「合唱部、春日井先生のお陰で銀賞獲ったんですって? すごいじゃないですかー」
新人戦的なコンクールが終わった翌々日、浅間の担任の住吉から声をかけられた。
コンクールは銀賞に輝き、弱小な部が始まって以来の快挙だと部員たちはもちろん、顧問の貴船も泣いて喜ぶほどの騒ぎだった。
今朝の朝礼で、全校生徒の前で報告されたのもあって、やたらと同僚の教師から声をかけられる。僕は特に指導らしい指導をする立場にないのだけれど、どうやら貴船が「春日井先生のアドバイス通りにやったら、上手くいった」というようなことを言っているらしい。
住吉の言葉に僕は曖昧に笑って礼を言うものの、「いや、僕は特に何も」と答える。
「さすが音楽の先生のアドバイスは的を射るものだ、って貴船先生も言ってますよ。顧問代わってもらおうかな、って」
「いや、僕が顧問になっても生徒たちのモチベーションが上がりませんよ」
そうですかねぇ、なんて住吉は呑気な声を出しているけれど、実際、僕が合唱部の指導をしたところで、生徒たちがついてきてくれる気がしない。お堅いこずえちゃんで通っている僕の話なんて、説教としか思われないだろう。
そこまでを住吉に言う必要はないので口をつぐんでいたが、住吉はなおも言葉を続ける。
「合唱部に限らず、先生の補習のお陰で浅間も最近遅刻が減ってるんですよ。先生の授業も出席率上がってません?」
「ああ、まあ、そうですね……」
住吉の言葉を聞きながら出席簿のチェックを思い返すと、確かに最近の浅間は始業のチャイムが鳴る頃には教室に来ている。やはり弟を保育園に入れられたことが大きいのだろう。
「弟が保育園に入ったとか何とか言ってましたから、そのせいじゃないですかね」
「ああ、そうなんですか。ずいぶん春日井先生に懐いてるようですね、浅間は」
懐いているというよりも一方的に好意を向けられているんだが……とは言えず、「そうでもないです」と、苦笑し、次の授業で使う予定の教材を映し出した画面に目を戻す。
放課後に補習を行い、そのついでに始めたピアノレッスンの方が、最近はメインになりつつある。
平日の僕の時間がある日なので週に二回ほど、三十分から小一時間くらい課題曲にしている『ねがいのおほしさま』の弾き方を中心に教えている。
浅間は、手は大きく鍵盤を捕えやすいのだが、やはり運指に苦戦しているので右手で滑らかにメロディが弾けるようになるまで一カ月以上かかった。
(それでももう、最近ではゆっくりとなら両手でも弾けるようになってきたんだよな)
そのひたむきな姿勢は、普段の授業時間でも見られるようになり、あんなに遅刻ばかりしていたのが嘘のように毎回真面目に授業を受けている。
それは音楽の授業に限らないようで、だから住吉もこうして僕の影響で浅間が変わったというのだろう。
「年度初めの頃は、留年も視野に入れるか、なんて学年で言ってたんですけどね、こうも変わるなんてねぇ。春日井先生の指導力はすごい」
まるで自分の受け持ちじゃないみたいな住吉の他人事の口ぶりに、軽く苛立ってしまうのは、ただ僕に浅間のフォローを押し付けられただけでなく、自分たちの指導不足を棚に上げ、彼のことを落ちこぼれと決めつける先入観に苛立っていたからだ。
「僕は本当に何もしていません。合唱部のことにしても、浅間のことにしても、一言二言は口を出しましたが、それが金言だったなんて思っていません。生徒たちはもともと持っていた力を発揮させたに過ぎないんじゃないかと思いますよ」
住吉の呑気な言葉に苛立っていたとはいえ、ムッとしたままの顔を隠さずに、しかも先輩教師に口答えするようなことを言ってしまったのは得策ではなかった。
一応僕のことを褒められてはいたのだから、適当に礼を言って流せばよかったのに、何故か、食って掛かるようなことをしてしまった。
だけどどうしても、住吉やそのほかの教師の言動には、浅間を見下す感情が透けて見えていて我慢ならなかったのだ。
まさか言い返してくると思っていなかったのか、住吉はぽかんとした顔をしていたが、やがて軽く気分を害したように顔をしかめ、「ああ、そうですか」と言って自分の仕事に戻っていった。
妙に気まずい空気が僕と住吉の間に漂っていたが、じきに住吉の許に授業の質問に来た生徒が来たことであやふやになり、そのまま放課後まで彼と話をすることはなかった。
住吉との一件、とも言えないほどのことがあったからではないけれど、職員室が何となく居心地が悪かったので、授業準備と称して音楽準備室に向かう。
職員室のある管理棟の4階の南端にあるのが音楽室で、中庭を挟んで各学年の教室がある教室等があるきりなので、無駄に陽当たりがいい。そのせいか、冬に近い今でも昼間は暖房が要らないくらいだ。
だからなのか、最近浅間が弁当を持参して音楽室に入り浸っている。「もっとピアノの練習をしたいから。自主練」建前はそういう口実なのだけれど、実際のところ隙あらば僕を口説こうとしてくる。
「あ、こずえ先生~。どこ行ってたんだよ。俺腹減っちゃったよ」
「べつにここで待っていなくとも、他で食べればいいだろうに」
「そうじゃなくってさぁ、一緒に食べようよ。今日はね、鮭のおにぎりなんだ」
追い払おうとする僕の言葉なんて意にも介さず、浅間は準備室にごく当たり前のように一緒に入ってくる。
使っていないパイプ椅子を引っ張り出して座り、早速持参した弁当を広げる。先程の宣言通り弁当はおにぎりが6つに卵焼き、肉団子、ほうれん草のごま和えにプチトマトやキュウリが並ぶ。彩りも良く美味しそうに見える。
「へえ、美味しそうだな」
「でしょう? 俺5時に起きて作ったんだ」
「え? 作った? 君がか?」
眺めていた弁当から思わず顔をあげて僕が問うと、浅間は当然だと言うように、しかし得意げな顔でうなずく。
「だって俺、奏多の面倒見てたって言ったじゃん。だから家のことは結構できるんだよね。奏多のメシだって作れるよ」
「普通のご飯じゃないのか?」
「幼児食っていって、味が大人のより薄めだったり食材が小さかったりするんだよ」
「へぇ……」
一見チャラそうでクールな外見の割に、真面目でひたむきな性格のギャップは普段から感じてはいたが、まさか家事も育児もこなせる高校生だとは思ってもいなかった。しかも、小さい子ども用の食事も作れるなんてそうそういないんじゃないか?
「あ、いま意外だなって思ったでしょ? こいつチャラそうなのに、って」
「や、えっと……」
胸中を見透かされた気がしてバツが悪くなったのだが、浅間は気を悪くした様子はない。あの糸目になる顔で笑いつつも、少しだけ寂しそうな顔をする。
「俺が前チャラかったのは事実だし、格好も結局まだそんな感じだからそう思われても仕方ないよ」
「でも、ちゃんと弟さんの面倒は見ていたじゃないか。遅刻するくらいに」
「まあね。だけど、そんなの嘘くさいって全く信じてくれない先生もいるし、親が悪いって親のこと悪く言ってくる先生もいるからさ。仕方ないよ」
僕自身も、浅間の事情の真相を知るまでは児相案件じゃないかと思っていた。ヤングケアラーなんじゃないか、とも。そういう事情を抱えているから、チャラい格好をしているんじゃないかとさえ思っていたのは否定できない。
だけど、それを隠しもせず本人にぶつけていいわけではないだろう。そんなことを大人である教師がしていいわけではない。ましてや、真実を疑うなんて。
僕は、ひとりの大人としてなんと彼に言えばいいのか考えあぐねていると、浅間はそれまで寂しそうにしていた表情をパッと晴れさせて笑う。
「でもさ、こずえ先生が俺なんかのためにいろいろやってくれてるの、すっげー嬉しい」
「僕が? べつに、僕は何も……教師として当然のことをしているだけだ」
「先生って忙しんだろ? 部活とかあってさ。それなのに俺のために時間つくってくれてるって最近気づいて……じゃあ、俺もちゃんとしなきゃなって思えて」
「だから、最近授業にちゃんと出るようになったのか?」
まあ、奏多が保育園に入ったタイミングでもあったんだけど、と浅間は言い、それから静かで涼しげな眼で僕の方を見つめながら呟くように言った。
「たとえ、こずえ先生が俺と付き合う気がまだなくても、こうして弁当食ってくれたり、ピアノ教えてくれるんだったら、それもいいかなって思ってるんだ」
まっすぐな眼差しが微笑みをたたえてそう告げてくるのが、僕には眩しすぎる。あまりに僕のことを一心に想い過ぎているのがわかり、怖くなってくるほどだ。
これが、初恋の持つ勢いやパワーなんだろうか。きらきらしていて曇りのない感情。それを真っすぐに向けられているのが僕だなんて。
一種の名誉や誇らしさを感じながら、僕もまた浅間の目を見て小さく笑った。