バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

 副顧問ではあるけれど、一応部活を担当していることもあって、時々生徒の練習を見て欲しいと言われることもある。

「この曲は混声三部合唱がポイントなんで、もっとそれぞれの声をよく聴いて、バランスよく声を出した方がいいんじゃないかと」

 来月の初旬に、運動部で言うなら新人戦にあたる、1年生と2年生のみの編成で小さなコンクールに出場することになっていて、その大詰めの練習を見て欲しいと言われたのだ。
 顧問を受け持つ|貴船《きふね》は国語の教師で、音楽教師ではないけれど、中高と合唱の名門校の合唱部出身だということで、彼女は割と楽し気に指導をしているらしい。
 ただ、仕上げの部分になると不安になるというので、こうして本番直前になると練習に呼ばれることがある。
 普段の僕は生徒たちから、「お堅いこずえちゃん」だとか、「融通が利かなくて怖い」だとか、こそこそ言われているような教師なので、どんなダメ出しが出るのかと、場の雰囲気が緊張して|澱《よど》んでいるのがわかる。
 実際、僕は解決すべき問題をオブラートに包んで、自分をやさしく見える方を優先させるような打算的なことは出来ないので、結局きついことを毎回言ってしまい、うっとうしがられるのも無理はないのだろうけれど。

「なるほどー……。他にここはこうした方が良いなぁ、とかあります? それか、ここが良かった! とか」

 貴船は僕の方を振り返りながら訊ねてくるが、その後ろに並ぶ生徒たちはあからさまではないけれども、早く僕の指導を終えて欲しそうにしている。合唱の指導のついでに、生活指導や、制服の指導まで始まるんじゃないかと思われているのだろう。
 普段ならその空気に圧されるように口を塞がれ、「ないです」と言って終わりにするのだけれど、今日はもう一言添えたい気分だった。

「そうだなぁ……人数の関係だろうけれど男声がもう少し出たら、より曲の土台がしっかりする気がするな」

 合唱部の男子部員は希少で、うちの学校でも10人もいない。その少数に話の矛先が向いたので当人たちはさすがにあからさまに、俺らのせいかよ、と言いたげな顔をする。
 普段なら、そんな相手の気分を悪くするような言葉だけを言い置いて出て行くところなのだけれど、今日はそこで終わらなかった。

「人数が少ないけれど、ひとりひとりはよく出ていると思うので、本番はそれを120パーセントにできるようにしたらいいんじゃないかと。男子に限らず、全体的に。あと、歌の世界観がよく表現できていると思うから、このままで行けば大丈夫かと」

 合唱の出来栄えを、はっきりとわかりやすく良いように評価したことがいままでほとんどなかったせいか、大丈夫、と発してすぐに部員も貴船も言葉を把握できないようにポカンとしている。

「それは、いまの状態は悪くないということですか?」

 恐る恐ると言った感じで、指揮を担当していた女子生徒が手を挙げて訊ねてきたので、うなずいて答えると、一同はどよめくのを通り越した歓声のような声をあげて驚いていた。

「こずえちゃんが褒めた!!」
「いや、こういうのはデレたって言うんじゃない?」
「え、これってイケるってことじゃない?」

 まるで優勝が決まったかのような騒ぎぶりに、僕の方がたじろいでしまったのだけれど、普段見慣れない僕の言葉での喜ぶ姿に、頬が緩みそうになる。
 顧問の貴船としては、僕の一言がプラスに効いて、生徒たちのモチベーションが上がったことでホッとしたらしく、こちらの方があからさまににこにことして安堵している。「春日井先生ありがとうございますぅ」なんて、露骨すぎやしないか?
 そうは言いつつも、自分の言動で誰かが喜んでくれるなら、こちらも嬉しいので悪い気はしない。
 「じゃあ、本番頑張って」と言って指導を切り上げて体育館を出ていくと、はっぱをかける貴船の声とそれに対する元気のいい返事が聞こえ、やがてまたピアノの伴奏と唄声が流れ始めた。その歌声は、心なしかさっき聞いたものよりものびのびしているようだった。

(たったあれだけの言葉でこんなに変わるのか……すごいな、生徒たちって)

 そう考えていると、ふと、先月から放課後にピアノレッスンをしている浅間の姿が思い浮かんだ。
 補習内容が原稿の授業に追いついたので、補習はひとまず止めにして、先週あたりからピアノだけを習いに浅間は音楽室に通っている。
 合唱部の練習は基本体育館なので、音楽室で両者が、あの浅間からピアノレッスンをせがまれた日のように、鉢合わせすることは滅多にない。

「おかえり~、こずえ先生」

 音楽室に戻ると、待っていました、とばかりに浅間が両手を広げ、ドアの前で待ち構えていた。その様子が飼い主の帰りを待ちわびている大型犬のように見えて、つい、苦笑してしまう。

「最近よく来るけれど、いいのか? 弟さんの世話はしなくて」

 最近足しげく音楽室に放課後通っているので、ふと気になったことを口にすると、浅間は少し寂しそうな顔をして微笑んでうなずく。

「先週から保育園入ったから。やっと近場に空きができたって母さんが喜んでた」
「そうか。よかったな」
「まあねぇ。俺に負担かけてたって親から謝られてマジ気まずかった」
「そりゃそうだろうな……」

 保育園に入ったら何かと忙しいだろうから、浅間が弟と遊ぶ時間も減っていき、彼は彼の時間を過ごせているから、放課後にこうして僕を待っていたりできるのだろう。
 でも、それならばもうわざわざピアノを習いに来る口実はないのではないだろうか? と、気付く。口止めの代わりに彼と交際することは出来ないから、その代わりの代わりでのレッスンだったのだから。
 約束を交わした当初から変わってしまった状況に気づいて、ピアノの前で立ち尽くしている僕に、「こずえ先生?」と、浅間が顔を覗き込んでくる。

「先生、どうかしたの?」
「いや、別に……」

 君と放課後にこうして会うのはもう最後かなと思ったら、何故かショックを受けてしまった、なんて言えるわけがない。それではまるで僕の方が彼を恋しがっているみたいじゃないか。
 口止めの約束は、また別にかわさなくてはいけないのだろうか。それこそ、金で、とか。
 そんなことを考えていると、「あのさ、先生」と浅間が言ってもたれかかっていた体勢から背筋を伸ばしつつもじもじとして口を開く。

「あのさ、俺まだピアノ習いに来ていい?」

 まるで小学生くらいの小さな男の子のような言い方で、大人びた顔つき体つきの彼に不釣り合いすぎて、つい、笑みをこぼしてしまう。

「ああ、いいけど……まだ弟さんに弾いてやりたいのか?」

 なんだか意地悪な訊き方をしてしまってしまったなと思ったけれど、浅間は少し考えてから「んー……それもまあなくはないけど……」と言い、更にこう続ける。

「なんて言うのかな……なんかさ、俺、楽しくて」
「楽しい?」

 うなずく浅間の目がきゅっと糸目になって、彼の感情を読み取れなくする。いま彼は本当に楽しいと言っているのか否か、わからない。
 もし前者ならば教師として喜ばしい限りだと思えるけれど……そうでなかったら?
 後者だったとしたら、僕は彼にまだ何かしなくてはいけないんだろうか。この身を差し出すような、何かを。

(でもそれは、教師として許されない。そんなことしたら、僕を傷つけたあの男と同じになってしまう)

 わかりきっている大前提を胸中で唱えつつも、同じ胸の中に目の前の彼のギャップに甘く締め付けられている想いも同居している。
 矛盾している自覚は大いにある。明らかにおかしいと自分でもわかるのに……どうして、止められないんだろう。

「ねえ、こずえ先生、ダメ? ピアノがこんなに楽しいなんて俺初めて知ったんだよ」

 ダメ押しをするように首を傾げ、顔を覗き込もうとしてくる浅間が近づいてくるのを、僕は顔を背けてかわす。

「ダメ、ではないけど……」
「けど?」

 自分で言葉を中途半端に切っておきながら、その先を考えていなくてうろたえそうになる。
 数秒ものすごい勢いで頭の中に考えをめぐらし、そうして導き出した言葉を答えとして差し出すために、僕は彼の方を振り返った。

「けど……付き合うとかは、ないからな。僕は先生で、君は――」

 ようやく絞り出せた答えが、馬鹿の一つ覚えのような言葉でしかなくて情けなくなる。その上、下手すれば浅間を傷つけかねない言葉でもあるのに、僕は差し出してしまった。
 それでも浅間はくすりと笑い、うなずいてくれる。

「――わかってるよ。俺が生徒だから、って言うんでしょ? こずえ先生のそういうきちんとしたとこ、俺、好きだよ」

 聞き分けの良い子どものような口ぶりに、胸が痛くなってしまう。自分で突き放しておきながら、なんて勝手なんだろう。
 お手本のような聞き分けのいい返事と、いつもの告白の言葉に安堵しつつも、心のどこかでガッカリもしている自分に気づかないふりをする。
 感情の読めない浅間の穏やかな糸目が、真相を見透かすように僕を見つめていた。


しおり