壱章「伊能の異能」ノ伍
バルムンクが、剣を振り下ろす――!
(死ぬしかないのか)振り下ろされる刀身を見つめながら、伊能は体感時間が走馬灯のように引き伸ばされるのを感じる。(嗚呼、ミチ)
『アナタは生きて』早くに亡くした妻の言葉が思い出される。伊能の深い深い、一番深いところに刻み込まれている、呪いのような、希望のような言葉だ。『アナタの成したいことを成してください』
(まだ、死ねぬ!)
これが、走馬灯というやつなのか。真っすぐこちらに振り下ろされつつある刀身が、まるで止まっているかのように見える。伊能の中で、先ほどから薄々感じていた違和感が確信を帯びはじめる。
目にも止まらぬはずなのに、なぜか読めたバルムンクの太刀筋。
バルムンクの移動予測地点が『視えた』ような感覚。
そして、壁にめり込まず、『跳ねた』二発目の弾丸。
(【測量】――)
今まで漫然と、視界に映る風景に対して行っていた【測量】の発動範囲を、半径一メートルのみに集中させる。次の瞬間、
――ポロロン♪
『実績解除』
視界の端に、伊能はウィンドウを見た。
『一メートル四方に限定して測量する:単距離完全把握測量【空間支配】開放』
(――【空間支配】!)
研ぎ澄まされた【測量】から生まれた新たなる異能【空間支配】が、バルムンクの太刀筋の未来予測を伊能の視界に映す。さらに、現在の自分の体勢と、どう動けば太刀筋の未来予測から避けきれるかが脳裏に浮かんでくる。
伊能は、そのとおりに動いた。気がつけば、伊能はバルムンクの必殺の一撃を完全に避けきっていた。
バルムンクが、驚愕に目を見開く。それは、バルムンクに生まれた明確な隙だった。すかさず伊能は最後のマスケットを構え、
「【空間支配】!」
異能の発動範囲を視界の前方十数メートルにまで広げ、撃った――バルムンクの『背後』に向かって!
「外したわねェ!?」
再び剣を振り上げるバルムンクの背後で、最後の弾丸が壁に当たって跳弾し、さらに壁や調度品などで幾度かの――計算どおりの――跳弾を経て、バルムンクの後頭部に命中した!
「いったァ~い」と後頭部をさするバルムンク。
「は、ははは……」伊能は、不思議な質感の銃弾を拾い上げる。「最初から殺す気はなかったのですな? この銃弾は?」
「スライム製の非殺傷弾よォん」
「スライム? あぁ、女神様が仰っておられた、魔物の一種ですかな」
「見事じゃァ!」王座で仁王立ちしていた領主リリンが、拍手した。「タダタカ・イノー、そなたを余の従士と認める!」
途端、部屋が万雷の拍手に包まれる。ミドガルズ家の家臣の誰もが、伊能に惜しみない拍手を送っている。
「いや、すまんかったのぅ」幼き領主リリンが王座から飛び降り、伊能のそばまで駆け寄ってきた。背伸びをして、伊能の肩を叩いてくる。「悪いが、試させてもらった。異能使いというものは、今際の際で新たなる力に目覚めるケースが多くてな。許せ」
こうして伊能は衣食住と、ミドガルズ伯爵家従士という職を手に入れた。
◆ ◇ ◆ ◇
「こ、これはどう着ればよいのじゃ……?」
翌朝、伊能は、自身に割り当てられた六畳一間で首を傾げていた。ベッドの上には、すべすべな黒い生地で作られた、謎の布切れが置いてある。リリンのお下がりで、『下着』というものらしい。朝、城で働くメイドが置いていったのだ。
――コンコンコン
「イノーちゃ~ん、着替えは済んだかしらァん?」
将軍バルムンクの声が聞こえてきた。
「相済みませぬ、服の着かたが分からなくてですな。誰ぞ、女性を連れてきていただくことはできますまいか」
「あらァん、だったらアタシが教えてあげるわよォん。アタシ、こう見えても娘が一人いて、小さい頃はお風呂に入れてあげたり、着替えなんかもよくさせてたし。イノーちゃんが良ければ、だけどォん」
「あー……」伊能は天井を見上げる。今の伊能は、銀髪碧眼の美少女だ。だが、心は男。ならば、別に気にする必要はないのでは?
「それに、アタシってばこォんな感じでおとこおとこしてないし。それに、今でもリリちゃん陛下をお風呂に入れたりしてるしね」
「えええええ!? ま、まぁワシも心は男ですし、男相手のほうが、気が楽というものですか。では、頼めますかな?」
「はァい」と言って、バルムンクが部屋に入ってきた。さすがに、鎧は着込んでいない。白いシャツに黒いズボン、といった出で立ちだ。「こっちがショーツ、そっちがブラね」
「ほうほう。しょーつとは、ふんどしの代わりですか。ぶら……ぶらとは何のために存在しておるのですか」
「そりゃ、胸を隠したり保護したりするためよォん」
「ううん……? なぜ、胸を隠す必要があるのですかな?」
「え?」
「え?」
「「……え?」」
「う、うーん……イノーちゃんが以前いた世界とは価値観が違うのかもしれないけど、この国では、女性は普段、胸を他人には晒さないものなのよ」
「ふむ」相槌を打ちながら、伊能は寝間着を脱ぐ。
「ちょっとちょっとちょっと、今の話、聞いてた?」
「いや、だって。脱がねば着替えられませぬ」
「まぁ、それもそうね。はい、これ。そう。ショーツはこっちを前にして、両足を入れて――。次はブラね」
「な、な、な、何ですかな、この奇っ怪な形の着物は? どう着ければよいのか、皆目検討もつきませぬ」
「こうよ!」バルムンクが、がばっとシャツを脱いだ。
「おお! 男でもブラを着けるものなのですね」
「まぁ、アタシのはブラじゃなくて大胸筋矯正サポーターだけどねェん」ブラを外し、『だいきょーきん』とかいう筋肉をピクピクさせてみせるバルムンク。
「おおおおお!」
伊能も男なので、筋肉は大好きである。生前の伊能は、けして肉付きは良くなかったものの、足回りの筋肉だけは異様なほどしっかりと付いていた。伊達に日本全国を旅していないのだ。
「触ってみても?」
「もっちろォん」
などと、男(?)二人でイチャついていると、
「何をもたもたしておる!」
バァン、とドアが開いた。リリンが仁王立ちしている。
「「きゃぁあああああああああああああああああっ!?」」
思わず胸を隠してしまう伊能とバルムンクである。
「さっさと食堂に来い。聞きたいことがいっぱいあるのじゃから。だいたいそなた、中身がジジイのクセして何を恥ずかしがっておるのじゃ。バルムンクまで」
そう。バルムンクの主は領主リリン。当然、伊能のことはTSのことも含めてすべて報告されている。
「って、二人揃って乳を放り出して、そなたらはいったいぜんたい何をしておるのじゃ」
「あ、相済みませぬ。ぶら、とやらの付け方が――」
「まったく、手の掛かるジジイじゃのぅ」
リリンに助けてもらいながら、ブラを着ける。服の方は、着慣れた着物と袴。女神様から下賜された物だ。
「これは……東方から流れてくる服に似ておるのぅ」
「ほぅ!」この世界にも、日ノ本に相当するような文化の国があるらしい。「それは、測量してみたいものですのぅ!」
などと軽口を叩きながらも、伊能はテキパキと着付けていく。肌襦袢、長襦袢、小袖。これに袴を履き、竹光を
こうして、新生・伊能三郎右衛門忠敬のスタイルが完成した。
◆ ◇ ◆ ◇
朝食を摂りながら、リリンから根掘り葉掘り質問された後で。
「では、さっそく見せてもらおうかのぅ!」
ミドガルズ邸の中庭で、仁王立ちのリリンが高らかに宣言した。測量を始めるにあたり、まずは邸宅周辺を測量することになったのだ。
「うおっ、誰だあの美少女!?」
「新入りのタダタカちゃんだよ。なんでも【測量】とかいうユニーク異能が使えるらしい」
「可愛い~~~~!」
「私は昨日の、バルムンク殿との模擬戦を見ていたが。あの娘、侮るべきではないぞ」
周囲には、野次馬――もとい、ミドガルズ伯爵家の従士たちがずらりと並んでいる。TSのことまではわざわざ開示していないが、伊能の異能については、従士たちに明らかにしている。そうでもしなければ、山で拾った年端もいかぬ少女を即日で陪臣の地位に引き上げたことに対して、説明がつかないからだ。それに、この場にいる者たちはみな、リリンを崇拝し、リリンのためなら命を捧げることも厭わないような覚悟のあるものばかり。信頼に足る仲間、というわけである。
「ははっ」伊能はリリンに対して一礼。それから、「【測量】!」
途端、邸宅一円が光に包まれる。
「「「「「おおおおお!?」」」」」興奮する野次馬たち。
光はすぐに収まった。
「して、地図は?」
「ははっ。今、こちらのうぃんどうに見えてございます。残念ながらわたくしめにしか見えないようですが……紙があれば、書き写すことが可能でございます」
「ふむ。では、できるだけ大きな羊皮紙を用意させるとするかのぅ」
「ようひし……?」首を傾げる伊能だったが、女神から下賜された翻訳機能の付随機能が、『この国には紙は存在せず、代わりに動物の皮を使った筆記媒体が存在する』と教えてくれた。「あぁ、羊皮紙! はいですじゃ。羊皮紙があれば、書き写せます」
「よし。では引き続き、測量のため出立せよ!」
「ははっ」居住まいを正した伊能だったが、
「あっはァ~ん。ちょいと失礼」
馬上のバルムンクに、襟首をひょいっとつまみ上げられた。
「うひゃぁっ!?」
十代半ばの美少女にTS転生したとて、これでも身長一六〇センチ強、体重そこそこの体なのに。伊能は、まるで仔猫をつまみ上げられるがごとき気軽さで、馬上に引き上げられた。軍服をぱつんぱつんに押し上げているバルムンクの膂力は、計り知れない。
「では、行って参れ!」
◆ ◇ ◆ ◇
「たーのしぃーーーーっ!」
文字どおり。文字どおり年甲斐もなく、伊能ははしゃぎにはしゃいでいた。バルムンクが、サービスとばかりに馬を襲歩――全力疾走で走らせてくれたからである。
生前、測量の旅に一、二頭の馬を連れて行くことはあった。が、いずれも測量機材や道中の輜重を乗せるためのものであり、伊能が乗ったことなど数えるほどだった。もとより『戯れに』というようなことを許さない厳格な性格であり、飢饉時に私財を投げ売って領民に米を分け与えるほどの善性の権化のような人格者だったこともあり、伊能が馬を私物のように乗り回した経験など皆無だった。ましてや、馬の疲労を考慮に入れず疾走させることなど。
もちろん、バルムンクは愛馬を使い潰すようなことはせず、あくまで愛馬のストレス発散のために、ほんの数分ほど全力疾走させただけだった。が、天のように高い視界で、風のように疾走するという経験は、伊能をすっかり童心に帰らせてしまった。
「うふふ、アタシもよォん。それで、測量はできそう?」
「もちろんですじゃ! 【測量】!」辺り一円――伊能を中心とした、水平線の向こうまでもが光に包まれる。「大丈夫です。このまま、無理のない範囲で馬を走らせてくだされ」
「えええっ!? 今の一瞬で、測量できたのォん?」
「はいですじゃ」
「しかも、記録できちゃったと」
「記録というか、記憶ですな」
「なんとも便利な異能ねぇ!」
「…………?」伊能は、わずかな違和感を覚えた。が、大したことはなかろう、とスルーした。
「それじゃ、測量再開といきましょうか!」再び、馬を走らせはじめるバルムンク。
こうして、『筋肉モリモリモヒカンオネェ』と『銀髪碧眼美少女』という奇妙な二人組は、破竹の勢いで測量していったのだった。