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「いきなりテレビの曲というのはハードルが高いから、これでどうだろう?」

 補習する内容が、どうにか現行の授業に追いつき始め余裕が出てきたので、ようやく浅間たっての希望である、ピアノのレッスンをすることになった。
 浅間の希望はテレビで放送されている、定番の子ども向けの曲ではあるけれど、曲を聴いた限りでは、ドレミが辛うじてわかる程度だという浅間にはまだハードルが高い気がする。
 だから、練習の定番曲でありつつ一応小さい子どもウケもするとよく聞く楽曲である、『ねがいのおほしさま』の楽譜をプリントアウトしたものを手渡す。

「え? これってどんな曲?」

 言われるであろうと思っていた質問に、僕は座っていたピアノでメロディを弾き始める。左右の運指は違うがゆったりとしたテンポで、ドレミが読めるのであれば練習を重ねればすぐに弾けるようになるだろう。
 色々な作品の挿入歌としても使われる屈指の有名曲なので、浅間もメロディを聞いたらどんな曲かわかったらしく、ああ! という顔をしてうなずいている。

「これ、奏多のメリーのオルゴールの曲だ。へぇ、こういうタイトルなんだ」
「まあ、子ども用のおもちゃとかオルゴールによく使われている曲ではあるかな。これなら、テレビの曲がでなくても弟さんは喜ぶと思うけれど」
「そうだねぇ、これもいいかも。んで、これ出来たらレベルアップして、この前言ってた曲教えてくれる?」

 どうしてもその曲が弾けるようになりたいのか、それともこの曲ができた以降も僕に付きまとうつもりなのか、真意を測りかねて眉をひそめていると、浅間はまた唇を尖らせる。

「そんな、もろに嫌そうな顔しないでよ。俺がこずえ先生のこと好きって知ってて、わざとそんな嫌そうな顔する?」
「べつに、そういうワケじゃ……」
「え、じゃあ、俺のこと好きになってくれた?」

 嫌っているわけではないが、彼の好意に応えようと思っているわけではない。それとこれとは話が別だし、そこをはき違えてしまうとお互いの立場が危うくなってしまう。
 だから僕はこほんと咳払いして居住まいを正し、ずいずいと近づきながら迫ってこようとしている浅間の前に手を広げてかざし、押し止める。

「浅間君、僕はあくまで君の弟さん想いなところを買って、レッスンをすると言ったんだ。君の気持ちに応えようと思っているわけじゃない」

 押し止めるために広げている手を取り、口付けんばかりに頬に寄せて引き寄せながら、浅間は仕草に似合わない無邪気な顔をして笑う。

「っふふ、相変わらずこずえ先生、容赦ないね」
「い、いいから、放しなさい! 誰かに見られたらどうするんだ!」
「大丈夫だよ、ここ遠いから誰も来ないよ」
「油断大敵と言うだろ!」

 うっかりすれば抱き寄せられそうなのを振り払い、僕はピアノいすから立ち上がる。自分でもわかるほど頬が熱いけれど、それを気にして、これ以上動揺した姿を彼に見せるわけにはいかない。

「ほ、ほら、今日はレッスン受けるんだろう? さっさとピアノの前に座って!」
「はぁい」

 慌ててイスへ促すと浅間は小さな子どものような返事をし、機嫌よく譜面を並べ始める。
 僕はなんとか体勢を立て直し、溜め息をついてからさっそく指導を始めた。

「浅間君はドレミが読めるということだから、譜面通りにまずは右手でメロディを弾いてごらん。ゆっくりでいいから」

 譜面の上段にあたるメロディの音符には音階が振ってあり、その通りに弾けば一応旋律が奏でられるはずだ。
 左手は伴奏になるので右手と動きが別になるのでいきなり同時にやらせるのは難しいだろう。
 だからまずは耳馴染みのあるメロディの方をやらせようとしたのだが、これが思った以上に苦戦している。彼は、ドレミは読めるけれど、それが鍵盤の位置と一致していないようなのだ。

「えっと、先生、この井戸の井みたいなやつの音はここで合ってる?」
「それはシャープ。半音上がるから、ドの鍵盤の右隣の黒い鍵盤だ」
「これ?」
「そうそれ……ああ、ちょっと待って、一緒に弾いた方がわかりやすいかな……」

 ピアノに向かっている浅間の横に立ち、メロディをさらっているのを見守っていたのだけれど、あまりに覚束ないので、彼の手に僕のを重ねて鍵盤の位置の捉え方や運指の仕方なども同時に教えることにした。
 僕は浅間のすぐ隣に座り、彼の右手に僕のを重ねながら指を動かし、コントロールするように鍵盤のメロディをなぞらせ始める。僕の手よりはるかに大きな浅間の手に触れると思っているよりも骨っぽく、僕よりもはるかに指が長いことに気づかされた。
 重なり合う僕の指の動きに押されるように合わせ、ぎこちなく動いて奏でられる旋律は止まりそうなほどたどたどしい。
 曲の頭からゆっくりゆっくり一音ずつ確かめるように弾いていく内に、隣り合う浅間の頬が上気していくのを感じた。

「わかったかな? こういう感じにすごくゆっくりでいいから音を1つ1つ拾って――」

 一通り弾き終えたところで浅間の顔を窺うと、その顔は射し込む夕日のように赤く染まっていた。さっきまで、僕のことを挑発するように手を取って、引き寄せようとしていたくせに、まるで小さな男の子のようで、僕の方まで恥ずかしくなる。
 そして同時に、彼が僕に対していだいている気持ちがあって、それが初めての恋であることを思い出す。

「あ、は、はい……あざ、っす」

 小さな声で雑なお礼を言い、浅間はパッと手を引っ込めてうつむく。まるで僕の方が彼を惑わすようなことをしてしまったようなリアクションで、こっちがうろたえそうになってしまう。
 だけど、ここで僕までうろたえるような態度を取ってしまったら、レッスンにならないから、僕はあくまで平静を装って教師らしい振る舞いをする。

「じゃ、じゃあ、一人でやってみてごらん。つっかえてもいいから」

 僕の言葉に浅間はこっくりとうなずき、先ほどよりもずっとぎこちなく止まりそうなスピードで『ねがいのおほしさま』の冒頭を弾き始めた。
 その様子を窺いながら、僕はそっと彼のそばから少し離れて後ろへ回り、大きいのに小さく屈めた制服姿の背中を見つめる。
 なんの穢れも傷もない、まっさらなそれには、僕の隣には自分こそという気負いのような気概にあふれていて眩しい。
 幼ささえある、若さゆえの熱く激しい恋情が僕に向けられているのだろうか。それを信じて受け入れてしまうには、あまりに僕も彼もいまの立場では許されがたい行為だろう。
 僕は教師で、彼は生徒。僕らの間にある壁は、一方の強い想いだけで越えていいものではないはずだ。

「あ、間違った。ねえ、先生、ここどうやって指動かしたらいい?」

 越えられないものを改めて確かめている時に不意に浅間に声をかけられ、僕は我に返る。
 浅間は僕の方を振り返り、手招きしつつ譜面を指して教えを請おうとしていた。
 もしかしたら、彼はさっきのようにまた手を重ねて欲しいと思っているかもしれないと一瞬考え、僕はあえて彼の手を取らずに僕だけで弾いて見せる。いま彼に触れることで自分の感情がかき乱される気がしたからだ。
 ゆっくりと、だけど浅間よりもはるかに滑らかに奏でられたメロディに、浅間はどういう顔をしているだろうか。そんなことを考えながら、僕は見本としての演奏をゆっくりと繰り返す。

「……って感じなんだけれど、わかる?」

 弾き終えて振り返ると、浅間は食い入るように僕の手許を見つめていて、やがて僕の視線に気づくと、パッと顔を照れ臭そうにまた赤らめて小さくうなずいて笑う。

「……俺、こずえ先生の弾くピアノ、好きだなぁ」
「君は僕が絡むなら何でもいいのか?」

 僕がすること成すことに好きだという言葉を口にしている気がして、呆れながら言うと、浅間は更に顔を赤くして、「そういうワケじゃ……」と、うつむく。
 整った顔つきと大きな身体をしていて、仕草も口調も僕なんかよりうんと大人びて見えるのに、彼はまだまだ17歳で、いましている恋が初めてなんだと改めて気付かされる。

(――少年と青年の狭間の年頃の彼に、僕は恋をされているんだ)

 そんな当たり前を、ふとした時のこういう仕草や態度で突き付けられ、胸が痛むように高鳴るのはどうしてだろうか。不器用でありながらひたむきに旋律を追う指に触れて欲しくなってしまう僕は、教師としてどうかしている。

「ねえ先生、俺、ピアノも先生も好きだな」

 そんな残酷とさえ思える無邪気な言葉を、夕陽に包まれる音楽室で浅間は容易く口にするのだった。


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