賢者エミリルの試練
賢者を信じて魔王が去ったあと、残された賢者は氷漬けになった勇者の足元の地面に防御魔法陣を描き始めた。日が暮れて暗くなり始めている。夜になって夜行性の魔物が動き出し氷の彫像状態の勇者を齧られたら厄介だ。肝心の蘇生魔法の魔法陣は、邪神様の神殿の中に描くつもりだった。とりあえず、今夜は勇者たちの肉体を守り、明日、日の出とともに神殿に運んで、明日の夕刻までに蘇生魔法を成功させて、生き返った勇者たちと一緒に魔界を出ていくつもりだ。だが、問題は生き返らせた勇者たちが、素直に撤退を聞き入れるかどうかだった。魔王にしてやられて、おめおめ逃げ帰っては勇者の恥と思うかもしれない。
最悪、もう一度魔王に挑むと言い出して、パーティー全員玉砕もあり得る。
この魔界を目指した時から、死ぬかもしれないという覚悟は賢者もしていたが、無謀に挑んで無駄に散るのは違うだろう。だが、しかし、勇者たちを送り出してくれた国王たちの期待を裏切っての撤退が、正しいと言える自信は賢者にもない。命惜しさで臆病になっているのかもしれない。地面に防御呪文を描きながら賢者は悩んでいた。
そして、魔法陣を書き終えると神殿の方に野営用の荷物を運び、一人で、夕食の準備を始めた。神殿の中は静かで、先代勇者が壊したらしい邪神像の残骸が転がっている以外は、それほど荒れてはいなかった。簡単なスープを作り、腹を満たすと、神殿の床にチョークで蘇生のための魔法陣を描き始めた。蘇生魔法の魔法陣は複雑であり、外のごつごつした地面では書きにくいので、神殿内に描くことにしたのだが、それは正解だったようで、幾何学模様の複雑な魔法陣を三人分、夜が明ける前に描き終えることができた。
「とりあえず、一休み」と賢者は、その魔法陣のそばで仮眠することにした。
ふと目が覚めたときには明るくなっていた。少し寝過ごしたかと慌てて起きると、勇者たちの彫像の方に向かった。すると人狼と偽っていた魔王がバケットを片手に勇者の足元の魔法陣を眺めていた。気が変わって、夕刻前に勇者の彫像を壊しに来たかと、賢者が緊張する。
「ふむ、我らと呪文の文字はあまり変わらぬな。人間界と魔界が、元は一つの世界だったというのは、本当のことのようだな」
魔王は、賢者の描いた魔法陣から色々と推測していた。その防御魔法陣を強引に破ることは魔王たる彼には造作もなさそうだったが、壊さず、じっと観察した。
「うむ、獣よけか・・・」
その魔法陣の意図を理解する。
「ま、魔王、彼女から離れなさい!」
「ん?」
怯えつつも動けない勇者を庇うように賢者が、魔王と彫像の間に割り込んだ。
「おいおい、勘違いするなよ、夕刻まで待つと言った約束は守る。ただ、人間界の魔法陣は珍しいので見させてもらっていただけだ。我ら魔界の呪文と人間界の呪文には共通する点が多い。興味深いと思わないか」
「私は勇者を守る賢者、さっさと離れて」
「うむ、分かった」
魔王は降参と両手を上げながら後ろに下がった。
「だが、早く蘇生させろよ、夕刻まで、ここにいたら、本当に砕くからな」
「分かっています。蘇生魔法の魔法陣は、もうあの神殿の中に用意しました。あなたは、そこを動かないで」
「はい、はい」
俺は、手近な岩の上に腰を下ろした。
すると賢者は、一人で氷の像を運ぼうとし始めた。
何とも危なっかしい仕草だった。勉強はできるが体力はないようだ。
「あ、危ない」
ドサッ、ボキっ。
倒れた勇者の腕がぽっきりと折れた。
「たく、しょうがない」
魔王は苦笑しつつ賢者に近づき、持っていたバケットを差し出した。
「朝一で一番近い街で買ってきたパンだ。亜人と人間は食うものがほとんど同じだろ? お前は、この焼き立てパンでも食って見てろ。俺が運んでやる」
「え?」
「せっかく見逃してやると決めたのにこのままでは、仲間の手で勇者が粉々になりそうなのでな。神殿の中の魔法陣まで運べばいいのだろ」
俺は勇者の折れた腕と身体を楽々と担いで運び始めた。魔王としては甘いかもしれないが、弱い奴を倒して威張るのも魔王らしくないとは思う。
賢者は迷ったが、一人では魔王の言葉に従うしかなく、バケットの中を覗いて香ばしいパンの香りにぐぅとお腹が鳴りそうになった。
昨夜、簡単なスープを食っただけであり、また、魔界に来てからしっかりとしたものはまだ食っていない。
賢者はおとなしく、本当に焼き立ててでまだ暖かいパンを口に運びながら、仲間を運ぶ魔王を見守った。魔王は本当に素直に神殿へと勇者たちを運んだ。最後の魔導師を運ぶとき、賢者はパンを食べながら魔王の後について神殿に入った。先に運ばれた勇者と女戦士が、魔法陣の中に鎮座していた。しかも、折れていたはずの勇者の腕がもとに戻っていた。
「ほい、これでいいか」
魔導師を最後の魔法陣に置き、魔王が賢者に確認する。
「は、はい、ありがとうございます」
「礼などよい、強くなって、我に再び挑んでくるのを期待しているだけだ」
「では、あの、蘇生魔法を行うので・・・」
「ん? 見学してたら、まずいか?」
人間界の蘇生魔法には興味があった。
「我らの神を降臨しますので・・・」
「なるほど、邪神様の使徒である我がいては、都合が悪いと。分かった、外で待っていよう」
俺は大人しく、神殿の外に出ることにした。蘇生魔法は、基本自然の摂理を捻じ曲げて魂を呼び戻す魔法であり、神聖魔法と呼ばれる神の奇跡に近い。我ら魔界の蘇生魔法も邪神様のお力を借りて、黄泉の門を強引にこじ開けるのが基本である。この魔界に、勇者を守護する神が降臨できるかどうか分からないが、魔王である俺がそばにいたら、成功の確率が下がるというのも理解できる。
だが、この目で見てみたかったなと、神殿から感じる邪神様とは違う別の神の気配に好奇心がそそられる。
「魔王様あぁぁ・・・」
「ん?」
呼ばれて空を見上げると、吸血姫の背に乗ったねこみみメイドがいた。彼女は俺の姿を確認すると猫のようにシュッと吸血姫から飛び降りた。
「魔王様、ご無事でしたか?」
「なんだ、勇者ごときに俺がやられていると思ったのか」
「いえ、でも、お怪我はないようで、本当に良かった」
ばさりと黒い蝙蝠の羽を閉じながら吸血姫も、俺のそばに降り立つ。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・・」
「大丈夫か、俺より、そっちの方が満身創痍のようだが」
「お姉さまに頼まれて急いで飛んできましたから」
「お姉さま?」
「私の妹分になりましたので。それで、あの、魔王様、申し訳ありませんが、疲れているこの子に,血を分けてあげてくれませんか?」
「俺の血を?」
「はい・・・」
「お願いです、魔王様、ここまで飛んでくるのにだいぶ力を使い果たしてしまって・・・」
俺の命を狙ったことなど忘れたように従順そうに吸血姫がねだってきた。
こいつ、どんな調教をこの子にしたんだと、俺はねこみみメイドを見たが、しれっとした顔をしていた。
「ま、よかろう、俺の血でいいのだな」
「は、はい・・・」
すっかりのどがカラカラだった吸血姫は俺に抱きつくように首筋に噛みついてきた。俺の血を吸うたびにビクビクと歓喜するように身をよじらせていた。
「お、美味しい・・・」
「おいおい、俺を干からびさせるまで飲むなよ」
そして、満足するまで血を飲むとようやく俺から離れると、急に膝をついて震えだした。
「おいおい、俺の血が毒だったなんて言い出すなよ」
「い、いえ、魔王様の魔力が濃くて・・・」
目の前で、少女だった吸血姫の肉体が、一気に成熟するように成長した。
「大人の階段を一気に駆けのぼったというところかしら」
ねこみみメイドが面白いものを見たという感じで笑っていた。こうなることを何となく予見して吸血姫に俺の血を吸わせたような策士のような顔をしていた。
「おい、大丈夫か?」
魔王の血を吸った吸血鬼がどうなったか、詳しく記した文献はなかったはずだが、魔王の血には膨大な魔力が含まれていて、それが吸血姫の肉体を大きく成長させたのは間違いないようだ。