忍び寄り、無痛の針による吹き矢でカッツェに超遅効性の猛毒を仕込み終えていたのだった。即効性の毒、遅効性の毒、超遅効性の毒。この三層の猛毒によって、カッツェの【巻き戻し】がどれほど過去に遡れようとも確実に殺し切る自信があったのだ。
「残念だったな。そして、惜しかったな。この状態の私が巻き戻せる最大範囲は」カッツェは笑う。「六時間三十分だ」
そう。今ここに立っているカッツェは、伊能に絆されて伊能とハシシに【巻き戻し】の真実を明かしたあとに、ハシシの遅効性毒に倒れ、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もやり直して六時間前の吹き矢の存在に気付き、矢を受けた振りをすることで超遅効性の猛毒を躱してきたカッツェなのだった。
「本当に惜しかったなぁ。もうあと三十分前に毒を仕込んでりゃ、俺様を殺すことができたのに」
「で、でたらめだ。なんで、そんな」
「なんでってそりゃ、俺様の【巻き戻し】にはリリちゃん閣下の【魂の誓約】が掛けられてるからよ。通常状態の俺様が戻せるのは、最大できっかり一分。リリちゃん閣下の【魂の誓約】はざっくり異能を『数百倍化』させるんだが……これが三百倍なら俺様は死んでたな。けど――これは俺様も今日初めて知ったんだが――【魂の誓約】の数百倍ってのは、具体的には四百倍だった。だから、この状態の俺様は、最大で四百分前にまで遡ることができるってわけさ」
「あ、あぁ、あぁぁ……」
暗殺者がその場に座り込んだ。可哀想なほどに戦意をしてしまっている。
「何がそんなに意外だったってんだ? あぁ、お前がリリちゃん閣下の【魂の誓約】の存在を知っていて、さらに俺様の【巻き戻し】に【魂の誓約】が掛けられている可能性にまで思い至っているっていうのは、さすがに買いかぶりすぎだったってわけか」
「こんなの、勝てるわけが――」
「じゃあな」
カッツェは猫のように素早く走ると、宙に向かってぶつぶつと呟いている暗殺者の背後を取り、その喉を力の限り掻き切った。
鮮血を吹き出しながら、暗殺者ハシシが倒れた。と同時に、カッツェの体の輝きが消える。【魂の誓約】の効果が切れたのだ。
「ふぉっふぉっふぉっ」伊能がやって来た。「ワシを殺さなくても良かったのかのぅ?」
「おいおい、この期に及んで意地悪なこと言うんじゃねぇよ」ハシシの服でナイフの血を拭いながら、カッツェはこれみよがしにため息をつく。「俺様の――いや、『私』の心はそう言っているみたいだ。最後まで信じさせてくれよな、クソジジイ!」
そう言って、カッツェは晴れやかに微笑んだ。
【踏破距離:一、五九七キロメートル】