勇者フォセリアの受難
魔界と人間界を繋ぐのは細くて深い洞窟である。
不思議なことだが、どちらの世界も深く地下に下りることで辿り着く世界だった。たぶんどこかで空間がねじれ、全く別の異世界にお互い通じているのだろう。故に、人間界と魔界は大軍同士の大きな戦争はなかった。
だから人間は、自分たちの最強の戦士である、勇者と呼ばれる猛者を魔界に送り込み、度々魔界を脅かしていた。魔界では勇者は危険人物の代表格であり、勇者の歩くところ、魔物一匹いなくなるというのは、昔から良く知られた魔界の常識である。
勇者進撃の報を受けて、魔王軍の猛者たちの酔いはさめた。俺が思わず突き飛ばした淫魔将軍も腹を立てている様子はなく、真顔になり、いつのまにやら武骨な甲冑を身に付け直していた。
なんて、間の悪いタイミングだ。
魔界では、いつでも来いと人間の勇者には備えてはいた。だが、此度は、不死の軍と対峙するため魔王軍全軍がここに集結したため、運悪く手薄になった魔界を蹂躙するように勇者一行は魔王城を目指して突き進んでいるようだ。
「皆の者、済まぬが勝利の宴は、ここまでだ。急ぎ、この場を撤収し、各々の地を死守せよ」
「は!」
勇者に一族を皆殺しにされてはたまらんと全軍迅速だった。
「陛下は、どこへ」
「足止めぐらいはしてくるさ。なに、魔王自ら勇者を倒してしまっても構わんだろ」
俺は、心配そうな顔をする淫魔将軍に笑い掛けた。一口に勇者と言っても、未熟な若者から武芸を極めた老練な達人まで様々だった。故に、魔王に返り討ちに会った勇者も多く、また逆に討ち取られた魔王も多い。
さて、俺はどちらになるか。
強い奴と戦うのは嫌いではない。
むしろ、魔王として強くなりすぎて退屈していたところだから、俺個人としては勇者来訪は好ましいことだった。
「陛下、おひとりでいかれるのですか?」
淫魔将軍が、不安そうな目を向けて来る。
「俺一人では不安か?」
「さすがにおひとりでは・・・」
「俺に倒せないなら、数をそろえても無駄だろう。違うか?」
「は、はい・・・」
「では、後は任せた」
俺は勇者の元へ行くことにした。もちろん、走ってである。我が健脚ならば、空を飛ぶよりも速いのだ。
「全軍、撤収。各自、各々の持ち場を死守せよ」
俺を見送った淫魔将軍の号令のもと、宴の片付けもそこそこに、武具以外の不要なものは捨て置いて各地に散っていった。オーガやトロルは縄張りである魔界の森に。ダークエルフも魔界の奥深く黒い森の自分たちの里の守りを固めるために散っていった。
魔界の町を守るのはけもみみの亜人種とゴブリンで、淫魔将軍は魔王城へ帰還することにした。
勇者に対する戦略は昔から、自分たちの種の住んでいる地域に引きこもり、勇者がやって来たら迎撃するというのが基本だった。これは、勇者の実力がピンキリのためであり、また神の加護を受けた勇者の強力な魔法で一気に薙ぎ払われるのを避けるためであった。かつては、魔界の共通の敵である勇者に対して海と陸の魔物が共闘した歴史もあったようだが、ひとまとまりになったところを勇者の神聖魔法で、焼き払われたという伝承もある。なので、勇者相手に戦力集中は命取りになる可能性があるので、各々散った訳である。
さて、魔王軍が各地に戦力分散を行っている頃、勇者一行は魔界の魔物と戦っていた。巨大なカマキリの群れと遭遇し、勇者と女戦士が前衛としてカマキリを抑え、その間に後衛の魔導師と賢者が攻撃魔法を詠唱していた。強力な魔法ほど詠唱に時間がかかるし、詠唱者が無防備になるので、前衛の勇者と女剣士は一匹も通さぬとカマキリの緑の返り血を浴びながら奮戦していた。勇者に剣士、賢者に魔導師も全員女性という偏ったパーティーだった。パーティーを束ねる勇者が女性だったので、同性の方が仲間として気が楽と自然に同性の手練れが集まったという感じではある。
「放て!」
「行け!」
賢者と魔導師が同時に詠唱を終え、カマキリをすべて焼く紅蓮の業火を放った。
松明が燃え尽きるようにカマキリたちは一瞬で燃え上がり、木炭と化した。
「ふぅ、終わった」
勇者が、焼けるカマキリたちを見て一息つく。
「くさっ・・・」
女戦士は自分についた緑の返り血の臭いを嗅ぎ、顔をしかめていた。
「本当、どこかで水浴びできて一休みできるところはないかしら」
魔界に疎い勇者が、賢者の方を見る。
「さて、魔界にも町があるとは聞いていますが、それがどこかまでは」
知識を蓄え、賢者になった少女も、首を傾げる。
「川でも探しましょう。それとも、私の水魔法でも浴びますか」
魔導師がにっこり笑う。
「いや、いや、あんたの魔法は強すぎるから、どこかに流されちゃうでしょ」
魔導師の提案に勇者が苦笑する。
「水浴びできる川を探しましょう」
そう勇者が決断した時だった。ひとりの美青年がふらりと彼女たちの前に現れる。
「なんか騒がしいから飛んできてみたら、あんたら見かけない顔だね。何者だい?」
「そっちこそ、何者よ。いきなり現れて」
「俺は、人狼のベルゼットだ」
「人狼?」
人狼と聞き、眉をしかめる。魔界で人狼とはすでに戦っているが、目の前にいるのはどう見ても普通の男性だった。
「なんだよ。俺の顔になにかついているかい?」
「人狼のくせに丸腰なの?」
「あんたら、どこから来たんだい。人狼で武装してるのは魔王軍に所属している兵士だけさ、普通の人狼は、昼間はおとなしくて、ただの人間そっくりなんだぜ」
「なるほど、あんたは魔王軍とは無関係のただの人狼だと?」
「ああ、そうさ、あんたらこそ、魔界の人には見えないけど、何者だい?」
「我らは、神に選ばれた勇者一行だ。邪悪な魔王一党を懲らしめに来たんだ」
「勇者一行? へぇ、人間界の勇者さんかい? で、魔界の住民である俺も殺すかい」
無残な炭と化したカマキリたちをちらりと見て、ベルゼットは肩をすくめて苦笑した。
「いや、いや、あんたは無害そうだ。大人しく町まで案内してくれたら何もしないよ」
勇者が友好的な笑みをこぼす。
「町、ねぇ。この辺りに、人間様が泊まれるような町はないぜ。飛竜でも持ってるなら、ひとっ飛びで行けそうな町は知ってるけど」
「歩いて行ける範囲で水浴びできて一休みできるようなところがあればいいんだけど」
「それなら、この近くに放置された邪神様の神殿がある。池の近くだから水浴びもできるぜ?」
「邪神の神殿?」
「いまは、ただの廃墟だよ。数十年ほど昔、勇者の襲撃を受けて闇司祭様が殺されて、それから放置されてる。なんでも勇者たちが浄化したとかで、邪神様の銅像とかぶっ壊されて、信者が寄り付かなくなって寂れたって話だ」
「先代の勇者が、浄化した場所ね。そこへ案内してくれる?」
「いいけど、タダじゃいやだぜ。無償で勇者の手助けしたなんて魔界で知られたら生きていけねぇからよ」
「なるほど、それもそうね」
勇者は気前良く、金貨を十枚ほど差し出した。
「これで、どう? 足りないって言うのならだいたいの位置を教えてくれるだけでいいわ」
「いやいや、お客さん、魔界ってのは欲望第一で、これだけいただけるならよろこんで、ご案内しますよ」
にこやかな顔をして金貨を受け取り、神殿まで勇者たちを案内する。
湖畔に立つ神殿は、魔界の住人から見たら邪神様の威厳溢れる建築物だが、人間の勇者たちから見ると薄気味悪い建物だった。
「とりあえず、雨風はしのげそうね」
「外で野営するよりはマシってところね」
「邪悪な気配は感じません。先代の勇者一行が二度と魔物が近づかないように浄化されたのは本当のようです」
勇者一行が好き勝手な感想を述べているのを聞いてからベルゼットは、さっさと退散しようとした。
「じゃ、俺はこれで」
「待て」
勇者と女剣士がほとんど同時に剣を抜いた。
「な、なんだよ、おい」
「貴様が、ただの人狼だと、ふざけるな」
女剣士が睨む。
「そうそう、あれだけ見事に気配を消して、私たちに一瞬で近づいた。只者じゃないのは先刻承知」
勇者も聖剣の切っ先を向けながら言う。
「我らがここに野営するのを確認して仲間を呼んでくる腹か」
「魔界じゃ、勇者の首を取ったら英雄扱いらしいじゃない?」
「なんだ、ばれてたか」
俺はハハハと笑った。
「只者ではないと分かっているなら、不意打ちで一気に狙ってくれば、勝ち目もあったろうに」
「不意打ち? 勇者がそんな卑怯な真似するか」
「うむ、だが、魔王相手に、それが唯一の勝機だったと思うぜ」
「魔王!」
勇者が、俺に聖剣を突き立てようとしたが、ピシッと動きが止まった。その顔に白く霜が張り付いていた。血の一滴まで完全に凍らせたのだ。氷の彫像となった勇者を憐れむように見る。
「悪いが、魔力の少ない人間には、魔法の発動に呪文の詠唱が必要らしいが、生まれたときから魔力にあふれている魔界の者には、星を落とすような大規模魔法以外呪文の詠唱は必要としないんだ。知らなかったかい?」
俺は唯一氷ついていない賢者の娘に語り掛けた。
「全員を凍らせたつもりだけど、お嬢さんは、咄嗟に無詠唱で防御したようだね」
「は、はい・・・」
勇者、女剣士、魔導師が氷の彫像になった中で唯一、賢者の娘だけが無事だった。
「俺の魔法を一瞬で防ぐとは、相当鍛錬したのだろうね、お見事。素晴らしいよ」
賢者は魔法には優れてはいるが、武芸はてんでダメである。つまり、丸腰で、凶悪な魔王と対峙しているのであるから、その声が震えるのは当然である。
「ど、どうも、です・・・」
「それだけ魔法を極めているのなら蘇生魔法も使えるな」
「は、はい・・・」
賢者は、余裕の魔王の言葉にうなずので精一杯だった。
「なら、こいつらを蘇生させたら、すぐ、この魔界を立ち去れ、それが約束できないなら、お前を殺す。お前が死ねば、この勇者は、ここで終わりだろ?」
「つまり、我らを見逃してくれると?」
「こんな瞬殺できる勇者を倒す趣味はない。今日の敗北を糧に、さらに強くなって、俺に挑んで来い。とりあえず、今回は引け。それができなければ、殺す」
「あの、蘇生には、時間がかかるので、できれば、我らの撤退は明日の夕刻までお待ちできませんか」
怯えつつも賢者が提案する。
「うむ、良かろう。明日の夕刻までに魔界を立ち去ろうとしなければ、今度こそ、魔王の名のもとに処す。それで、いいな」
「はい」
賢者の娘は潔く、自分たちの負けを認め頷いた。