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弐章「継続は力なり」ノ壱

「大変です! 『白い蛇』の霧が、突如として晴れました!」

 伝令兵が、狼狽した様子で説明する。有史以来、分厚い霧の中にその身を隠し続けてきた『蛇』が、突如として、何の前触れもなく、その姿を現したのだという。

(霧が晴れた! これで測量できる……ッ!)

 伊能が歓喜に包まれた、次の瞬間、伝令兵が悲痛な叫びを上げた。

「『白い蛇』の中から、大量の魔物が溢れ出てきました!」

 途端、伊能は冷水を浴びせられたような心地になり、激しく己を恥じた。

(ミドガルズの将兵たちが命懸けで戦っておるというのに、ワシはなんて手前勝手なことを)

「大丈夫よォん」そんな伊能の内心を見透かしたかのように、バルムンクが伊能の頭を撫でてきた。「イノーちゃんが立案してくれた大砲の配置・防御陣形のお陰で、戦いの準備は万端。帝国最強の騎士たるこのアタシも出るんだから、イノーちゃんは気楽に構えて待ってなさいな」

「なっ……はは、そうですな。ありがとうございます」

 自分よりもずっとずっと年下の相手(モヒカンオネェのバルムンクは年齢不詳だが、七十ということはないだろう)に慰められてしまい、伊能は面映ゆい。が、悪い気はしない。

「頼んだぞ、バルムンク。我が剣よ」仁王立ちのリリンが、不敵に微笑んでいる。

「ははっ」恭しく、バルムンクがひざまずいた。「我らがミドガルズ伯爵家に必ずや勝利を持ち帰って参ります。閣下におかれましては、心安らかにお待ちください」

 颯爽と去っていくバルムンク。そんな従士を泰然とした笑みで見送るリリン。どこまでも格好良い二人の姿に、伊能は胸がいっぱいになるのだった。


   ◆   ◇   ◆   ◇


 結論から言えば、魔物は問題なく撃退することができた。バルムンク曰く、
『伊能ちゃんが設定した魔物の侵攻予測ラインに沿って大砲を撃ち込むだけで、面白いように敵の数が減っていったわ。まるで魔法ねェ』
 とのこと。それでも至る所で白兵戦は発生し、軽症者多数、重症者も何人か発生した。が、幸いにして死者は出なかった。
 異能には【治癒】というものがあり、これは不可思議としか言いようのない力で怪我を癒やすことができる。リリンはミドガルズ家復興のために国中から異能力者を集めており(バルムンクが異能力者や迷い人に詳しいのは、それが理由だった)、集められた異能力者の中には【治癒】持ちも多数在籍する。そのため、たとえ重症の者が出たとしても、命を落とすことはないのだそうだ。
 魔物への対処は、『問題』というほどの問題もなく終わった。いや、数日経った今現在も魔物は溢れ続けているものの、バルムンクが鍛え上げた数千の精鋭将兵たちと、多数の大砲と、伊能が正確無比な測量とともに考案した鉄壁の陣形があれば、十分に封じ込めが可能だ。
 だが、問題はまったく予想外の方向から発生した。

「大変です、閣下!」

 伊能、リリン、バルムンクが地図を覗き込みながら新たなる防衛陣形の考案を行っていると、いつもの伝令兵が執務室に駆け込んできた。伝令兵は例によって、バルムンクに抱っこされているリリンを見てぎょっとしたが、すぐに居住まいを正す。

「皇帝陛下より、早馬です」

「ほう!?」バルムンクに下ろしてもらったリリンが、伝令兵から手紙を受け取る。ほのかに甘い香りを放つ最上級の蜜蝋と、皇室の権威を示すフェンリルの国章で封じられたそれを、手慣れた所作で開封して、「ふむふむ。ほう、ほうほうほう! これは面白くなってきたのじゃ!」

「皇帝陛下、なんて仰ってるのォん?」リリンから手紙を受け取ったバルムンクが、「あー……丸投げって言うかなんて言うか。リリちゃん閣下的には、これってアリ?」

「大アリじゃァ! ミドガルズ家を立て直す絶好の機会じゃぞ!?」リリンが目の色を変える。「いや、『絶好』などという表現も生ぬるい。こんな好機は二度と訪れないかもしれない。一世一代の大チャンスじゃ。ここで『蛇』のすべてをかっ攫うことができれば、我がミドガルズ家は財政を立て直すことができる! 立て直すどころの話ではない。我が家は莫大な富を手に入れ、他の四伯たちを蹴落とし、帝国中にその名を轟かすことができる。未来永劫安泰じゃ。誰も余を『一代で没落させた無能領主』などと笑わなくなる! 余は巨大な発言権を手に入れ、愛する我が父を謀殺したに違いない、あの憎きヘル家を断罪することが――」

「リリちゃん閣下」

 この時ばかりは、バルムンクは臣下の顔ではなく、親代わりの顔をしていた。バルムンクが、ちらりと伝令兵の方を見やる。察した伝令兵が部屋を辞した。
 我を忘れかけていたリリンが、さっと朱を差したかと思うと、すぐに無表情になった。

「リリちゃん閣下の気持ちは分かるわ、痛いほど」バルムンクがひざまずき、リリンと目線を合わせる。「けれど、よく聞いて。ミドガルズ家領軍は今、『白い蛇』から溢れ出てくる魔物をせき止めるので精一杯なの。予備役も総出のありさまで、探検隊を編成するような予備戦力なんてどこにもないの」

「少数精鋭でいく」

「リリちゃん閣下、まさか」青ざめるバルムンク。

「護衛が必要じゃ。そなたがやってくれぬか、我が剣よ。伊能の地図と防御陣形があれば、魔物への対処は副官でも十分に可能であろう」

「それは確かに、そうだけど。……リリちゃん閣下、順番が違うわ。まずは探検隊隊長の意向を確認しないと」

「そうじゃな」リリンが伊能に向き直った。「イノーや、そなたに重大な命令がある」

「は、ははっ」その、少女が放つただならぬ雰囲気に、伊能は思わずひざまずく。

 リリンが、皇帝からの手紙を読み上げた。長々とした挨拶やごてごてとした修飾語で飾られたまだるっこしい長文だったが、要点は次の三つだった。

『速やかに「白い蛇」内を探索し、安全を確保せよ』
『地図化した領域は、その家の領地として認める』
『同様の勅令は、「蛇」を封じる五伯家すべてに発している』

(つまり、早い者勝ち、というわけじゃな)我知らず、伊能の頬が引きつる。

 いち早く探検隊を組織し、より多くの領域を踏破・測量・地図化した家が、それだけ多くの領地と富を得ることができる。実質、五伯家による『測量合戦』と言えるだろう。

「イノーや」手紙を仕舞ったリリンが、伊能の手を握ってきた。小さなその手が、震えている。可哀想なほどに。「そなたに、『白い蛇』内の探検を命じる。命の危険を伴う大仕事じゃ。霧が晴れたとはいえ、依然として『白い蛇』内は魔物で満ちておる。じゃが、大軍を動かせない今、これはそなたにしか頼めぬ仕事なのじゃ。そなたの【測量】――魔物の群れの隙間を縫うようにして進むための『索敵力』と、多数の人員や機材がなくとも迅速に測量ができるそなたの測量力。それらを頼りに少数精鋭で『蛇』に侵入し、魔物に気付かれないよう迅速に測量・地図化する以上の良策を、余は持ち合わせておらぬ。頼めるか?」

 リリンが震えている。きっと、今のリリンこそが素の彼女なのだろう。人命を左右するという重責に震え、それでも逃げずに職務をまっとうしようと戦う幼き領主。伊能は、そんな彼女のことを美しいと思った。
 が、残念ながら今の伊能には、そんなリリンの美しさをじっくりと観察し、感動できるほどの余裕はなかった。リリンに手を握られてからずっと、伊能もまた、ぶるぶると震えていたからである。

「イノー……?」リリンが、薄っすらと涙を浮かべた目で伊能を見上げてきた。「怖いのか? 怖いのなら、断ってくれても――」




「 是 非 も 無 し 」




 伊能は、震えていた。
 武者震いだった。
 歓喜に震える伊能は、壮絶な笑みを浮かべながら、リリンの手を強く強く握り返す。

「伊能三郎右衛門忠敬、確かに拝命いたしました。必ずや『蛇』内全土をあまねく測量し、最高峰の地図を御身に献上し奉ることを、今ここに誓いまする」

「は、はは」呆れ果てたようにリリンが笑った。弱々しかったその笑みが、次第といつもの泰然としたものに変わっていく。「あはァッ。あーっはっはっはっ! そうじゃったそうじゃった、そなたはそういうヤツじゃったな。三度の飯よりも測量が好き。命よりも測量が大事。測量できねば死んでいるも同じ、か。頼んだぞ、ミドガルズ伯爵家従士タダタカ・イノー。我が最高の測量士よ」いつもの調子を取り戻してきたリリンが、気の早い勝どきを上げた。「この『測量戦争』、我らミドガルズ家の勝利じゃァ!」

「おーっ!」伊能も一緒になって腕を振り上げた。


   ◆   ◇   ◆   ◇


 その翌日、リリンの執務室に奇妙な四人組が集められた。
 一人は、異国風の旅装に身を包んだ、銀髪碧眼の美少女。他ならぬ伊能忠敬その人である。今回の旅では、『伊能探検隊』の隊長を務める。
 二人目は、

「改めて、これからよろしくねェん。イノーた・い・ちょっ」

 モヒカンオネェの将軍バルムンク。フルプレート鎧に身を包んだ巨漢。刃渡り一メートル五〇センチの大剣を片手で振り回す帝国最強の騎士。伊能探検隊の副隊長を務める。今日も相変わらず、クネクネしている。
 三人目は、

「なんだぁ、このちっこいガキは?」

 猫のような印象を受ける、褐色肌の尖った少女。年のころは十代半ば。ショートの銀髪と、金色の吊り目。生意気そうな猫口。頭には猫耳のカチューシャ(俊敏性を上げる異能具)を着けている。服装は、男者のシャツに、丈がたいそう短いズボン、心臓・関節・肩のみを覆う軽装の革鎧。履いている黒タイツは至る所で破けている。武装はナイフと小型のクロスボウ。

「【測量】――身長一五九センチ、体重四八キロ。ほっほっほっ。そういうお前さんは、たいそうつまらん体つきをしていなさるのぅ。特に胸周りが」

「誰が貧乳だ、ゴルルァ!? このクソガキ、ぶっ殺――ぷぎゃっ!?」

 少女が床に沈んだ。バルムンクが強烈なげんこつを叩き込んだからである。

「このバカ娘! この方はイノー探検隊の隊長サマよ! 敬いなさい」

「娘? あぁこの子が、先日仰っておられた娘御ですか。ですが、さすがに一人で着替えられるような歳に見受けられるのですが」

「それは十年以上も前の話しよォ」バルムンクが伊能の背中をバシンバシンと叩いてくる。伊能は、痛い。「この子はカッツェ。不肖の娘よォん。イノー探検隊の斥候を務めるわ」

 そして最後の一人は、

「御身の手の内に、御国と力と栄えあり。永遠に、尽きることなく、メシア」

 この大陸に広く分布している主流宗教『メシア教』の祈りを一心不乱に唱え続ける青白い男。年齢は、二十代とも三十代とも判別がつかない。
 身長一九二センチ、六二キロ。病人のように白い肌、こけた頬、死んだ目。灰色の瞳は三白眼で、目の下の隈がひどい。真っ黒なコート、黒いズボン、黒い二角帽。非常に細身で、遠目からは真っ黒な棒が突っ立っているように見える。肩から下げているのは、身の丈ほどもある長大なマスケット。火打ち石(フリントロック)式のリボルバーで、八連装。

「御身の手の内に――はっ!?」注目されていることに気付いた男性が、慌てて自己紹介を始める。「た、たたた探検隊の狙撃手を務める、か、カスパールと――ンヒィ!?」

「あっはっはっ、久しいのぅ、カスパールや」リリンが机の上によじ登り、カスパールの肩をばんばんと叩いた。「相変わらず生っ白い顔をしておるのぉ」

 いったいぜんたい何に怯えているのか、カスパールはおどおどしている。

(何とも珍妙な連中じゃのぅ)自分のことを棚に上げ、笑う伊能。

「ひとクセもふたクセもある連中じゃが」仁王立ちのリリンが、自信満々に微笑む。「実力は折り紙付きじゃァ。余が保証する」

「閣下がそうとまで仰ってくださるのなら、何も心配することはございません」伊能はリリンにひざまずく。「閣下の赤子たち、確かにお預かりいたしました」

「ところでイノーや、そのデカブツは何じゃ?」リリンが、高さ二メートルほどの高さの棒に、巨大な扇状の木枠が付いている器具を差して言う。

「これは(はざま)先生とワシで独自に改良した『象限儀(しょうげんぎ)』という道具ですじゃ」伊能は、得意になりながら解説を始める。「これで北辰――ではなく、北極星? いや、この国の言葉では確か、ポールスターと言いましたか。あの、常に北の極みに座しておられるあの星の角度を測るのですじゃ」

 そう、この世界にも、地球で言うところの北極星に該当するような星が存在するのだ。日本で見上げていた頃とはだいぶ角度が違うし輝き方も違うが、いつなんどきも不動なのは変わらないため、伊能は測量時に便利に使わせてもらっている。
「あぁ、四分儀(クワドラント)のことか」リリンが告げ、壁際に侍っていた執事に目配せすると、執事が部屋を出ていった。「そんな大きな物、旅に持っていけるわけがないじゃろうが」

「くわど……? いえ、ですがその地点その地点の緯度を求めるために、象限儀は必須でして」

 ほどなくして、執事が戻ってきた。片手で抱えられる程度の、象限儀によく似た扇型の道具を持っている。

「ほれ、手持ちサイズの四分儀じゃ」

「えええっ!?」伊能三郎右衛門忠敬、おっ魂消る。「なぜに異世界に象限儀が!?」

「クワドラント、じゃ。ショーゲンギとかいうのは、そなたの世界か、そなたの国での呼び名じゃろう。まぁそなたの星、そなたの国にも測量や航海の歴史があるのじゃろうが、この世界、この国にも歴史があるのじゃ」

「リリン閣下は測量にお詳しいのですね」

「はぁ? 余を誰だと心得ておる。ミドガルズ伯爵じゃぞ」リリンが仁王立ちする。「『白い蛇』に面し、『白い蛇』に対する帝国の盾としての役目を果たし続けてきた名家の中の名家じゃ。『白い蛇』に対する取り組みの多さ、思いの強さは折り紙付きじゃ。蛇の測量は、我が家の悲願なのじゃから。というわけで」

 麗しき領主リリン・フォン・ミドガルズが、伊能と仲間たちを見回す。

「励むように。期待しておるぞ」

「「「「ははっ」」」」

 こうして、イノー探検隊による第一回測量探検が始まった。

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