壱章「伊能の異能」ノ陸
三週間後の昼下がり。
「リリちゃん閣下、お待たせしましたァ~ん」
バルムンクとともに、伊能はリリンの執務室へ入る。執務室は調度品なども少なく、大貴族家の部屋とは思えないほど質素だ。リリン曰く、『領全体が困窮しておるのに、余だけが贅沢をしていては示しがつかん』とのこと。
そう、伊能が雇われたこの家・ミドガルズ伯爵家は、帝国の中で最も長い歴史を持っていながら、今や没落寸前なほど困窮している。
先代(リリンの父)が、リリンただ一人を遺して亡くなったのが五年前。そして、リリンが必要最低限の分別を身につけ、当主の座に付いたのが二年前。
空位の三年間は、ミドガルズ家にとって地獄のような時期だったそうだ。周辺のライバル貴族家に利権という利権を徹底的にむしり取られてしまったミドガルズ家は、リリンが継いだころにはもう、借金まみれで火の車といった有り様だった。
「あはァッ。久しいのぅ、幼き老いぼれや」その、齢九つにして悲痛なほど難しい舵取りを任されている少女リリンが、人懐っこい笑みを浮かべて伊能に駆け寄ってきた。「まだ生きておったのか。ちっとも顔を見せぬものじゃから、てっきりおっ死んでしまったのかと思っておったぞ」
「【測量】」伊能はリリンを異能で測量し、軍服の下にある彼女の薄くて細い四肢をつぶさに把握する。「ほっほっほっ。リリン閣下におかれましては、お変わりないようですな」
「む、そなたどこを見ておる?」リリンが胸を隠す。
「別に、どこも。ただ、前回お会いした時から、女性的な部分が一ミリたりともご成長なさっておられぬことを心配しておるだけですじゃ」
「っっっ。そなたっ、余を【測量】するなと何度言ったら! その測量結果を口外しようものなら、セクハラ不敬罪で極刑に処すぞ!」
「おお、怖い怖い」
しばし睨み合っていた両者だったが、
「「……ぷっ。あっはっはっはっ」」
やがて、仲良く笑い合った。
「あらァん」バルムンクがクネクネしている。「すっかり仲良しね。お姉さん嫉妬しちゃう」
「……とはいえ、余のバストサイズをバラすことはマジで許さぬからな」口は笑っているが、リリンの目は笑っていない。「口外したら、殺すぞ」
「口外したくともできぬように、閣下の異能で縛られておりますじゃ。閣下が『機密』と認定した事柄を口外した瞬間、ワシは死ぬまで眠ることのできない体になりまする」
そう、それこそは【王者の素質】を持つ者にのみ許されし異能【魂の誓約】。
リリンが『機密』と認定した事柄(この場合はリリンのバストサイズ)を、リリンまたは伊能が『信用ならない』と認定した相手(この場合はリリンと伊能以外の全員)にバラした場合、バラした当人の体力・筋力・知力・異能力のすべてを数百倍化させることができる。その代償として、バラした当人は『機密』を知ってしまった『信用ならない相手』全員を殺害するまで、けっして眠れない体になる。
つまり、『一時的に力を授けてやるから、情報漏洩先を殲滅するまで死ぬ気で戦え』というわけだ。【魂の誓約】は職業系最上位異能【王者の素質】に含まれる異能の一つ。王者らしい、実に冷徹な異能である。
【王者の素質】の中にはもう一つの異能もある。それが、配下を心酔させる【魂の隷属】だ。この異能は、心酔した者の体力・筋力・知力・異能力を数倍化させることができる。
『心酔』といっても、上位シングル異能【魅了】のように相手を洗脳する類のものではない。ただ漠然と、リリンの声に心地良さを感じ、リリンのために頑張ってやりたくなる、といった程度の効果だ。【魂の隷属】に溺れることなく、バルムンクを始め、ミドガルズ家にはリリンに言うべきことは言う家臣が揃っている。
かく言う伊能もすでに、【魂の隷属】の効果範囲内にある。そう、伊能はすでに、リリンのことを心から主と認めているのだ。
実際、【魂の隷属】のことなどなくとも、リリンは魅力的な上司であり、命を捧げるに値する主である。母を自身の誕生と同時に亡くし、唯一の家族だった父を若干四歳で亡くしたリリンは、それでも悲嘆に暮れることなく立派に成長し、政務に打ち込み、善政を敷き、今や家臣や民から絶大な人気を誇っている。
(並みの精神力ではない)と伊能は思う。(まったくもって末恐ろしいお方じゃのぅ)
伊能とて、農民上がりから十代で伊能家に婿入りして当主となり、生き馬の目を抜くような過酷な商売の世界を駆け抜け、佐原村の名主として難しい問題に何度も立ち会い、日本全国を恐怖のどん底に叩き落とした『天明の大飢饉』を村民の餓死者ゼロで切り抜けるなど、かなりの数の修羅場をくぐってきている。
が、仮に自分が、若干七歳にして大貴族家の当主となり、領民数万人の命を任され、しかも家は借金まみれで没落寸前だったとしたら。この幼き少女のように、泰然と微笑み続けることができただろうか。
「まったく、エロジジイめが」その精神力の権化が、今この時だけは、ただの少女のように意地悪く微笑んでいる。「聞けばそなた、屋敷の全メイドのバストサイズを把握しておるそうではないか」
「ほっほっほっ。【測量】するのがクセになってしまいましてのぅ。ですが補足しておきますと、男相手でも【測量】しております。バルムンク殿の大胸筋などは、リリン閣下の胸より大きいですぞ」
「余計なお世話じゃ! まったく、哀れな小娘じゃと思うたから拾ってやったのに、とんだタヌキジジイであった。今からでも遅くないから、『白い蛇』の霧の中にでも捨ててこようか」
「そ、それは困りまする」
若干九歳にして、リリンは偉大な領主である。が、やはり年相応なところがあって、異能に対しては、こうして憎まれ口を叩いてくる。きっと、寂しさの裏返しなのだろう。伊能は子育ての経験も豊富なので、微笑ましい気持ちでリリンの相手を勤めている。
(ワシが八つか九つのころなど、右も左も分からぬ鼻垂れ坊主じゃった。リリン閣下は立派なお方じゃ)
「さて。今日は何の用で余に時間を取らせたのじゃ? つまらぬ内容なら許さぬぞ」
「リリちゃん閣下とミドガルズ家に多大な利益をもたらす話よォん。ほら、イノーちゃん」
「はいですじゃ」
伊能がテーブルの上に広げたのは、大きな大きな羊皮紙。ミドガルズ伯爵領を隈なく描いた地図だ。バルムンクに馬を駆ってもらい、伯爵領全土を駆け巡り、その結果を記したものである。
「ふぅん、地図?」身長の足りないリリンが、バルムンクに抱き上げてもらいながら地図を見下ろす。「地図ならすでにあるではないか」
「よォく見てくださいな」
「んー、ん、んんん!? なんじゃこの精緻な地図は!? 水場の位置、開墾に適した地質の土地に、金銀銅・鉄鉱石・岩塩の埋蔵量まで!? バルムンク、いますぐ開拓団を組織せよ!」
「それに、魔物が湧きやすい地点と、最適な大砲の配置もですよォん」
「馬鹿者! イノーにこれほどの有用性があるのなら、わざわざ芝居までして戦わせる必要などなかったではないか!」
「ア・タ・シ、言いましたわよォ~ん。この子の本領はバトルじゃないってェん」
楽しそうにしているリリンとバルムンクを眺めながら、伊能はため息をつく。
「何じゃ、イノー。せっかく余がこうして喜んでやっておるというのに。報酬は期待して良いぞ」
「いえ。その『報酬』が、あっという間になくなってしまったのがたいそう残念でして」
「どういうことじゃ?」
「ワシは、測量が好きです。測量こそが生きる喜び。測量のない人生など、死んでいるようなものです。ワシにとっては、未測量の土地こそが最上級の報酬なのですじゃ。リリン閣下の領土を測量させていただいたこの日々は、まるで夢のように幸せな時間でした」
「お、おう……じゃから、引き続き好きなだけ余の領地を測量させてやると、そう言っておるではないか」
「ですが、閣下の領地はすでに測量し尽くしてしもぅたのです」
「……は?」リリスが目を真ん丸にする。「たったの三週間で測量し終えた、じゃと? くまなく全土?」
「リリちゃん閣下」バルムンクが補足する。「実を言うと、測量自体は一週間とちょっとで終わっちゃったのよ。残りの二週間は地図を描き起こすのに掛かったのォん」
「えーと、待て待て」リリンが頭を抱える。「我がミドガルズ伯爵領は、北から南へ横断するだけでも馬車で丸一日は掛かる」
「はいですじゃ」伊能は頷く。「北端から南端まで五〇キロメートル弱ありましたな」
「南北に細長い我が領は、東西を横断するならざっと馬車で半日弱じゃが」
「はい。一〇キロメートル強でした」
「それだけの面積を、測量し尽くした、じゃと? 一週間で?」
「駿馬でしたので」
「は?」
「バルムンク殿の馬は足が速く、一日のうちに、南北に二往復することができました。そうやって、東端から数百メートルずつ西へずらしながら、南北を十五往復しました」
「はぁ? 確かに我が領の東端からスタートし、数百メートルずつ三十回西へ移動すれば、西端に着く計算にはなるが。馬で駆け抜けただけでは、測量などできぬじゃろう」
「そ・れ・が、できちゃうのよ。イノーちゃんの異能なら」
バルムンクが説明する。伊能の異能【測量】は、彼が視界に収める範囲すべてを即座に測量・地図化できてしまうこと。だから、馬で駆け抜けるだけでも、駆け抜けるそばから地図化が済んでしまうこと。
女神がバルムンクと伊能のコンビによる『馬上測量』の光景を見たならば、きっと『航空写真測量ですか! チートですねぇ』と笑ったことだろう。
「な、なんっ、何じゃと……!? あ、あははっ、余はとんでもない逸材を拾うたのぅ」
「とかく、そんなわけでして」伊能はため息をつく。「ワシはやれることがなくなってしまいました。不肖・伊能三郎右衛門忠敬、測量以外には――」
「うんうん。測量バカから測量を奪ってしまっては、何も残っておらぬじゃろう」
「――天文学、商売、村の経営くらいしかできることがなく」
「……ん? 意外と多才じゃな?」
現状、伊能には『使命』と呼べるものがない。女神からは『好きに生きろ』と言われているし、リリンからも『測量で余のために働け』としか命じられていない。そうして今日、伊能は彼の好きなようにミドガルズ伯爵領を測量し、地図化し終えてしまった。暇である。
「どこぞ、未測量の地はありませんかのぅ」
「あるぞ」
「ほぅ!?」主の言葉に、伊能の瞳がギラリと輝いた。
「じゃが」今度はリリンがため息をつく。「命懸け、というか死ぬ覚悟が必要じゃが」
「詳しくお聞かせいただいても!?」
「『白い蛇』、という言葉を知っておるか?」
リリンがバルムンクに目配せし、自身を床に降ろさせる。彼女は執務机の棚から帝国全土の地図を取り出し、テーブルの上に広げた。再びバルムンクに目配せし、抱き上げさせる。そうしないと、テーブルに広げた地図を見下ろすことができないからだ。
(やはり、仲が良いのぅ)
以心伝心というか、阿吽の呼吸というか。リリンとバルムンクの間には、上司・部下の関係を超えた、曰く言い難い独自の空気感がある。伊能もリリンとはだいぶ打ち解け、『悪友』のようなポジションで憎まれ口を叩いたり叩かれたりさせてもらってはいるが、リリンとバルムンクの間にはもっとこう、長い年月によって積み重ねられた親愛というか、父子の距離感のようなものを感じる。早くに父を亡くしたリリンが、頼りがいのあるバルムンクに父性を見出すのも無理からぬことだとは思うが。
「見よ。ミズガル帝国の中央には、巨大な空白地帯がある」
それは巨大な『穴』だった。大陸で一、二を争う巨大国家である『ミズガル帝国』の国土の中央に、ぽっかりと空いた広大な空白地帯。
領主リリンが、その幼さに似合わないほどの知識量で、滔々と説明を始める。
ミドガルズ家、ヘル家、ムスペル家、ニヴル家、ドヴェル家。『五伯』と呼ばれる武闘派の貴族家たちが、空白地帯をまるっと取り囲む形で領地を構えている。五伯の役割は、空白領域から帝国を守る『盾』。五伯は時に協力し合い、時に牽制し合いながら、空白領域から悪しきモノが漏れ出すのを防いできた。空白の東隣にいるのが『ミドガルズ家』、同家の北隣にいるのがライバル家である『ヘル家』だ。
空白領域は、名を、
『白い蛇』
と言う。
「そなたも見たのではないか? 我が領の西端に延々と続く、果てのない真っ白な霧を」
見た。伊能の異能【測量】でもまったく中が見渡せなかったため、ひどく印象に残っている――というか、有り体に言ってプライドを傷付けられた。
「とぐろを巻いた巨大なヘビのように、延々と横たわる分厚い霧。我が家を含む五伯家はいずれも、霧の向こうの領域を探索できずにおる。理由は二つ」
リリンが指を一本立てる。
「一つはあの霧。高濃度の霧のせいで、視界は真っ白、一メートル先もろくに見通せぬのじゃと言う。命綱無しに入ったが最後、右も左も分からず遭難し、野垂れ死んでしまう」
リリンが二本目の指を立てる。
「今一つは、魔物の存在。あの霧の中には強大な魔物が多数潜んでおって、霧の中に入った者をむさぼり食ってしまう」
リリンが肩をすくめてみせる。
「そんなわけで、『蛇』の中はそなたが望む『未測量領域』というわけじゃ。伝説では、あの霧の向こうには『楽園』があるのだそうじゃ。没落寸前の我が家を立て直すために、ぜひとも手に入れたいが」
「未測量領域!」伊能は目を輝かせる。
「んお、ちゃんと話を聞いておったか? 楽園じゃぞ、楽園。金銀財宝か、肥沃な大地か、物珍しい異能具か。何があるかは分からぬが、ぜひとも我が家で独占したい」
「まさしく楽園ですな! こんなにも広大な土地が未測量とは」
「じゃから楽園じゃと……ああ、そなたにとっては、この寒々しい白地図こそが楽園なわけか」
(『白い蛇』……!)伊能は歓喜に打ち震える。
異世界に渡り、元気な体を得て、【測量】の異能を手に入れた伊能は、まさにこの世の春を謳歌していた。ミドガルズ領を思う存分測量し尽くしたあの一週間は、まさに夢のような日々だったのだ。それだけに、領の西端に着いてしまった際の喪失感は大きかった。嗚呼、もう測量できる土地は残っていないのだ……という虚しい気持ち。喪失感。
深刻なまでの、測量ロス。
(女神様はきっと、『白い蛇』のことをご存知だったのじゃ。ワシに蛇の内側を探索させるために、ワシをこの世界に、この国に、この領に、リリン閣下の元に送り込んでくださったのじゃ!)
測量ロスによって生きる目的を見失いかけていた伊能が手にした、新たなる目的。
前人未到の地『白い蛇』内の、踏破・測量・地図化。
「霧さえなければのぅ」リリンが心底残念そうに言う。「魔物の方は、まだ何とかなるのじゃ。うちには帝国最強の騎士・バルムンクがおるし、実際、定期的に霧の中から溢れ出てくる魔物の討伐にも成功しておる」
伊能は三週間前のことを思い出す。ミドガルズ領軍が戦っていたゴブリンの軍勢。あれこそが、霧の中から溢れ出てきた魔物だったのだろう。
「もし仮に、この未測量領域をすべて手中に収められたなら」
「測量し放題ですな!」
「うむ。支配済みの我が領をそなたに測量し直してもらっただけでも、これほどの膨大な利益――未着手の鉱山の数々や、開拓に適した広大な土地が得られたのじゃ。未だ誰の手も及んでいない『蛇』をそなたの【測量】で精査したなら、きっと金山銀山がっぽがっぽ、肥沃な大地も見つかり放題じゃァ」
「測量したいです! 今すぐ行かせてくださいですじゃ!」
「をいをいをい、余の話を聞いておらなんだのか? 言うたであろう、『霧が濃すぎて前後左右も分からぬ』、『魔物が潜んでいて食われてしまう』と。そんな危険な場所へ、戦闘系異能の一つも持たぬ非力なそなたを行かせるわけにはいかぬ。あっという間におっ死ぬぞ」
(嗚呼、霧さえ晴れてくれたら。お願いですじゃ、女神様……!)
伊能は天に祈った。女神オルディナに。果たしてその願いが聞き届いたのか、
「大変です、閣下!」執務室に、伝令兵が転がり込んできた。気高き領主・リリンがバルムンクに抱っこされている様を目の当たりにし、伝令兵がぎょっとする。
「……こほん」
リリンの咳払いとともに、何事もなかったかのように、バルムンクがリリンをそっと下ろす。途端、リリンの顔が少女のそれから領主のそれに変わった。
「何事じゃ?」
「は、はい!」我に返った伝令兵が、敬礼を一つ。それから、驚くべきことを口にした。「『白い蛇』の霧が、突如として晴れました!」
リリンとバルムンクが驚愕に目を見開く中、ただ一人、銀髪碧眼の美少女――伊能忠敬その人だけが、狂喜の笑みを浮かべていた。そんな伊能が開いている【測量】ウィンドウの右下には、小さく次の文字が記されている。
【踏破距離:一、四八七キロメートル】