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 伊勢谷からの話を参考に、欠席しがちだった授業にちゃんと出席してもらいつつ、放課後にいままでの補修と個人ピアノのレッスンをして、とにかく同じ時間と空間を分かち合えればそれで万事解決――そう思っていたのだけれど、そう単純に物事が明確なら苦労はしない事を思い知る羽目になる。

「ねえねえ、こずえ先生。先生はどういう人が好み? やっぱ、マッチョみたいなガタイが良いやつとかが好きなの?」

 放課後に補習とレッスンをするようになって今日で1週間。浅間は遅刻癖があるチャラいように見えて真面目なやつかもしれない……と、見た目から来る印象を変えようとしていたのに、そうではないらしい。

「浅間君、いまは補習中で生徒が君ひとりきりと言っても、授業中であることに変わりないんだよ。無駄口叩くほど補習時間も期間も伸びるよ」
「世間話だよぉ、こずえ先生ぃ。コミュニケーション取ろうよぉ」

 教師としてみた目で人を判断してはいけないと生徒に教えつつも、ついこの間まで彼を誤解していた、と反省していた自分の人の好さにあきれる。

「コミュニケーションは授業でも取れる。無駄話するだけが交流じゃない」
「先生の好みを知るのは、俺にとって無駄話じゃないんだけどなぁ」
「知ってどうするんだ。授業に一切関係ないだろう」
「授業に関係ないことだって人生に大事なんじゃない? 人生は無駄でできてるって言うじゃん」

 たかだか17の子どものくせに何を生意気なことを……と、僕がテキスト越しに横目で浅間を見ると、机に頬杖をついたままの彼は、僕よりもうんと大人のような余裕ある笑みを向けていた。まるで、僕が彼に向けていた先入観を改めるべきか、迷っているのを見透かすような目をして。
 涼し気な浅間の目許は、笑うと糸のように細くなってその表情がわからなくなる。本当に彼が心から笑っているのか、そうでないのかが隠れてしまうのだ。それはまるで、この前マッチングアプリで出会ってきた男にも似ているようで、少し違う。
 マッチングアプリでの出会いは、僕のことを身体だけの関係で済ませられる相手かどうかを見極めようとしていて、それを実際に行動に移してきた例が先日の男なんだろう。
 でも浅間は、そういうやつらと似ているようで、違って見える。僕を見定めるような目をしていながら、もっと奥のところを探るような目を向けてくる。その眼差しは迷いがなく、まっすぐで恥ずかしくなるほど混じり気がない。

「……知ったかぶったことを言わない。ほら、次の作品を流すからよく聴いていて」

 向けられている視線から背を向けて交わしながら僕がそう言ってCDの曲を流し始めると、浅間はつまらなそうに唇を尖らせ、渋々という様子で鑑賞に神経を戻していく。
 ピアノの旋律が流れ始めると僕はホッとして息を吐いて、頬杖をついて曲に聴き入っている浅間を盗み見る。
 自他ともに童顔である僕よりも、大人びて見える鼻筋の通った涼しい目許の大人びた顔立ちに、最近また染め直したのがわかるこげ茶の長めのはねた毛先。頬杖つく手は尖ったあごの下に宛がわれ、その指先は大きくて長い指でピアノを弾くにはうってつけだろう。
 実際、補習と同時に始めたピアノレッスンの際、浅間は|運指《うんし》の呑み込みが早い気がする。やはり動かしやすく鍵盤を捕えやすいところが大きいのかもしれない。

「先生、感想書けたよ」
「ああ、じゃあ持ってきて」

 受け取った感想のレポートを僕が確認している間、浅間はすぐ傍に立っていることが多く、その時僕に向けられている目は、やはり何かを期待するものが過分に含まれている気がしてならない。

「……そういう目で見ても、成績に贔屓はしないよ」
「わかってますよぉ。いいじゃん、好きな人を見つめるくらい」
「だから、好きだと言われても、いまは応えられないと言ってるだろ」
「でも、好きでいることはいいでしょ? 先生、かわいくてきれいな顔をしてるんだもん」
「……そういうのは、加点の対象じゃないからな」
「ちぇ。」

 僕の忠告に、屁理屈で返してくる辺りが子どもだなと思うのだけれど、その子どもじみた言動が、大人びた見た目とギャップがあって、うっかり僕の心が揺らぎそうになる。揺らいで、彼が期待する何かを、ほんのわずかに応えてやりたくなってしまう。そんなこと、絶対に許されないのはわかりきっているのに。
 だからせめてもの足掻きに、僕は視線を外しながらこう答える。

「まあ、他人の思想に他人がとやかく言う権利はないことではあるな」

 頬を赤らめないように細心の注意を払いながら、僕はなるべく何でもない顔をして言ったのだけれど、浅間は一瞬呆気にとられたように目を丸くし、そしておかしそうに笑う。
 笑われるようないわれはないのに、と僕がムッとした顔をすると、浅間は笑いながらその理由をこぼす。

「っはは、こずえ先生らしい理由。そういうとこ、好きだなぁ」
「べ、べつに君に好かれようと思って言っているわけじゃない」
「そうなの? 俺の気を惹こうとしてるのかと思ってた」

 くすくすと笑いながらそう言ってくる浅間にテキストを投げつけたい衝動にかられたのをグッと堪え、「そうじゃない!」と思わずムキになって返すと、浅間はその涼し気な目許を細める。

「先生がちゃんと先生してるとこ、俺、すっごい好き」

 細められた目は微笑んでいるようでいて、じっくりと獲物を狙う肉食獣のにらみにも見える鋭さがある。捕らえられる――そんなぞくりとする色気にも似た、だけどある種の恐怖を僕は感じた。
 色気と恐怖と、ほんのわずかに混じる無垢で剥き出しの感情。初めて誰かに恋をしたという浅間から向けられる想いは、恋愛経験知の低い僕には持て余すほど重く熱い。
 だけどその熱さが、あの夜に傷つけられたままの僕の胸に、心地よくも感じてしまうのはどうしてだろうか。彼は、僕の秘密を知る忌々しささえ感じる存在であるはずなのに。

「こずえ先生、次何すんの?」
「あ、ああ……そうだな……『からたちの花』の歌のテストをしようか」
「歌のテストって先生がピアノ弾いてくれるんだよね? 毎回?」
「ああ、そうだよ」
「それなら、俺、最初から授業出たいな」
「そうじゃなくても出てくれ、浅間君」

 生徒の行動の原動力に、自分が含まれるのは教師冥利に尽きると言えるかもしれない。でもそれが、純粋と言って良いのかわからない理由が含まれているとしたら、どう受け取ればいいのだろう。

「歌詞覚えた方がいい? その方が点数上がる?」
「まあ、そこは自分で考えて」
「えー、教えてよ。俺とこずえ先生の仲じゃん!」
「そういう特別扱いはしないと言ってるだろう」

 少し甘やかしそうになると、生徒というのはすぐに嗅ぎつけてくるものなんだろうか。目ざとい様子で期待のこもった視線を向けてきた浅間に、にべもなく応えると、たちまちに肩を落とす。その大袈裟な様子はクールに見える見た目が形無しになるほどだ。
 クラスの友達の前では明るくさわやかで、どこかクールなキャラクターで通っているようで、廊下ですれ違う時はじゃれ合う同級生たちを傍で見守っているような感じだ。
 だけど僕の前では、年相応より少し年下の甘え方をしてくる気がするのだけど、僕の思い過ごしだろうか?

「でもさ、補習してくれるのって特別扱いなんじゃないの?」
「どういう思考回路でそうなるんだ。君はただ出席率が悪いからなんだからな」
「えー、俺が好きだから特別授業してくれてるのかと思ってた」
「だから、なんでそうなるんだ」

 楽観的というか、ポジティブすぎる浅間の言葉と思考に呆れはしつつも、怒る気にはならなかった。少し前なら、くだらないことを言うな、とか切り捨てるようなことを言っていた気がするのに。苦笑いをして軽く受け流す程度しか出来ないけれど、冷ややかな視線を投げていた頃から比べれば、随分違うんじゃないかと思う。
 とは言え、僕の中の自己申告のような自覚症状だから、宛てにはならないし確証もない。ましてや、彼から影響を受けているなんて思って良いのかもわからない。

「ほら、練習を見てやるから譜面をもって起立して」

 過ぎる考えを打ち消すように浅間に声をかけピアノの前に座る。深呼吸をして奏で始めた僕の旋律に、大きく息を吸い込んだ若々しい声が重なっていった。


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