弐章「継続は力なり」ノ弐
【Side 悪徳貴族ヘル伯爵】
一方、そのころ。ミドガルズ伯爵領の北隣に位置し、ミドガルズと同じく『五伯』に数えられるヘル伯爵領――つまり、リリンと今回の『測量戦争』で争い合う間柄の家――では、ヘル伯爵とその家臣たちが悪巧みをしていた。
「ふむ、ミドガルズの小娘が探検隊を派遣したか。早いな」
壁一面を金箔で飾った、贅の限りを尽くした部屋の中央。ふかふかのソファにでっぷりとした体躯を沈み込ませた男が、最上級のワインで唇を湿らせる。金糸をこれでもかと使った趣味の悪い貴族服、すべての指にはめられた大きな大きな宝石付きの指輪、重税にあえぐ平民たちの髪をむしり取って作った立派な巻き髪のカツラ。ヘル伯爵その人である。
「それで、探検隊の隊長は?」
「ははっ」ヘル家の右腕がひざまずく。「最近、ミドガルズ家に拾われた異邦人――タダタカ・イノーという少女です」
「あぁ、例の地図を描いた娘か」
驚くべきことに、ヘル伯爵は伊能のことも、伊能が描いた画期的な地図のこともすべて把握していた。それもそのはずで、ミドガルズ領にはヘル家からの草(スパイ)が多数潜んでいるのだ。
(くっくっくっ、青いなぁ小娘。貴族家に囲われていない異能力者が、そう都合良く転がっているわけがないだろうに)
家の復興のため、リリンは異能力者を探し回っては、手当たり次第に雇っている。そんな異能者の中に、ヘル家の紐付きを紛れ込ませることなど、造作もなかった。結果としてヘル伯爵は、ミドガルズ家の利権の数々に食い込み続け、今もミドガルズ家が得るはずだった利益をむしり取り続けている。部屋を飾る豪奢な調度品の数々も、この美酒も、ミドガルズ家からむしり取った金で得たものだ。
「タダタカ・イノーか。あの娘は良いな。実に良い。あの娘が描く地図は、利益の宝物庫だ。なんとかして引き抜けないものだろうか」
「難しいかと。様々な手段で懐柔を試みてみましたが、まったく靡く様子を見せませんでした」
伊能はまったく気付いていなかったが、この数週間、彼はミドガルズ家の家臣(の皮を被ったヘル家のスパイ)から数々の勧誘を受けていた。が、スパイたちが提示する利益(多額の金銭、高い地位、美丈夫などなど)に伊能がまったく興味を示さなかったため、ヘル家の右腕は匙を投げたい心地だったのだ。
「今回の測量合戦は、まさしく戦争になるだろう。『測量戦争』において、タダタカ・イノーの異能【測量】は、一騎当千にも匹敵する脅威だ。何としてでも排除しなければならん」
ヘル伯爵がワインを飲み干す。その瞳には、人を人とも思わない残虐性が宿っている。
「手に入らないのなら、事故に見せかけて殺してしまえ。あの哀れな小娘の父――先代ミドガルズ伯爵を、そうしたように」
◆ ◇ ◆ ◇
『白い蛇』内領域。鬱蒼と生い茂った森の中にて。
「【測量】――正面、十八メートル先の木陰に反応アリですじゃ」伊能は眼前にウィンドウを表示させる。「四足歩行。大きいですじゃ。体高二メートルはありまする」
「ビッグボアね。今夜はしし鍋かしらァん」
そう言って笑った瞬間、バルムンクの姿がブレた。伊能が目で追えない速度ほどので、走りはじめたのだ。フルプレート鎧を着込んだ巨体による強烈な踏み込みで、地面の土が『どっぱぁん』とめくれ上がる。
三秒後、
――ピギャァアッ!
と、森の奥から魔物の断末魔の叫びが聞こえてきた。
「いやはや、本当にすさまじい」草木をかき分け、バルムンクの元へ向かった伊能は、感嘆の声を漏らした。「これほどの巨大な動物を、輪切りとは」
輪切り、という言葉のとおり、体高二メートル、肩幅一メートルの化け物じみた――事実化け物なのだが――巨大なイノシシが、まるで大根でも切ったかのようなありさまで六等分されていた。
「そりゃ、オヤジは帝国一の騎士だからな」彼の娘・カッツェがない胸を張り、
「か、閣下の武勇は帝国中に轟いております」銃士のカスパールが何度も頷く。
「すごいのはイノーちゃんの方よォ」当のバルムンク本人は、驕るでもなく穏やかに微笑んでいる。「こんな、数メートル先も見通せないような森の中で、ここまで正確に索敵できるだなんて。アタシが先制攻撃で簡単に魔物を仕留めることができているのは、イノーちゃんがいてくれるからこそなのよ。ねェ、カッツェ?」
「ちっ……そうだな。悔しいけど、認めるぜ」話を振られたカッツェが、頬を染めながらそっぽを向く。「正直、ジジイさえいれば索敵は十分さ」
『白い蛇』領域内の探検を始めてから、三日。当初はツンツンしていたカッツェも、今や伊能の【測量】に全幅の信頼を置いているようだ。
「森での進軍っていったらお前、いつ遭遇戦になってもおかしくねぇから、もっとピリピリビクビクしながら進むもんだってのに。これじゃまるでピクニックだぜ」
カッツェは異能力者である。その異能は、職業系異能の【斥候】。ありふれた異能ではあるものの、【聞き耳】、【遠見】、【気配察知】、【悪路踏破】、【木登り】など、斥候を務めるうえで便利な異能を多数そろえている優れものだ。
そんな、『索敵専門職』とすら言えるカッツェですら認めざるを得ないほど、伊能の索敵能力は突出していた。
そして、カッツェが伊能のことを『ジジイ』と呼んだとおり、伊能はカッツェとカスパールにも『てーえす』の事実を明らかにしていた。カッツェが伊能のことを認めるようになった理由の一つに、見た目はどうあれ、中身は自分より遥かに年長者だということがあるだろう。
「ちょうど食料も手に入ったことじゃし、今日はここで野営にしましょうぞ」
伊能の号令で、各々が動きはじめる。
「じゃあ、アタシはビッグボアを捌いちゃうわねェん」
「俺様は見回りついでに木を集めてくるぜ」
「で、では、ワタクシは祈りを」
「やいやいカスパール、この根暗野郎」カッツェがカスパールに噛みつく。「てめぇ、クソの役にも立たねぇ経を挙げる暇があったら、野営の準備を手伝いやがれ」
「ヒッ、でででですが、メシア教徒にとって、毎日の祈りは欠かすことのできない大事な勤めでして」
「まぁまぁ」伊能がカッツェとカスパールの間に割って入る。「ではカッツェ、見回り頼みましたぞ。カスパール殿は、祈りが終わったら一緒に手伝ってくださるな?」
全方位にツンツンしているカッツェと、宗教バカなカスパール、そしてマイペースなバルムンク。個性的な仲間たちは、ちょっとしたことで対立しがちだ。その都度、仲裁に乗り出すのが伊能の仕事である。もとより名主(江戸時代における村長のような役職)や探検隊隊長としての経験が長い伊能は、折衝ごとには慣れている。
伊能がカスパールと一緒に野営の準備を進めていると、やがてカッツェが戻ってきて、野営が始まった。伊能の仕事はかまどの作成と火起こしだ。三日目ともなれば、慣れたものである。
「もう三日になるけど」バルムンクが鍋をかき回しながら尋ねてきた。「体は大丈夫かしらァん、イノー隊長閣下?」
料理はバルムンクが作ってくれる。魔物の退治・解体に食事の世話までしてもらって、伊能はバルムンクに頭が上がらない。
「なんのなんの、まだまだ平気ですじゃ。バルムンク殿のお陰で楽をさせていただいておりますゆえ」
「だァから逆だってェん。イノーちゃんのお陰で、索敵も測量もすっごく順調なんだから」
この三日で、『白い蛇』を奥へ奥へと三〇キロメートルほど進んだ。ミドガルズ伯爵領内を一日二〇〇キロメートル進んでいたころに比べれば亀のような歩みだが、これが限界なのだ。いや、伊能の【測量】がなければ、一日数キロ進めるかどうかも怪しい。何しろここは、どれだけ進んでも鬱蒼とした森が続き、獣道すらないようなありさまなのだ。
「食べ終わったら寝ちゃいなさいな。後片付けはアタシたちでやっておくから」
「かたじけない」
◆ ◇ ◆ ◇
「――ふがっ」
明け方、伊能は木にもたれかかった姿勢で目を覚ました。あれから夜中に起こされ、見張りを交代したところまではしっかり覚えているのだが、その後の記憶が曖昧だ。
「いかんいかん。居眠りするところじゃった」
立ち上がり、うーんっと伸びをする。がっつり寝入っておきながら、そんなことをひょうひょうと言ってのける。こういう図太さもまた、伊能の持ち味の一つである。肝が太くなければ生きていけない、過酷な人生だったのだ。
「【測量】――ん?」
ルーチンとなっている異能による索敵を行い、伊能は違和感を覚えた。
(人型の反応。ワシらを取り囲むように、十。囲まれておる。ゴブリンよりも背丈が大きく、身なりも良い。オーク? いや、オーガというヤツじゃろうか)
さりげない足取りでバルムンクに歩み寄り、そっと肩に触れると、
「敵?」剣を抱いて木にもたれかかっていたバルムンクが、即座に目を開いた。囁き声で、「イノーちゃんは、静かにみんなを起こして」
「数は十。オークか、さもなければオーガですじゃ」
「ならいいんだけど……嫌な予感がするわね」
伊能はカッツェのそばに歩み寄り、毛布を掛けなおしてやる振りをしながら、カッツェにそっと耳打ちする。いくさ慣れしているのか、カッツェも即座に目覚めた。
続けてカスパールも起こそうとしたその時、伊能が眼前に表示させているウィンドウ(伊能にしか見えない)で動きがあった。敵が、包囲網を狭めはじめたのだ。
伊能は慌ててバルムンクにアイコンタクトを送る。バルムンクが小さく頷いた。
明け方の襲撃戦が始まる。
◆ ◇ ◆ ◇
「ぎゃッ!」
最初に悲鳴を上げたのは、敵の方だった。敵の一人が姿を現した瞬間、木陰に潜んでいたバルムンクが敵の腕をつかみ、勢いよく引き倒したのだ。そのまま、バルムンクが敵の首を掻き切ろうとしているのを見て、
「ダメじゃ!」伊能は悲鳴にすら近い声を上げた。「殺生はいかん。絶対にいかん」
驚くべきことに、『敵』は人間だった。薄汚れた旅装に、不釣り合いなほど手入れのいきとどいた剣。
(賊のたぐいじゃろうか? いずれにしても)伊能はバルムンクの腕にすがりつく。(人が死ぬところなど見とうない。もう二度と)
「ちょっとちょっとォん」苦言を呈しつつも、バルムンクはすみやかに剣を収めた。敵を締め上げ、敵の剣を遠くへ蹴り飛ばすことで相手を無力化する。「ちゃんとプランはあるんでしょうね?」
「【測量】――こっちですじゃ!」盗賊の包囲網の隙を見つけて、伊能は走り出す。
その頃にはもう、カッツェがカスパールを起こしていた。カッツェが寝ぼけ眼のカスパールを引っ張って伊能に追従する。
バルムンクは気絶した敵を盾にして、残る九人からの遠距離攻撃を警戒しつつ
「カスパール、ジジイにピッタリ付いて行け! 走れ走れ走れ!」
「か、かかかカッツェ殿はどうなさるので!?」
「俺様はオヤジとジジイの連絡役さ」
伊能が【測量】を駆使し、盗賊の包囲網をかいくぐって森の中を先導する。
追従するのはカスパール。無我夢中で伊能を追いかける。
数十メートル後方で殿を務めるのはバルムンク。遠距離攻撃は敵の一人を生きる盾にして牽制し、接近戦を仕掛けてきた敵は剣の『腹』で叩きのめす。現在の指揮系統上、最上位にいる伊能隊長が『殺すな』と命じた以上、十対一だろうが命令を愚直に遵守するのが軍人の流儀だ。
斥候少女カッツェは、そんな父と伊能のちょうど中間地点に立ち、双方を見失わないように細心の注意を払いつつ、父がこちらを見失わないよう、必要に応じて短く声掛けをする。父がピンチになったときには、クロスボウで援護する。伊能隊長の不殺命令は聞こえていたので、敵の腕や脚を狙ってだ。
父娘の絆が成せる技か。ぶっつけ本番にしては、奇跡とすら言えるほど芸術的な連携だった。
一方の伊能は、なにも闇雲に逃げ続けているわけではなかった。左右を崖に囲まれた狭隘な谷間を見つけて飛び込み、走ることしばし。やがて絶好の木を見つけ、よじ登りはじめる。
「い、イノー隊長、ははは早く!」カスパールが伊能を押し上げながら、自身も木に登る。「そ、それで、これからどうするので?」
「敵は一直線。こちらは高所を取った。となれば当然、狙撃ですじゃ」
天才銃士カスパール。リリンから受けた説明によると、彼は狙撃に関する天賦の才――シングル系の最上位異能【魔弾】を持っているのだという。【魔弾】は、『撃てば必ず当たる』という、世界中の銃士や弓手が喉から手が出るほど欲しがる異能だ。
狭隘な地形にカッツェが、続いてバルムンクが飛び込んできた。二人を追いかける盗賊たちは、自然と一列になる。こちらは高所かつ【魔弾】持ち。対する敵は『さあ撃ってください』とばかりに整列している。もはや戦闘ではなく、射撃訓練、いや、競技である。
だが、この圧倒的有利な状況は偶然手に入れたものではない。【測量】を駆使した伊能が、この短時間で絶好の狙撃ポイントを探し当てた結果の勝利である。
「ふふふ、勝ち申したな。さぁカスパール殿、撃つのです」
「う、撃つって誰がですか?」
「え? そりゃカスパール殿に決まっておりましょうぞ」
「わ、わわわワタクシ、人が撃てないんです!」