浅間が『ねがいのおほしさま』をつっかえずに弾けるようになってきたのは、十二月の中旬ごろで、受験学年は追い込みに、そうでない学年は年末年始に目白押しなイベントに浮足立つ頃あいだった。
「奏多が最近サンタを覚えてきたから、今年はコスプレしてサンタやろうかなって思ってるんだ」
レッスンを終えて帰り支度をしていた浅間が、不意にそう言いだしたので何の気なしに顔を向けると、相変わらず弟のことになるととろけそうな顔をしている。
「何かプレゼントでもするのか?」
「一応ね。この前、店の手伝い頑張ったら小遣いいっぱいくれたから、それでおもちゃ買ってやるんだ」
手許から顔をあげてそんな健気なことを言う彼の姿は、やはり相変わらずチャラそうな跳ねた髪に涼しげな目元の整った顔立ちで、先ほどまでたどたどしく譜面をなぞっていた指先は、スマホをすいすいといじっている。
器ばかりが大人の姿をしている彼ことを、彼自身も自覚しているのか、クラスメイトの輪の中ではあくまでクールなキャラを演じているのも、変わらぬ姿から派生するイメージを裏切らないためなんだろうか。
(そんなカッコつけるような真似をしなくても、弟想いで真面目な君は充分にカッコいいんじゃないのか?)
その一言を口にするのは簡単だけれど、そう発したあと、浅間がどんな期待をもってこちらを見てくるのかが容易に想像できるので、僕はただ黙って彼の話を聞き流す。
「こずえ先生はクリスマスとか正月とかどうすんの? 実家帰ったりするの?」
「教師のプライベートを知ってどうするんだ」
「ただの好奇心だよ」
「僕のプライベートは、君の好奇心を満たすツールじゃない」
「好きな人がどうやって過ごしてるのか知りたいもんじゃない?」
浅間と知り合った当初なら、彼から“好きな人の~”と言われれば条件反射的に「そんなこと言っても僕は教師で、君は生徒だ」とか何とか言って突っぱねていた。応える義理も義務もないと思っていたから。
だけど、ここ最近、やみくもに突っぱねることにためらいを覚えるようになっている。応える義理や義務はないのはわかっているのに、だからと言って彼の好奇心とやらを無下にしていいのか、なんて思ってしまう自分もいる。
だから浅間の重ねられる言葉にすぐに切り返せず、口ごもってしまう。
「……そんなことを言って、自宅に押しかけられてもたまらないからな」
「あ、そういう手もあったか。ねえねえ、先生24日とか暇じゃない?」
「たとえ暇でも、個別に生徒に会う時間はない!」
余計なことを自ら言ってしまったらしいことに気づかされ、慌てて突っぱねてはみたものの、一度隙を見せてしまったのであまり効果がない。
浅間は僕が自宅に来るなと言ってしまったのを逆手に取り、「じゃあ、家じゃないとこでなら会える?」なんて訊いてくる。
「だから、どこであろうと、生徒と個別に会うことは出来ないと、何度言ったら……」
「じゃあ、学校なら?」
「……え?」
「学校の、音楽室とかならいいんでしょ? いままでもそうだったしさ」
「それ、は……」
校内であれば、他の教師や生徒の目があるのが前提になるので、妙なことは起きにくいかもしれない。でも、それは絶対ではないし、何より周りが信じてくれるかどうかがわからない。
いまはこうして補習の|体《てい》で放課後にレッスンをしているが、それだってずっと許される話ではないだろう。
それでもなお、浅間は僕とここで個別に逢って、特別な時間を過ごしたいというのだろうか。
「ねえ、こずえ先生。ここでコーヒーとかジュース飲むだけ。それだけでいいからさ」
「本当に、それだけいいと言うのか?」
「だって先生は、俺が生徒の内はどんなに好きって言っても、応えてくれないんでしょ? でも俺は先生とクリスマスっぽいことしたいから、せめて、一緒になんか食べたり飲んだりしたい。それくらいならいいでしょ?」
校内で、ただ二人で逢ってお茶をするだけでいい。それだけで本当に彼の心を満足するんだろうか。
触れたいとか、万が一にも押し倒されたりしないだろうか、と考えあぐねていてふと浅間のピアノの鍵盤の上に置かれた指先を見ていると、それが微かに震えているのが見えた。
普段、あんなに僕のことを好きだのなんだの言ってくるくせに……ただ二人きりで逢いたいと誘うだけで震えるほど緊張しているなんて。
本当に、彼はどうしても僕が持っている印象を覆してくる。ギャップがあるというだけでなく、誰も知らない一面を無防備に見せてくる。
もしそれが、僕のことを好きである気持ちゆえだとしたら――僕は、なんて罪深いことをしているんだろう。ただ一度しかない初恋の情熱に真正面から応えもせず、ただただもてあそんでいるようにしか思えない。
「ねえ、こずえ先生。いいでしょ? ほんの三十分でいいから」
手を顔の前で合わせ、祈るようにそんなことを懇願してくる浅間の姿に、僕はこれ以上突っぱねることができなくなってしまった。そうしてしまうには、あまりに彼はひたむきすぎて眩しい。
だから僕は、大きく溜め息をついて苦笑し、こう答えるしかなかった。
「いいよ。補習もレッスンも頑張ってきたご褒美だ。僕がお菓子と飲み物を用意するから、レッスンと同じ時間だけここで飲もうじゃないか」
僕の言葉を聞いた途端、浅間はいつもの糸目になる目元を輝かせて椅子から立ち上がり、傍に立っていた僕に抱き着いてきた。
「ありがと! 先生大好き!!」
クールな普段の姿が形無しだなと思えるほど、無邪気にそう言う彼の姿と仕草に僕は戸惑いが隠せず、とっさに突き放すこともできないでうろたえてしまう。
20センチ以上の身長差と浅間の長い腕に、しっかりホールドされてしまったことで小柄な僕は身動きが取れず、浅間の気が済むまでの間ぬいぐるみのよう抱き着かれるままになっていた。
鼻先に、若さにあふれた特有の甘酸っぱさをまとうにおいが香る。わずかに触れ合っている肌もまた弾けそうに瑞々しく、彼がいまこの瞬間、全身全霊で僕に恋い焦がれ、想いをぶつけているのがわかる。
初めての恋だから感情の加減がわからないだけだろう。そう冷淡なほど冷静に思っている自分もいるし、彼の想いの熱さと強さに打ちひしがれている自分もいる。
僕は、どうしたらいいんだろう。どうしたいんだろう――教師である前にひとりの大人である僕と、ひとりの人間としての感情を抱え途方に暮れる僕が、二つの矛盾する感情の間で揺れ動いたまま浅間に抱きしめられている。
振舞うべき行動がわからないながらも、ひとつだけはっきりしていることがある。それは、僕はいま、浅間の腕を振り払えないくらいに彼を受け止める気持ちが湧いていることだ。
その気持ちを何と呼んでいいのか、いまは言葉にしてはいけない。してしまったら、僕はきっと大人として教師としてダメになってしまう。
だから、いまはただそっと、覆い被さってくる背中を軽く叩きながらこう言うんだ。
「……浅間君、嬉しいのはわかったから……離れて」
僕がやっと言えた言葉に浅間はハッと我に返って慌てて放してくれた。一瞬寒さを感じるほど、彼は僕を強く抱きしめていたようだ。
少しインターバルを置いたところに佇む浅間は赤い顔をしていながらもいつになく嬉しそうで、その顔は弟の話をしている時のものとは違う甘さをしている。
「ありがと、先生。俺、すげー嬉しい」
糸目になる表情で微笑みかけてくる浅間を見上げながら、僕も小さく笑いかける。同じように僕も嬉しい気持ちがあったからだ。
その嬉しさをそのまま彼に差し出してしまうにはいまはあまりにお互いの立場が悪すぎる。それくらいは、浅間もわかっているはず。だから、ただここでお茶をしたいというのだろう。
いまはただ、子どもの遊びのような約束をして、いつだったか友人の伊勢谷が言っていたような、「好きな人と時間と場所を共有する」ことを叶えてやるしかない。
彼から向けられる無垢な想いに応えられないのなら、僕がするべきことはそれくらいしかない。
長く傾いていく西日の射し込む音楽室の中で、僕と浅間はただ見つめ合って小さな約束をした。